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10 Oct.2012
 Barcelona~L’Estany~Andorra

HOTEL HUSA VIA BARCELONA

スペイン広場

9時にホテルを出発、バスで30分程走って、バルセロナの中心へ向かい、
スペイン広場でガイドのKimuraさんと合流し、モンジュイックの丘を上って行きました。

スペイン広場に見える闘牛場は、不動産バブルがはじけて難航した後、
2011年3月にオープンしたLas Arenas(=闘牛場)と呼ばれるアート&ショッピング・センターです。
バルセロナを州都とするカタルーニャ自治州では、今年から闘牛禁止条例が施行されていますが、
これは人気低迷や動物愛護という理由の他に、スペイン国内において独自の言語と文化を持ち、
独立を目指しているカタルーニャ・ナショナリズムが背景にあると見られています。


  

モンジュイックの丘を上って行くと、1992年、ちょうど20年前に行われた
バルセロナ・オリンピックの施設が車窓に見えました。
開催地として立候補しながらバルセロナが負けてしまった1936年のベルリン・オリンピックを、
「人種差別」を理由にスペインがボイコットしたため、対抗策として同年に計画した人民オリンピックが、
スペイン内戦の勃発によって挫かれたという経緯を持つバルセロナが、
新築した方が安上がりであるにかかわらず、あえてその時の施設を改築して使ったというメイン・スタジアム、
アーチェリーの弓矢で点火した聖火台など、記憶に残る建築物との再会でした。
聖火点火を担当したパラリンピックのアーチェリー選手アントニオ・レボージョさんは、
一日に千本の練習をこなしたお陰で、本番の競技でも好成績を収めることが出来たそうです。



モンジュイックの丘の展望台からバルセロナの街を一望しました。
最大180万人から減少傾向にある人口161万人のバルセロナの名前の由来は、
カタルーニャ地方の原住民ライエターナ族の首都バルキーノが起源という説、
イベロ族、ギリシア人、フェニキア人と支配を変えた後、カルタゴのハミルカル・バルカ(ハンニバルの父)が
建設した都市バルチーノが街名の由来など諸説ありますが、
モンジュイックもローマ人が建設したジュピター神殿モン・ジョビス(=ジュピターの山)に由来、
共同墓地が残るユダヤ人の丘を指すなど、いくつか通説を持つようです。

遠望したサグラダ・ファミリア贖罪教会は、いつ完成するか分からないと言われていましたが、
ガウディ(1852-1926年)没後100周年の2026年に完成する見通しが立ったと言われています。
在バルセロナ30数年、15体の天使像を彫った主任彫刻家・外尾悦朗さんの活躍も目覚ましく、
生誕の門の扉の設計コンクールでは地元彫刻家7人を抜いて、彼のプランが採用されたそうです。

神戸と姉妹都市である所以の港町風景や1998年の夏に歩いたバルセロナの市街地を展望した後、
今回の目的地、モンジュイックの丘の中腹に建つ国立カタルーニャ美術館へ向かいました。



ローマが滅びた後、西ゴート王国に支配されたスペインは8Cにはイスラム勢力下におかれますが、
9C初頭にカロリング朝カール大帝の軍勢が侵攻したカタルーニャ地方は、
ヒスパニア辺境領としてキリスト教に復帰、スペインの他の地域より一足早くレコンキスタ(国土回復運動)が進み、
9C末のカロリング朝衰退と共に自立性を高め、10C末には独立して勢力を拡大していきました。

カタルーニャ地方が最盛期を迎えた11~2Cに、地域復興のために数多く建設されたのが教会で、
そこに残された壁画、彫刻、板絵などがロマネスク芸術として19C後半に「発見」され、
それらの保護を目的に収集した作品を展示するために、1934年にカタルーニャ美術館が創設されました。
1929年の万博に建設した宮殿を利用した美術館は、1990年には国立総合美術館として拡張され、
スペイン各時代のコレクションを網羅する美術館となっています。
今回私達は北スペイン・ロマネスクの旅のスタートとして、ロマネスク部門だけを見学しました。


セウ・デ・ウルヘル サン・ペレ教会の後陣壁画

ロマネスク部門の展示室は、翌日訪れるセウ・デ・ウルヘルの街のサン・ペレ教会の後陣壁画から始まっていて、
剥がれかけた「荘厳のキリスト」の下の鮮やかな色と線で描かれたキリストとマリア、使徒達のフレスコ画が
カタルーニャ・ロマネスクの魅力を伝えていました。



展示室の中ほどに傑作の誉れ高い「荘厳のキリスト」の絵があります。
実はこのフレスコ画こそ、今回の旅の誘いを受けた「ボイ谷タウール サン・クレメンテ教会」の後陣壁画なのです。
「我は世の光」と書かれた書物を持ち、栄光と威厳に包まれたキリストが描かれたのは1123年のことで、
ピレネーの山懐の地が希望と共にあった時代でしょうか、
簡潔さと力強さの絶妙なバランスや深い色調に心地よい感動を覚えたひと時でした。



同じタウールにあるサンタ・マリア教会の後陣壁画や十字架降下の木彫群もありました。
聖母子と三賢王が描かれた後陣壁画や祭壇近くに飾られていたという木彫には、
優しさ、哀しさが表現されていて、「荘厳のキリスト」とはまた違った空間となっていました。




馬やロバしか運搬手段がなかった100年程前に、ピレネー山中の村の教会から漆喰ごと剥ぎ取り、
荷台に載せてバルセロナまで運ばれて保護された「芸術品」は、
現在は元の場所へ返す可能性も視野に入れ、後部を写真のような木枠で包んで、展示が行われています。



