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20 Oct.2012 |
Burgos~Astorga~Cebreiro~Monte do Gozo
~Santiago de Compostela
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レオンからブルゴスまで巡礼路を190kmほど逆戻りしましたので、その分早めにスタート、
まだ空が明けきらない7時45分にホテルを出発して、
いよいよゴールのサンチャゴ・デ・コンポステラを目指して、西へ500km余りバスを走らせました。
8時半ごろ外が明るくなり、添乗員Iさんの12使徒の話などに耳を傾けながら、
カスティーリャ平原の秋色の車窓風景を楽しみました。
10時頃レオン郊外を通過し、10時半にアストルガに到着しました。
アウグストゥス帝のアストゥリカ・アウグスタに由来するアストルガは、古くから交通の要衝として発展、
古代ローマ時代のトラヤヌス街道とレオンからアストルガの巡礼路が重なって巡礼の街として栄え、
当時の教会、城壁などを今に残す人口14000人ほどの街です。
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ロマネスク様式の教会を基にして、1471年に着工、18Cに完成したアストルガ大聖堂は、
ゴシック様式にプラテレスコ、バロック様式の混在が見られ、正面入り口の十字架降下のタンパンなど、
ロマネスクから時代が進んだことが実感される教会でした。
近過ぎて全景を撮ることが出来なかった正面や南側の外観をゆっくり歩いて見学しました。
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大聖堂と隣接してガウディ設計の司教館(Palacio Episcopal)がありました。
ガウディが同郷のグラウ司教から依頼され、1887年に設計、1889年に着工した司教館は、
1893年にグラウ司教が没した後、斬新なデザインが後任の司教達に受け入れられず、
又、設計を請け負ったガウディが途中経過を聞いて、建築のイメージが違う、バルセロナでの仕事が忙しいと
建設半ばで手を引いたと言われています。
結局、他の建築家に引き継がれ、1913年に完成した建物は司教館として使われることはなく、
1963年に巡礼博物館としてオープンしたそうです。
巡礼博物館も外観見学だけで、街を散策しながら、近くのホテルで巡礼手帳にスタンプをもらったり、
牛脂を使っているという名物菓子「マンテカーダ」を試食したりして、
11時45分にアストルガを出発しました。
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巡礼路に沿った細い国道をバスを走らせると、青空の下を歩く巡礼者たちの姿が見られました。
長い巡礼、ちょっとしたハイキング風など、様々なスタイルが混じっていることが装備で分かります。
貧しいと言われるこの地域には、廃屋や廃屋利用の巡礼宿、バルなどが点在していました。
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30分ほどで標高1500m余りのイラゴ峠に到着、少し手前でバスを降りて、
頂上に「鉄の十字架」が立つ巡礼者達が積み上げた小石の山まで歩いて行きました。
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巡礼者が峠越えに安堵し、小休止をいれるポイントのひとつようで、石を置き、記念撮影をして、
小さな礼拝堂に立ち寄ってから、再び歩き始める姿が見られました。
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雪をかぶったカンタブリア山脈を車窓に、私達も山を下って行きながら、
徒歩なら数日を要する行程をバスで一瞬の中に降りてしまうのは、元々巡礼を目的とはしていないとはいえ、
もったいないという思いが心をよぎるのを感じました。
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アセボ村 |
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道路幅が狭いアセボ村では民家の軒すれすれにバスは徐行、無事に通過した時には、
期せずして、ドライバーのハビエルさんに大きな拍手が起きました。
その後、ヨハネ騎士団の城が残るポンフェラーダを通過して、
1時過ぎにビジャフランカ・デ・ビエルソ郊外のレストランに到着しました。
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紅葉したブドウ畑近くのレストラン「La Charola」
この日のランチはサラダ、イカとジャガイモの煮込み、プルーンとゼリーというちょっと寂しいメニューで、
もう一品、肉料理でもあったら・・・と思われました。
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ビジャフランカ・デ・ビエルソ |
セブレイロ峠へ |
レオンの西150kmほどに位置するビジャフランカ・デ・ビエルソは、
巡礼路最後の難所セブレイロ峠に入る前に巡礼者達が一休止する美しい村で、
レオンのパラドールに泊まれない場合には、この村のパラドールに泊まるのが次策だったそうです。
レオンに泊まることが出来たことは幸いでしたが、このような景色の良い所も魅力的だと思われました。
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セブレイロ峠 |
