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2017・9・30 (土
千穂(国見ヶ丘・高千穂峡・高千穂神社・天岩戸神社)~阿蘇~黒川温泉~九重夢大吊橋~湯布院
  

大きな竹ざるに少しずつ並べられた地元の伝統的なお料理が程よい食欲を誘ってくれ、
番頭さんの刈干切唄(かりぼしきりうた)も添えられた高千穂の宿の朝食でした。
背丈ほどの山の草を大鎌で刈って束にして積み上げ、牛馬の餌として保存する秋の農作業の労働歌の刈干切唄は、
高千穂が発祥の地とされ、毎年、この時期に「正調 刈干切唄 全国大会」が開催されているそうです。

7時からの朝食後、8時に宿を出発して、町の中心から西へ3.5kmに位置する国見ケ丘へ向いました。



国見ケ丘(標高513m)の眺望


「阿蘇の涅槃像」を遠望

阿蘇山行幸遥拝之所

神武天皇の孫、建磐龍命(たていわたつのみこと)が筑紫の国統治の命を受けた折に国見をしたと伝えられる国見ケ丘は、
東に神話伝説や史跡を多く残す高千穂盆地、西にギザギザ尾根の根子岳を顔、続く高岳・中岳・烏帽子岳・杵島岳を身体に見立て、
「阿蘇の涅槃像」と称される阿蘇五岳や外輪山、
北に九州山地主峰の祖母山(標高1756m)、南に天孫降臨の地、二上山へ続く椎葉の山々へと連なる優れた眺望で、
2011年にミシュラン・グリーン・ガイドの一つ星に選ばれています。
秋の早朝に見られるという雲海には恵まれませんでしたが、
「阿蘇山行幸遥拝之所」(多分・・・)とかすかに読める古びた石碑が神話の地に風情を添える絶景を堪能した朝となりました。



金毘羅大権現

瓊瓊杵尊像(ににぎのみこと)

金毘羅大権現の鳥居が中世の修験道の名残を見せる丘の上には、
高天原から降りて、地上を支配することになった天照大神の孫、瓊瓊杵尊神話に因む「日向風土記逸文」碑もありました。
雲が深くたちこめ、昼も夜も分からない程に暗い日向の地へ降り立ったににぎの元へ二人の里人が現れ、
「御手で千の稲穂を抜いてモミにし、四方に投げ散らせば、きっと闇が晴れるでしょう」と告げた通りにすると、
たちまち闇が解け、晴れ渡ったことに因んで、この地が「智穂」(=千穂)と名付けられ、
高千穂と呼ばれるようになったと伝えられています。

古事記や日本書紀にも登場する天孫降臨の舞台となった高千穂峰が、霧島連山の高千穂峰か、こちらの高千穂町であるかは、
いまだ江戸時代以来の論争が決着をみないようですが、
「おそらく古代の語り部から、中世の山伏、信仰心の篤い高千穂の里人に至るまで、
こぞって造りあげたのがこの高天原の聖地ではなかったか。
・・・高天原がどこにあるか私は知らないけれども、はるか遠くの国から渡来した民族が、祖先の事蹟を伝えるために、
風光明媚な高千穂の地をえらんだとしても不思議はない。逆に考えれば、高千穂の風景が、
あの壮大な神話を造りあげたともいえよう。」と白洲正子の言う(「名人は危うきに遊ぶ」)
美しい景観が広がる高千穂の郷でした。


    
ツリガネニンジン                     ツルボ                          ヒヨドリバナ  


高千穂峡 「真名井の滝」

国見ケ丘を出て、9時前に高千穂峡に到着しましたが、車を止めた駐車場で最初に入って来た情報は、
台風18号の大雨で川底に土砂が堆積したために遊覧ボートは利用できないということでした。




川から峡谷を見上げる展望は断念して、土砂撤去作業が進められている様子を御橋の上から見ながら、
高千穂峡遊歩道へ向かいました。
高千穂峡は約12万年前と9万年前の噴火による阿蘇カルデラを起源とする火砕流堆積物が五ケ瀬川を侵食して出来た渓谷で、
昭和9年(1934)に国の名勝・天然記念物、昭和40年(1965)に祖母傾国定公園の指定を受けています。



