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19 Oct.2012
 Burgos~Santo Domingo de Silos~Burgos


雲が厚く寒そうな空を見上げながら、数日来風邪気味の夫は「今日は大事を取ってホテルで休む」と決め、
私は「スペイン一美しいという回廊を見ないのはもったいない・・・」と言葉を残して、
9時半にホテルを出発、ブルゴスの南57kmに位置するサント・ドミンゴ・デ・シロスへ向かいました。
雲の合間に時折り青空が覗く中、カスティーリャの赤茶けた広い平原メセタが終わり、
丘陵地帯が続く景色を車窓にバスを1時間ほど走らせて、修道院で有名な小さな村シロスに到着しました。



6~8Cの小さな修道院から、10Cにカスティーリャ伯フェルナンド・ゴンザレス建造の修道院へと発展した
サン・セバスチャン修道院は、10C末にイスラム軍に破壊された後、
フェルナンド1世の命を受けたドミンゴ(1000?~1073年)によって1041年に再建され、
院長となったドミンゴ没後にサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院と改名されました。
巡礼者とともに発展した修道院は時代と共に廃れ、廃墟と化した後、国家が提唱した復興計画に
手を挙げたフランスのベネディクト会修道士数人によって、19Cに再興されたそうです。


  

13Cのゴシック様式への移行を財政難によって逃れ、当時の姿をとどめたロマネスク様式の回廊が、
今では「スペイン一美しい回廊」として名声を博しています。
1階は11~12C、2階は13Cに造られた2階建ての回廊の1辺30mほどの廊下に囲まれた
中庭の樹齢125年の糸杉が再興の歴史を見守ってきたのかもしれません。


  

整然と並んで見える円柱ですが、よく見ると、くっついていたり、離れていたり、捻じれていたりと様々な様相です。
これは単に作者の違いということですが、この多様性が意図しないリズム感を生み出しているようでした。


  

リオハ生まれのドミンゴはサンタ・マリア・デ・カニャス修道院の修復で成功し、副院長まで出世しますが、
ナバラ王と対立し、難を逃れたカスティーリャの地に修道院を残すことになりました。
最初に埋葬された場所に横臥像が置かれていますが、遺骨は国王、高位聖職者参列のもと、
1076年に教会内へ改葬されたそうです。
マリアが右手に持つザクロがレコンキスタとシロスを象徴する13Cの彩色された聖母子像も残っていました。



モサラベ様式にデザインされた松材の天井(焼失後に復元)、石モザイクの床など細部まで美しい回廊ですが、
何よりこの回廊を有名にしているのが4隅にはめ込まれた計8枚の浮彫りパネルです。
その素晴らしさを端的にお伝えする写真をゆっくり撮る時間が(腕が?)ありませんでしたので、
ポストカードを1枚載せておくことにします。

  
「埋葬と復活」              「キリスト昇天」              「エマオの巡礼」

ポストカードの十字架降下図に続く「埋葬と復活」は、キリストの亡骸を埋葬するヨセフとニコデモの上で、
石棺の蓋に座わった天使が復活を告げるという日にちの違う場面を一枚で表わした構図が見事で、
石棺の下で眠りこける7人のローマ兵は11Cの軍服姿で描かれているそうです。



ヨハネ マリア ペテロ パウロ

「キリスト昇天」は聖母と12使徒が見上げる中、天使が持ち上げる雲を突き抜けてキリストが昇天する図ですが、
マリアの衣服をつかんでいるヨハネ、使徒達の表情、髪の薄いパウロなど、細やかな表現に目を奪われます。

「エマオの巡礼」は目にはめた宝石が失われているそうですが、復活したキリストがホタテ貝を下げた
巡礼者の姿になっている所に時代の反映が見られ、弟子達より大きく描かれた構図が興味深い所です。


  
「トマスの不信」            「エッサイの樹」               「受胎告知」



「エマオの巡礼」に隣り合う「トマスの不信」は8枚の彫刻パネルの中でもとりわけ傑作の誉れ高い作品で、
12使徒を3段に配した構図、右側の9人を左の3人が受け止めることによって生まれた絶妙なバランス、
イエスの軽い失望とトマスの疑念の表情などが卓越した技を示しています。
キリストの手の上にいる人物がユダで、赤いひげが悪人を表しているそうです。
人物の上のアーチ上部には当時の街の建物や楽器を演奏する人々など地域の様子が彫られていました。