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2時35分に標高1300mのセブレイロ峠に到着し、30分程のフリータイムになりましたので、
ラ・レアルという名前がアストゥリアス王の保護下にあったことを表す
9Cのプレ・ロマネスク様式のサンタ・マリア・ラ・レアル教会や土産物店を覗いたりしながら、
小さな村を散策しました。
ガリシア州の紋章となっている聖杯は、パンと葡萄酒を本物の血肉に変えたというこの教会に起きた
「聖エスペシエの奇跡」に由来すると言われています。
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セブレイロ峠で会った巡礼の人々 |
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赤茶けたと表現されるカスティーリャ地方を離れて、セブレイロ峠を越えると、
スペインがBC19年にローマ属州ヒスパニアとなった時、イベリア半島北西部へ追い詰められたケルト民族が
住みついた地域を「ガラエキア」と呼んだことに由来する緑豊かなガシリア州が始まります。
BC7C頃、中央ヨーロッパで鉄器文化を興した印欧語族のひとつがケルト民族で、
その中でピレネーを越えた部族が非印欧語族のイベリア人と混血して、
ドルイド教を信仰するケルト・イベリア文化と呼ばれる独自の社会を形成したと言われています。
その文化、風習を残すセブレイロ村にパリョッサ(Palloza)と呼ばれる茅葺屋根の家が保存されていました。
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この日はバスの底面で時々がたがたと異音がし、安全上は問題ないだろうとは言っていましたが、
理由が分からなかったため、サンチャゴ・デ・コンポステラから着いた代車に乗り換えて、
3時10分にセブレイロ峠を出発、トイレ休憩を入れながら、高速道路を西へ走らせて、
巡礼者が初めてサンティアゴ大聖堂を目にする「歓喜の丘」ゴゾに5時15分に到着しました。
「週刊 世界遺産」 (講談社刊)
残念ながら、写真でよく目にする大聖堂を臨む巡礼者像は修復中で見ることができませんでしたが、
大聖堂を遠望して、僅かながらも、巡礼者の感動に添うことが出来ました。
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6時少し前に、ついに、大聖堂の前に立つことができました。
大聖堂があるオブラドイロ(=石切り場)広場で、スルー・ドライバーのハビエルさんと分かれて、
ホテルのアップグレード・プランでパラドールを選んだ3分の2ほどの旅仲間が、
「Hostal dos Reis Catolicos」(=カトリック両王パラドール)へ入りました。
大聖堂ビュー!
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部屋が分かりにくいからと館内地図を渡されて向かった私達の部屋はすぐに見つかり、
何より大聖堂ビューがうれしい、広さも充分な部屋でした。
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少し休憩してから、早速散歩に出掛けましたが、レセプションの上という部屋の位置が良すぎて、
パラドール内探検を忘れ、4つある中庭も1か所入っただけだったことに気付いたのは、
旅が終わってからのことでした。
このような中庭に沿って部屋が並ぶ4階建て建物を4つ合わせた15Cの元・王立施療院は、
レオンのパラドール・サン・マルコスと共にスペイン最高峰のパラドールとして5つ星を冠しています。
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市庁舎(旧ラホイ宮殿) |
パラドール |
大聖堂の正面階段へ上ると、パラドールのロケーションの良さが想像していた以上であることが分かり、
とても楽しみな2連泊滞在となりました。
200体もの彫像が飾られ、ロマネスク芸術の頂点とも謳われる教会正面の「栄光の門」は、
いつ終わるか聞くのさえ諦めたという修復が5年前から続いていて、足場を通した見学となりましたが、
中央柱の正面のヤコブ像、柱の裏側の下、祭壇に向かって祈る彫刻の作者マテオ像を見ることが出来て、
目的をひとつ果たした気分になりました。
パラドールへ戻ると、ショップが開いていましたので、チャンスは逃さないのが鉄則という
スペインのお店事情に添い、娘達へのお土産のアクセサリーを買いました。
(レセプションに頼めば開くのかもしれませんが、いつでも開いているという風ではありませんでした。)
8時15分にロビーに集合、フランコ通りのレストラン「EL CAYADO」での旅仲間全員が揃う最後の夕食は、
タコとホタテのガリシア風、魚のグリル、サンティアゴ・ケーキと海に近付いたことが感じられるメニューでした。
10時近くにパラドールへ戻った時、どういう経緯だったのか、部屋見学ツアーが始まり、
3つ4つの部屋を見せていただきましたが、天蓋付きのベッドとソファ、控室までついているゴージャスな部屋、
華麗な女性向きの部屋などあり、それに比べるととてもシンプルな我が部屋ながら、
何といっても大聖堂ビュー1等賞が良かった!と改めて思われました。
ツイン・ベッドがやっと収まる広さの「召使部屋」のシングル・ユースの方もいらしたようで、
古い歴史的建物ホテルは趣きはありますが、旅行社にとっては頭が痛む部屋配分のようです。
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