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8 Jul.2013
Parma

宿泊した「STARHOTEL DU PARC」は1919年に建築、1980年まで操業した「パルマの巨大冷蔵庫」と呼ばれた氷工場を
改装した歴史的建物で、日の丸が飾られていることから日本人の利用客が多いことが窺われるホテルでした。
正面ガラスパネルの内側が客室のベランダになっていて、ネオクラシックと現代が調和した外装とアールヌーボーの内装が趣きを持ち、
建物背面には工場時代の面影を留めているのが見受けられます。


                             

ロビーにはナポレオン1世の2番目の妻で、1815年のウィーン会議によって、パルマ公国の1代限りの統治を委託された
ハプスブルク家フランツ2世の皇女マリー・ルイーズとナポレオン1世の肖像画が飾られていました。

BC2Cのローマ時代にパルマ(=丸い盾)と名付けられた植民都市は、
中世まではマントヴァなど北イタリアの他の街と同様の歴史を辿りますが、
14〜15Cにミラノのヴィスコンティ家とスフォルツァ家に支配された後、1499年にミラノ公国と共にフランスの占領下に置かれ、
スペインと同盟を結んだ教皇と対立した時代を経て、ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世がカール5世と和解して、
息子ピエール・ルイージを1545年にパルマ公として送り込んで以来、ファルネーゼ家一族を君主としたパルマ公国の時代が続きました。
その後、ファルネーゼ家に男子の世継ぎが途絶え、エリザベッタ・ファルネーゼとブルボン家フェリペ5世の息子カルロス1世が結婚して、
1730年に公国を継いで以来、フランスの影響を強く受けることになっていきます。

1796年からのナポレオン支配の時代に皇妃マリー・ルイーズは女公(La Duchessa) 就任式典を簡素にして社会事業に寄付したり、
1821年にナポレオンがセントヘレナ島で没した後には、結婚したナイペルク伯と共に公共事業などに善政を行ったことで、
国民からの深い敬愛を集めていったそうです。
マリー・ルイーズ没後、一時ブルボン家に戻った主権は長続きせず、サヴォイ領に統合された後、イタリア統一を迎えますが、
フランス文化の影響を受け、美食と共に「芸術の街」と賞される都市の景観は今に受け継がれています。
               (参考:「物語イタリアの歴史 解体から統一まで」藤沢道郎著 中央公論新社刊)

因みに「パルムの僧院」はナポレオン軍の士官であったスタンダールがファルネーゼ家の古い記録を元に、
19Cに時代を置き換えて創作したもので、僧院がどこであるかは特定されていないそうです。



9時過ぎに街の観光に徒歩で向かい、ホテルの裏出口を出ると、ファルネーゼ時代にドゥカーレ宮に接して造られた
18haもの広大なドゥカーレ庭園がありました。
16Cにイタリア式、18Cにフランス式と様式を替えた庭園は、マリー・ルイーズの時代にさらにイギリス式に替えられて、
一般市民に公園として開放されるようになったそうです。
マリー・ルイーズが愛したという「パルマ・イエロー」の夏の宮殿も残っていました。



現地ガイドのマウラさん

  

タイザンボク、セイヨウボダイジュ、マロニエ、ブナ、カエデなどの樹木が繁り、所々に彫像が置かれて歴史を感じさせる公園は
市民の良い憩いの場所となっているようでした。

渇水気味のパルマ川

ヴェルディ橋

ピロッタ宮殿

街を南北に流れるポー川支流のパルマ川にかかるヴェルディ橋を右岸(東側)へ渡ると、
ラヌッチョ1世(在位:1592−1622)の時代からファルネーゼ家の公邸とされたピロッタ宮殿がありました。
宮殿内にはヨーロッパ最古の劇場のひとつとして有名な1618年建造のファルネーゼ劇場があり、
国立考古学博物館、ボドニー美術館、図書館なども公開されていますが、
今回は月曜日休館にあたってしまい、フリータイムのプランからも除外せざるを得ませんでした。


第2次世界大戦の時、パルチザン運動の中心地のひとつであったパルマは連合国側からの爆撃を受け、
ピロッタ宮殿も破壊を免れなかったそうです。
1945年4月の街の解放に貢献したパルチザンを称える像が再建された宮殿の前庭に立っていました。


      

ドゥカーレ劇場を前身とし、マリー・ルイーズが1829年に開場したレージョ劇場(=王立劇場)の前には、
パルマ近郊のブッセートで生まれ、生誕200年を迎えたヴェルディの秋の記念公演の看板が置かれていました。



サンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ教会



レージョ劇場の筋向いに建つサンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ教会は、
民衆の信仰を受けていた聖母像を飾るために1521年から建築されたもので、
ラファエロやミケランジェロに学び、マニエリスムを代表する画家となったバルミジャーノ(1503−1540)の天井アーチ装飾や、
クレモナ派の画家ベルナルディーノ・ガッティが1570年に描いた聖母被昇天の天井画があるクーポラがありました。
(内部写真は午前中の観光後のフリータイムに写したものです。)



ガリバルディ広場


街の中心であるガリバルディ広場には総督邸があり、その前にイタリア統一運動の立役者の一人のガリバルディ像が立っていました。
広場のカフェに結婚式?と思われる一団が陣取っていましたが、花嫁さんではなく、大学の卒業祝いということでした。
車や人の往来が激しいレプブリカ通りを挟んで古びた市庁舎の建物も見えました。



慰霊時計塔

ガリバルディ広場から車の通らない商店街を北へ向かい、第2次大戦の慰霊時計塔が見える手前の道を右折すると、
薄紅色のヴェローナ産大理石の外観が美しい、風格ある洗礼堂が前方に見えて来ました。



司教館

ドゥオーモと鐘楼

1辺が7〜80mほどのドゥオーモ広場には西側に司教館、東側に1092年に建設が始まり、
1117年の地震で工事が遅れた後、1281年に完成したドゥオーモと、13C末にゴシック様式で建てられ、現在は修復工事中の鐘楼、
南側に1216年に完成したロマネスク様式の洗礼堂がありました。



          
パルマらしく生ハム作りの場面(右端)も彫られているルネッタ(半円壁面)の農作業暦
  
                   

正面の面積を広くして聖堂を大きく見せるスクリーン・ファサード(看板建築)で飾られたドゥオーモは、
装飾が加えられていないシンプルな3段の柱廊などがすっきりと美しく、ロンバルディア・ロマネスク様式の傑作と思えました。


リストの生涯を描いた16Cのルネサンス様式壁画で埋め尽くされた聖堂

美しい天井装飾
コレッジョの天井画    (ポストカード転載)

聖堂内で見逃せないのがコレッジョ(1489頃−1534)が晩年の1525〜1530年にクーポラに描いた天井画で、
楽器を奏でる天使に守られて昇天するマリアを裸足のキリストが迎える場面を仰視遠近法で表現しています。
強い上昇感にあふれたこの絵は、100年後にローマで発展するバロック様式の天井画の先駆けとなり、
コレッジョ特有の柔らかさと優美さで表現された天井画を見たスタンダールは感動のあまり落涙したと伝えられています。
                  (参考:「イタリア古寺巡礼 ミラノ→ヴェネツィア」金沢百枝・小澤実著 新潮社とんぼの本)




もう一つ、堂内で見逃せないのがアンテーラミ(12C末頃―13C初頭)の「キリストの十字架降下」で、
もともとは内陣障壁の一部だったものを改装の時に祭壇の横の壁に移動したもので、
幅2.3m、高さ1.2mのヴェローナ産の角礫岩には、
中央にはキリストを抱きかかえて十字架から下ろすアリマタヤのヨセフ、梯子をかけてキリストの釘を抜こうとしているニコデモ、
左側にはキリスト教勝利の寓意像、聖母に手を添える大天使ガブリエル、哀しみに打ち沈むヨハネと3人のマリア達、
右側にはユダヤ教の寓意像の頭を押さえつける大天使ラファエル、キリストの衣をサイコロで賭けるローマ兵士達が彫られ、
静謐さの中に深い感動を呼ぶ表現が見られる見事な作品でした。
十字架には1178年にアンテーラミが彫ったというサインが残されています。



歴史を語る大理石の床のアンモナイト化石


洗礼堂
   
上部:三賢王礼拝
下部:キリストの洗礼と洗礼者ヨハネの斬首

      

    
最後の審判
      

1196年から1214年にかけて造られた高さ35m、幅22mの洗礼堂には、数本の側柱が立てられた扉口などに
シャルトルやサンドニで学び、イタリア・ゴシックの第一人者と評されるアンテーラミが設計に関わったゴシック様式が見られ、
入口扉上のルネッタや堂内にアンテーラミの卓越した彫刻も見ることが出来ました。



16本の石材のリブで分割された八角形の洗礼堂の天井は洗礼者ヨハネや12使徒を描いた13Cのフレスコ画で埋め尽くされ、
荘厳な天空といった趣きを見せていました。
その下にアンテーラミの代表作と言われる四季の寓意、農事暦の石像が並べられています。




畑を耕し、麦を収穫して脱穀する、ワインの樽を造り、ブドウを収穫・・・といった神への感謝がこめられた農事暦ですが、
アンテーラミの作品には高い精神性が感じられると評価されています。


 
キリストの神殿奉献 ダビデ王

主祭壇





中央に13歳になった時に使う大きな洗礼盤が置かれている他は、フレスコ画や彫像にすっぽりと包まれた堂内で、
宗教的というよりは美術的に中世の雰囲気に浸ったひと時でした。