他の6枚と作風に違いが見られる「エッサイの樹」と「受胎告知」は13Cに制作されたもので、
ゴシック様式に近づいていることが分かります。
横たわるエッサイの上にマリア、その上の神の膝に幼いキリストが座っていました。


  

聖書物語、女性の顔をした怪鳥アルピ、唐草や網籠文様などの柱頭彫刻も見逃せない魅力を持ち、
シロスでしか見られない図柄も残されていて、「シロスの名匠」の技を堪能することができます。



薬局 (ポストカード転載)

修道院ショップ

回廊見学の後、薬局、博物館を見学しましたが、いずれも写真は撮ることが出来ませんでした。

13~14Cには修道院の薬局で動・植物を使って製薬が行われていましたが、
持ち出しは禁止、院内のみで服用する決まりとなっていて、2000種あった薬草は戦争の時に持ち去られ、
残った600種が現在でも利用されているそうです。
薬壺や書籍が並ぶ薬局にはマリア像と共に医者の守護聖人コームとダミアン兄弟の像が飾られていました。

元は食堂であった博物館には、食事中に修道士の一人が聖書を読み上げるスペースが残り、
川が流れる地下はワインの保管場所とされていたそうです。
聖ドミンゴが使った宝石で装飾された銀製の聖杯、タンパンに置かれていたオリジナルの聖母子像、
この修道院で描かれたベアトゥス写本のコピー(オリジナルはパリの美術館所蔵)、聖具などを見学しました。

1時間の修道院見学の後、30分のフリータイムに、午後には閉まるという修道院ショップに寄って、
聴いたことがないけれど・・・と思いながら、グレゴリオ聖歌のCDをお土産と自身用に5枚購入しました。



シロス村の景観

修道院を出て、北側の小高い丘に登り、なだらかな山に取り囲まれたシロス村の景観を楽しみました。
修道院で成り立っていることが分かる小さくて美しい村です。



   
                       現地ガイドのアルムデーナさんと添乗員Iさん

  

12時から「HOTEL SAINT DOMINGO」でパンが入ったカスティーリャ風スープ、サラダ、ローストチキン、
フルーツサラダのランチの後、1時45分からのグレゴリオ聖歌鑑賞までフリータイムになりましたので、
人の姿が少ない静かな石造りの村の中をのんびりと散策して過ごしました。



聖ドミンゴ祭壇 (ポストカード転載)

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院には現在30人の修道士がいて、
祈祷7時間、労働7時間、睡眠7時間、食事や入浴など3時間という決まったサイクルで暮らしているそうですが、
その中にグレゴリオ聖歌による祈祷の時間が1日6回あり、その6時課に参列し聖歌を聴かせていただきました。

キリストの磔刑像が置かれた主祭壇、壁際に聖ドミンゴの祭壇や聖遺物が置かれた新しい教会は、
前方の左右に聖職者席が配置されていて、専用の出入り口から20人程の修道士が入って来て着席した後、
静かにグレゴリオ聖歌が始まりました。
言葉の抑揚だけでゆったりと歌う単旋律の無伴奏音楽は、耳に、心に、優しくしみ渡り、
教会の中を清冽な空気で充たした後、又何事もなかったように終わっていきました。

グレゴリウス1世(在位:590~604年)が地域毎に様々に歌われていた聖歌をまとめたという伝説によって、
教皇公認の「ローマ聖歌」が「グレゴリウス聖歌」と呼ばれるようになりましたが、
聖歌を普及させた最大の功労者はカール大帝(在位:800~814年)とも言われています。
その後、衰退していった聖歌がフランスの修道院を中心に起こった19Cに聖歌復活運動によって復活し、
それと歩みを共にしたサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院のグレゴリア聖歌をCDにして、
1993年にEMI社がリリース、スペインやアメリカで大ヒットして、「癒しの音楽」ブームの火付け役となったそうです。
そのようなミラクルともいえる出来事のことは旅を計画した後で知りましたが、
その修道院で生の音に出会えたことは幸いでしたし、買ったCDも良い記念となり、友人達にも喜ばれました。