久太郎水神

おのころ池

高千穂峡を貫流する五ケ瀬川流域の要所5カ所に配された5人の兄弟水神の一人、
神橋久太郎水神を祀る真新しい鳥居が遊歩道の入り口に立っていました。
その右手のおのころ池には天孫降臨の折、天村雲命(あめのむらくものみこと)が水がなかったこの地に水種を移した所、
天真名井から水が湧いたという神話が伝わり、そこから流れ落ちた水が真名井の滝となって、
高千穂峡のシンボル的な景観として、日本の滝100選に選ばれています。


  
  おのころ池のチョウザメ               田んぼでの仕事帰りの?アイガモ集団


月形

鬼八の力石と仙人の屏風岩

溶結凝灰岩の峡谷には見事な柱状節理や、神話と結びつけて伝承された様々な造形が見られました。
左の月形は、乱暴者のため姉の天照大神を嘆かせた素戔嗚尊が高天原を去って出雲へ行く前に、
所払いとお詫びの証に彫った三日月で、現在は崩落していますが、江戸末期の記録には姉神を表す日形もあったと伝えられています。
神武天皇の兄である高千穂神社の祭神、三毛入野命(みけいりのみこと)が高千穂郷一帯で悪行を働く鬼八(きはち)を退治した時、
重量200トンの力石を投げつけて鬼八が力自慢をしたと伝えられる力石や、
峡谷に連なる高さ70mの屏風面を形成している仙人の屏風岩と呼ぶ柱状節理などが見どころとなっていました。



7km続く高千穂峡のハイライトとされる真名井の滝を中心にした30分ほどのミニ・ハイキングをした後、
高千穂神社へ向かいました。




    

高千穂神社は三毛入野命(みけいりのみこと)が、東征の途中から高千穂の地に引き返し、
神籬(ひもろぎ=仮説祭壇)を設けて、天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に始まる日向三代を祀ったことが始まりとされています。



高千穂神社拝殿

    

小殿が併設された拝殿につながる五間社流造の本殿は、安永7年(1778)に建て替えられた国指定の重要文化財ですが、
特に目を引かれたのが、廻縁の脇障子の前に置かれた小さな神殿や鬼八退治の彫像でした。
    鬼八を始めとする荒振神(あらぶるかみ)を退治し、農産業の道を開いた三毛入野命は篤い信仰を受け、
神道祭祀の原型をとどめた鬼八退治に因む猪懸祭が毎年12月3日に行われているそうです。


前の夜に岩戸神楽を鑑賞した神楽殿


夫婦杉

神社創建時の鎮石

高千穂八十八社の総社とされる高千穂神社を後にして、町の中心部より北東に7kmに位置する天岩戸神社西本宮に立ち寄りました。



天岩戸神社入り口の鳥居には高千穂神社拝殿と同じく、「七五三縄」と呼ばれる注連縄(しめなわ)が張られていました。
この7・5・3本の藁茎を下げた注連縄は、天照大神が再び天岩戸にこもらないように張り巡らせた縄に由来すると言われています。



神門

社殿

岩戸川沿いに建てられた天岩戸神社の創祀年代は不詳ですが、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)によって鎮祭されたと社伝が伝え、
東本宮は天照皇大神、西本宮は大日孁尊(おおひるめのみこと=天照大神)を主祭神としています。
岩屋をご神体とする天岩戸神社には本殿がなく、神門を入ると、対岸の天岩戸に向き合うように社殿が設けられていました。



神楽殿と古代銀杏

御神木 招魂の木

神楽殿前に長野県諏訪と2カ所にしかないと言われる古代銀杏(イチョウ)、社殿前に天岩戸の前で天鈿女(あめのうずめ)命が
天岩戸の前で枝を持って踊ったと伝わる招魂の木(オガタマノキ)が植えられていました。


    
             太宰府の竈門神社で撮ったオガタマの実                     葉・実ともに変わった形の古代銀杏

 

社務所へ申し込んで、社殿の後ろ側へ入り、岩戸川の上の道から天岩戸を遥拝する案内をしていただきました。
かつては洞窟だった天岩戸は、今は生い茂る木に隠れて、形も判然としなくなっているようでしたが、(撮影禁止)
天孫が高千穂に降り立ち、稲に象徴される日本の農業を守って来た歴史を語る若い神官の誠実な語り口が印象的でした。