11時10分頃、レージョ劇場前に戻って、30分ほどのフリータイムが取られましたので、
「SALDI」(=SALE)と書かれた子供服のお店へ行き、孫土産の洋服を買いました。




「イタリアらしい色合いがいい」という夫の意見で決めた30%OFFでも迷ってしまう価格の洋服を見た孫の第一声は「パジャマ?」・・・。
娘によると、日本のデパートにも入っているけれど、覗いたこともない「simonetta」という“高級”子供服ブランドだったようです。
買物の後、前述のサンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ教会の中を見学して過ごしました。



フリータイムが終わった後、30分余りバスに乗って、パルマ郊外のアグリツーリズモへ向かいました。
アグリツーリズモは農業と旅行を組み合わせた言葉で、農園が経営する宿泊施設で田舎の自然体験をするという意味合いですが、
10年ほど前のシチリアでの体験も印象的で、期待が高まるようでした。



マンマが仕切るぶどう農家のアグリツーリズモ「LA MADONNINA」に12時25分に到着しました。

  

  

 

焼き立てパン、生ハム、サラミとパルミジャーノ・チーズのリゾット、リコッタ・チーズ添えチキン、チョコレートケーキを
お代わり自由でたっぷりと楽しみました。




昨夜の発泡赤ワイン「ランブルスコ」とは味が違う・・・と言いながら、2本空けたワイン・ボトルもサービスと分かって、
ご満悦な握手風景も見られました。


  
秋の収穫を待つぶどう数種


ランチの後、3時過ぎに出発するまで、農園の風景を楽しんで過ごしました。
地下貯蔵庫でワインやチーズ、蜂蜜を買物する仲間の姿も見られましたが、外の写真を撮ったりしていて出遅れた私は、
買物は街へ戻ってからということに決めました。



一度ホテルへ戻り、手荷物を部屋へ置いてから、希望者はバスでガリバルディ広場まで送ってもらうというフリータイムは、
大半の人がI添乗員さんに案内していただいたお店で生ハム・ショッピングとなりました。
目の前でスライスした生ハムを真空パックにしてもらうのですが、5パック、10パックという注文を一人でさばくのは大変で、
I添乗員さんが注文をまとめて、後から受け取りに来るという方法が取られることになり、
アグリツーリズモで買物をしそびれた私は、奥でパルミジャーノ・チーズを選んでいる中に出来上がった5パックを入手、
生ハム・ショッピングを早く終えることが出来ました。



外へ出ると、生ハムのパックが出来上がるのを待っている仲間達から、「ジェラートが美味しいですよ」と声が掛かり、
ジェラート・ブレイクをしました。

その後、レプブリカ通りに出て、デパートcoinに入ると、50%OFFの子供服を見つけ、
「これは絶対気に入る」とお土産を増やしてしまいました。


 

こういうものを5〜6枚の方が喜んだかもという「パジャマ?」の数分の一の価格服は、この夏の愛用品となっているようです。
デパートを出ると5時半で、添乗員さんと希望者の7時の夕食まで街で時間をつぶすのは辛いという夫は先にホテルへ帰り、
私は生ハムのお仕事がまだ終わらないI添乗員さんの所へ戻って、夕食をキャンセルした後、一人でドゥオーモ広場へ向かいました。



途中、「FURLA」のSALDIで娘へのお土産を買ってから、ドゥオーモの東側のサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会へ行きました。


15Cの終わりから16C初頭にかけてバロック様式で建設されたサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会には、
コレッジョがドゥオーモより早く、1520年から1522年にかけて描いた天井画がありました。



   
この天井画のテーマは「キリストの昇天」と考えられた時代もありましたが、現在は「聖ヨハネの昇天」という説が有力視され、
キリストが下降して、昇天するヨハネを迎えている場面と考えられています。
ほとんど人のいない教会の中で、パルマで活躍したコレッジョの世界をゆっくりと楽しみました。

朝、通って来た道を思い出しながら、ピロッタ宮殿、ヴェルディ橋、ドゥカーレ庭園を通って、ホテルへ7時前に戻りました。
部屋で休憩していた夫は、盛り上がりランチが功を奏して?「おなかが空かないね」と言っていましたので、
旅の中盤に胃を休めるのも悪くないかと、せっかく「美食の街」にいながらも、夕食抜きを決めました。
(数か月はもつという生ハムやチーズをゆっくりと楽しんでいることを慰めとしておきましょう・・・。)

「午後、自由時間」という旅行社の予定表を見て、パルマからバスで1時間ほどの世界遺産の街サッビオネータへ行くという計画も
実現することはできませんでしたが、先ず先ずは「美食と芸術の街」を楽しんだパルマ滞在の一日でした。


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