2時20分にシロス村を後にして、1時間ほどでブルゴスのホテルに到着した後、
3時半にロビーに再集合して、パンや水をスーパーへ買いに行っただけで部屋で休養をしていた夫も一緒に、
ブルゴスの街の観光に向かいました。


アルランソン川に沿って西へ向かうとまもなくエル・シド(1043?~1099年)の騎馬像がありました。
ブルゴスの貴族として生まれ、レコンキスタで活躍したエル・シド(=司令官 本名:ロドリゴ・ディアス))は
抒情詩「わがシドの歌」にも謳われるスペインの英雄です。
前足を上げた馬が死を意味する像は20C、エル・シドゆかりの人物像を置いたサン・パブロ橋は16Cの建造です。



19Cの劇場

州議会場

エル・シド像のある広場に面した19Cの劇場は、石造りの1階の上に安い材料の2・3階が載せられ、
3階は現在は結婚式場として使われていて、
立派な木製扉がある州議会場はかっては商取引などに使われた男性専用のサロンだったそうです。


  

エスポロン通りに入り、葉っぱが茂るプラタナスの並木を見た途端、フロミスタやシロスで見かけた
奇妙な剪定の木の謎が解けて、枝をつなげてアーケードのようにしていたことが分かりました。
150本つなげたプラタナスは見事といってもよい景観でした。




13Cに造られ、16Cにカルロス5世を迎えるために改築されたサンタ・マリア門から旧市街に入りました。
門の最上部には聖母子、その下にブルゴスの街の模型を持った天使、
6人の英雄像は上段左から王国を建国したフェルナンド・ゴンザレス、カルロス5世、エル・シド、
下段は裁判官を両側にしたブルゴス最初の権力者ディエゴ・ロドリゲスです。
門の内部は18Cまで市庁舎として使われた後、現在は博物館となっています。

1037年にカスティーリャ王国とレオン王国が連合して首都となったブルゴスは、
1942年にレコンキスタが終わって首都がバリャドリードへ移されるまでスペインの政治経済の中心を担った街で、
現在は人口17万9000人を擁するカスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県の県都です。
サンタ・マリア門を抜けると、その栄光の時代を髣髴させる旧市街の景観が広がっていました。



サンタ・マリア大聖堂

サル・メンタル門

フェルナンド広場に屹立するブルゴス大聖堂はセビーリャ、トレドの大聖堂に次ぐ規模を誇り、
1984年に世界遺産に登録されています。
フェルナンド3世とマウリシオ司教の意向によって、アルフォンソ6世のロマネスク様式の教会を取り壊して、
1221年に新教会建設に着手、ゴシック様式を基本にプラテレスコ、フライボワイヤン様式の装飾を加え、
1567年に完成したブルゴス大聖堂は、フェリーペ2世が「人が造ったものでなく、天使の業」と讃え、
フランスの19Cの詩人ゴーチエが「2年かけても見尽くすことはできない」と評したといわれています。




広場に面した西正面の右端の階段を上るとサル・メンタル門があり、
キリストや12使徒が彫刻されたタンパン下の中央の石柱にマウリシオ司教像が飾られていました。



イスラム様式を取り入れた高さ54mの交差部の星形の美しいドームは最初の物が落下した後、
ルネサンス様式で造り変えられたもので、国王や聖職者のみが入れるバルコニーがついていました。
そのドームの真下に、バレンシアで没した後、1921年にこの教会に移された
エル・シドと妻メヒナが眠る大理石製の墓標がありました。



主祭壇

聖職者席

聖母マリアの生涯が描かれている主祭壇と、交差部をはさんで後方に造られた聖職者席は、
復活祭、ブルゴスとサンチャゴの祝日、ピラール(=柱 聖母マリアとヤコブの伝説に由来)祭、クリスマスの
年5回の儀式の時に使われるそうです。
聖職者席の上にはナポレオン軍の破壊を免れた唯一のバラ窓が見え、スペイン式のパイプオルガン
(左バロック、右ネオクラシック様式)、16Cのオリジナル楽譜、マウリシオ司教の横臥像が置かれて、
おごそかな雰囲気を漂わせていました。