キリストと十二使徒

聖母マリア伝

聖ステファノの石打ち

聖キリクと聖ジュリエッタの殉教

着衣のキリスト磔刑像

聖母子像

セラフィム(熾天使)

魂の計量

『「暗黒」であったはずの中世に、こんなに明朗で快活で人間味溢れる芸術品が存在したとは。
その感覚は中世や近代を軽々と飛び越え、現代に直結する。
ガウディも、ピカソも、ミロも、ダリも、カタルーニャ・ロマネスクの系譜に連なるのかと、すぐに納得がゆくのである』  
 (「スペイン・ロマネスクへの旅」池田健二著:中央公論新社刊)と書かれていたのを理解し、
素晴らしいカタルーニャ・ロマネスク作品群との出会いを堪能しました。



添乗員Iさんと現地ガイドKimuraさん


標高173mのモンジュイックの丘中腹のカタルーニャ美術館前からスペイン広場の景観を楽しんだ後、
11時にバルセロナを出発、北へ80kmバスを走らせて、レスタニーへ向かいました。
15Cに埋め立てられるまでサンタ・マリア教会の周りが水面であったことが村名の由来となっている
レスタニー(=池)の村に12時15分に到着した後、先ずサンタ・マリア教会を見学しました。



サンタ・マリア教会の後陣

西側正面

927年に建てられた小さな教会から発展、1080年にはビックの司教に寄進されてロマネスク教会に改修され、
1133年に聖母マリアに捧げる教会として献堂されたサンタ・マリア教会は、
13Cにアウグスティヌス会修道院となり、16C以降は教区教会として存続している教会です。

教会に近付くと、身廊交差部の高い鐘楼がロマネスク建築の後陣に違和感を与えていることに気付きますが、
西側正面へ回ると外階段が見え、1448年の地震の後に再建された後付けであることが分かります。



この教会で注目されるのは、12Cの中頃に着工、13C後半に完成した回廊に残る柱頭彫刻です。


受胎告知とエリザベツ訪問         幼児虐殺            エジプトへの逃避


キリストの洗礼           最後の晩餐              主の祭日


楽師と踊る女             狩猟                   恋人たち

鮮やかな彫刻や柱頭という制限された枠の中での表現力、デザイン性に卓越した技が見られる他、
聖母マリアやキリストの物語、動植物や幾何学文様と共に、
人々の生活の様子までが彫られている所に特徴が見られた回廊でした。



「エジプトへの逃避」の聖母マリアに見られる「授乳の聖母」はこの頃から流行り始めた図像で、
石の壁に囲まれた典型的なロマネスク様式の簡素な聖堂内の祭壇奥に置かれた
14Cのアラバスター製の聖母子像も同様の場面となっていました。

修道士たちが会議を行っていたチャプター・ハウスや付属博物館(写真撮影禁止)で、
羊皮紙を使った古書、豪奢な法衣や聖具、イスラム風も混じるタイル類などを見学した後、
1時半に人口400人のレスタニー村の中のレストランへ行きました。



レストラン「GRAU」


現地ガイド:ジェマさん

  

ランチはサラダ、カタルーニャ風ソーセージ、プリンとシンプルなメニューでしたが、
この時驚いたのはワイン・ビール・水が無料サービスだったことで、
北スペイン特有というこのようなサービスを、この後も度々受けることになりました。
お昼から入ったアルコールで、旅仲間の壁が一気に低くなり、賑やかなランチ・タイムが繰り広げられました。



レスタニーを3時前に出発し、アンドラへ向けて山道をバスを走らせました。
8Cにカール大帝によって造られたアンドラは、フランス大統領とセウ・デ・ウルヘル司教を共同国家元首とし、
新憲法を制定した1993年に国連に加盟した面積468平方km、人口75000人の小さな独立国家で、
アンドラ公国というのが正式名称です。



アンドラ国境

ホテル「HOLIDAY INN」

国境とはほとんど名ばかりに見えるゲートをフリーパスで通過し、
アンドラ公国の首都アンドラ・ラ・ベリャのホテルに5時40分に到着、6時20分にホテルのロビーに集合して、
添乗員Iさんと一緒に街の散策に出掛けました。



フランスとスペインに分かれるポスト


ホテルから坂を上ってメインストリートに出ると、12Cのロマネスク建築にゴシック建築を増築、18Cに改修、
「メアリー・チェン母子像」(盗難に遭ったためレプリカ)を見所とするサン・ステファノ教会がありました。



カサ・デラ・バル

700周年記念モニュメント

カサ・デ・バル

新しい国会

店舗が立ち並ぶ石畳の街の奥まった一角に国会や裁判所として使われた16C建造のカサ・デラ・バルがあり、
フランスのフォア伯爵とセウ・デ・ウルヘル司教によるアンドラの共同統治が始まった1278年から
700年後の1978年に造られた記念モニュメントが建物横に建てられていました。
カサ・デ・バルは現在は閉鎖中で、国会は2011年から新しい議会場に移されています。
石を使っている所にピレネー山中の国らしさが見られる新旧建物です。



30分ほどの散策を終えて街の中で解散、免税の国とあって多くの旅仲間はデパートへ向かったようですが、
主な商品は電気製品、化粧品と聞きましたし、食料品を買い込むにはまだ早いし、と私達夫婦は
メインストリートのウインドウ・ショッピングをしながらホテルへ戻りました。




8時半からのホテルでの食事はビュッフェ・スタイルで、やはりワイン・サービスが付いていました。
スペイン・ツアーでは夕食の時間が遅いことが難点ですが、
まだ夏時間のこの時期(10月の最終日曜日から冬時間)、外が明るくなるのは朝9時前でしたので、
体内時計を2時間ほどずらして、スペイン時間に適応するよう努めました。


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