祓所

古神札納所と「道中安全」石灯籠


石灯籠の上のふくろう

岩戸に隠れた天照大神をめぐって八百万神が神集神議りを行ったと伝えられる天安河原の見学は省略して、
11時前に、石灯籠の上のふくろうに「道中安全」を祈られながら?阿蘇方面へ向かいました。



阿蘇山 根子岳

次の目的地とした阿蘇山は、昨年4月の熊本地震や10月の中岳第一火口噴火などによるう回路が多く、
カーナビが的確に機能せず、ケーブルカーなどへ向かう内側の道に入ることができないまま、
西側を大きく半周、1時間半ほど走って、12時半にJR阿蘇駅前に到着しました。



阿蘇駅

道の駅 阿蘇



3道の駅 阿蘇の「坊中亭」で地鶏蕎麦やカレーなどのランチを取り、お土産の買物などをした後、
この日の宿泊地・湯布院へ向けて1時に出発、やまなみハイウェイを北上しました。


 

やまなみハイウェイから阿蘇山を展望

黒川温泉


1時間ほど走った所で、阿蘇山外輪山の一画にある黒川温泉に立ち寄りました。
温泉としては異例のミシュラン・グリーンガイド2つ星を獲得している温泉街は、山間の鄙びた風情が人気を呼んでいるようです。


阿蘇山遠望

    
やまなみハイウェイ


3時頃、九重“夢”大吊橋に到着しました。
平成18年(2006)に完成した九重“夢”大吊橋は、歩道専用としては日本一の高さを誇る長さ390m、高さ173m、幅1・5mの吊橋です。
駐車場から橋を見下ろした時の人の多さに気持ちが引いてしまい、渡るのをやめようと思ったのですが、
先に渡った友人2夫婦から、後で自慢をされるのも面白くない・・・と、結局、千円で入場券を買って、渡ることになってしまいました。



結果、足下に筑後川の源流域を流れる鳴子川渓谷の原生林が広がり、四季折々に織りなす大自然の変化は
訪れる人を魅了してやまず、「天空の散歩道」にふさわしい文句なしの絶景です、という程の感動は得られませんでしたが、
虹がかかった滝の景観は素晴らしいものでした。
「な~んだ、せっかく虹を自慢しようと思っていたのに、来たのぉ?」と途中で会った友人から言われたことはいうまでもありませんので、
千円滝とでも名付けておきましょう?



揃って!橋渡りをした記念に

           

湯布院 山灯館



4時半前に到着した湯布院の宿「山灯館」でお茶菓子をいただいて一服入れた後、早速、町見物に出掛けました。


大分県のほぼ中央に位置する湯布院町は平成17年(2005)年の町村合併によって由布市となり、
湯布院町という自治体は消滅していますが、通称として、湯布院も使われることが多いようです。
宿近くの湯の坪街道を少し散策しましたが、昔の道筋を残す街道も、
増加した東南アジアの観光客への対応が目立つ町並みとなり、日本人にとっては残念なことになっている印象でした。


金鱗湖

 
明治17年(1884)に大分の儒学者、毛利空桑が露天風呂に入って湖面を眺めている時に、
飛び跳ねた魚のうろこが夕日に映えて金色に輝いたことに因んで名付けられたと伝わる金鱗湖は、
長辺100m、短辺70m、最深2m、ハエ川の温水と天祖神社境内と湖底深部の湧水からの水供給を受けて、
湯布院を流れる大分川の源流となっています。



  

5時15分頃宿へ戻り、部屋へ案内された後、温泉に入ったり、夕食までの時間をゆっくりと過ごしました。
系列の宿の大浴場も利用可能と言われましたが、かなり混みあっていた田之倉の磐風呂はやめ、
山灯館の檜風呂へ行くと、相客はなく、大浴場を独り占めすることができましたので、
写真を撮ったり、由布岳(1584m)を眺めたり、のんびりと寛ぐことができました。


  
     宿の庭のリョウブの花とハクウンボクの実



    

   

料理宿をキャッチフレーズとする山灯館の本格的な京風会席料理は目も舌も充分に楽しませてくれ、
期待した通りの湯布院の夜を過ごすことができました。
宮崎、熊本、大分と長いドライブで、盛沢山だった一日が、お疲れ様とありがとうで締めくくられました。


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