        
     ピラール祭用飾り          マウリシオ司教横臥像  


黄金階段

聖アナ礼拝堂の祭壇

丘の斜面の高低差を利用して造られた黄金階段は、フランスのディエゴ・デ・シロエが
イタリア・ルネサンス様式で16C初めに完成させた巡礼者用階段ですが、
買物のために通り抜ける市民が増えたため増設されたという扉が右下にありました。
階段左下に置かれている銀製の山車は復活祭に使うもので、
400kgもの山車を下の緑の布幕の中に男性4人が入って動かすそうです。




聖母マリアの母、聖アナ礼拝堂の主祭壇はエッサイの上にヨアキムとアナ、
一番上に聖母子像という図になっていますが、聖母子の両側にいる天使に意味があり、
目隠しをしている右側は旧約時代、左側は新約時代を表しているそうです。
この礼拝堂には、埋葬を希望してお金を払ったというルイス・デ・アクーニャ司教(1456-1495年)の
大理石とアラバスターを組み合わせた石棺や法衣が置かれ、
多くの巡礼者が寝て壊してしまったというベンチもそのままに残されていました。



レコンキスタに活躍した元帥ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコとその妻が眠る元帥の礼拝堂は、
ステンド・グラスで装飾されたドーム、ゴシック、ルネサンス様式の二つの祭壇、
カラーラ産大理石の上の夫妻の横臥像など、大聖堂最大の規模と美しさを誇る礼拝堂でした。




聖歌隊席裏のオルガンへ通じるらせん階段、祭壇下の司教のワイングラス置き場、法衣を着替える扉など
様々な興味深い設備に混じって、口を開けた男性レリーフの寄付金箱もありました。





レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子ピエトロ・リッツオーニの「マグダラのマリア」が飾られた聖具室や
(顔の一部にレオナルドの筆が入っているという説もある)、現在は博物館となっている
有力商人達の墓がある13C建造の回廊を回って、1時間の教会見学を終えて、
5時15分に教会前で解散となりました。

まだ復調しないという夫はホテルへ戻りましたので、ブルゴスの街を一望する城跡公園散歩を諦めた私は、
途中までご一緒したK夫妻とも分かれ、目的をカサ・コルドンと買物に絞って一人街歩きに向かいました。



カサ・コルドン

 

ヨーロッパの街の地図でよく失敗するのが1ブロックのサイズの小ささで、この時もかなり行き過ぎてから、
人に尋ねて道を戻り、カサ・コルドンを探し当てました。(実は昨夜も前を通っていたことが判明・・・。)

カスティーリャ王国将軍の館として15Cに建設されたカサ・コルドンには、
コロンブスが2回目の新大陸航海から戻った後、カトリック両王に謁見したというプレートが飾られていました。
カトリック両王の長男フワンと神聖ローマ帝国マクシミリアン1世の長女マルガリーテが結婚式を挙げ、
両王の長女フアナと結婚したマクシミリアン1世の長男フェリーぺが1506年に亡くなったという館は、
現在は銀行として使われているそうで、内部には入りませんでしたが、
歴史ある建物を前にして、一抹の感慨を覚えたひと時でした。


 

1時間余り旧市街を歩き、孫へのお土産のパーカー・ジャケット(ロンドン・メイド・・・)や焼き栗を買って、
6時半にホテルへ戻りました。



ホテル「SILKEN GRAN TEATRO」の外観と、お昼頃、夫が5階の部屋から撮ったデモ風景の写真ですが、
経済不況のど真ん中にいる切迫感が感じられない長閑なデモ行進に見えます。


7時20分頃の夕焼け

 

夕食がフリーだったこの日、夫は外へ出掛けたくないと言い、ホテルのルームサービスは8時半からということで、
再び食料品を調達しに一人で街へ出掛けました。
電子レンジで温めたら美味しそうだけど・・・とデリカテッセンのパエリャや煮込み料理はパスし、
結局、バルで「持って帰りたい」と身振りで頼んだオープンサンドを買って、ホテルへ戻りました。
せめて熱いコーヒーがほしいと街を探しても、スターバックス(のような店)も自販機も見つからず、
ダメ元で頼んだホテルのロビーのバルがルームサービスをしてくれたコーヒーが
ほっと人心地をつけてくれた簡易夕食でした。
海外旅行には湯沸しやインスタント食品などを持参することも多いのですが、
スペインなら不要だろうと省略したことが裏目に出た今回の旅でした。


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