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12 Oct.2012
 Vielha~Barrera~Taull~Boi~Vielha

コロンブスが新大陸を発見した10月12日は「イスパニアの日」と呼ぶスペインの祝日でしたが、
外はあいにくな空模様で、雨が音をたてて降り続いていました。
結局、止みそうな気配を見せない雨の中、9時にホテルを出発して、
アイギス・トルテス国立公園の南西端に位置するボイの谷へ向かいました。
1947年に開通、2007年にもう一本新たに造られたスペイン最長5230mのビエリャ・トンネルを通過する時、
「トンネルを抜けると・・・」というフレーズを祈る思いで心に浮かべていましたが、抜けた途端、
少し明るい空と濡れていない路面が目に入り、信じられない思いと共に、一気に期待が高まっていきました。



9時50分にボイの谷のバルエラ村に到着、サン・フェリウ教会で写真タイムが取られました。
装飾といえば後陣のロンバルディア帯だけという12Cに建造、16Cに改築された石造りの素朴な教会ですが、
まわりの景色にしっかり溶け込んで、落ち着いた風情を見せていました。



10時15分にタウール村に到着すると、何という幸運でしょう、このような素晴らしい青空の下で、
「今回の旅に誘ってくれた」サン・クレメンテ教会の鐘楼が出迎えてくれました。

上に向かう程、窓は小さいだろうという平凡な発想を裏切って、
窓を拡大させて伸びるロンバルディア様式の鐘楼の造形には、見事という言葉しか浮かびませんでした。



最初にサン・クレメント教会の前を通って、坂を上り、村の中心にあるサンタ・マリア教会へ行きました。
外壁を修復中で、邪魔なブルドーザーを避けて、民家の外階段の上から写真を撮った後、中に入ると、
カタルーニャ美術館で見た「栄光の聖母」の複製が後陣に描かれているのが目に入ってきました。




900年代始めに移動した時、後ろからロマネスク壁画が発見されたというバロックの祭壇障壁もありました。
モデルニスモの旗手として活躍していた建築家&文芸評論家のプッチ・イ・カダファルクは、
この壁画発見後にはカタルーニャ・ロマネスクの研究者として名を成していったそうです。


村の民家

雄大なピネレーに抱かれた風景や灰色のスレート屋根とベージュの石壁で統一された民家は
間違いなく美しいのですが、実は、少し目を転じると、
人口50人ほどという小さな村に似つかわしくないホテル群が存在する現実との出会いもありました。



左手にホテル群

ヨーロッパの他の国で出会う美しい中世の村々を勝手にイメージしていたのが間違っていたのですが、
建築バブルが崩壊したばかりの現代スペインとの遭遇は、
色の規制だけでもまし・・・?とも思える、少しばかり落胆を伴ったものとなりました。



サン・クレメンテ教会へ行くと団体予約客が入っていたため、先にタウールのビューポイントへ行くと、
旅行社のパンフレットに出ていたスペイン観光局提供の写真と同じパノラマが広がっていて、
素晴らしい景観を素直にたっぷりと堪能しました。


少し山道を上って丘の山頂へ行くと、修道士が修行の場としていたといわれるサン・キルゼ礼拝堂があり、
下方遠くにエリル・ラ・バル村のサンタ・エウラリア教会などを見て、高所からの絶景も楽しみました。
少し前に下で出会った山羊たちも到着して草を食む側で、キノコ狩りを楽しむ人達の姿も見られました。



日本のものと少し顔の違うナナカマド、ボタンヅル、カンパニュラ、ノコギリソウの仲間たち


11時45分ごろ下へ降りて、サン・クレメンテ教会に入ると、複製であってもやはり「荘厳のキリスト」が
圧倒的な存在感を見せ、小後陣の上部や柱に、黒い犬などオリジナルのフレスコ画が残るのが見られました。



木組み天井、石の洗礼盤、初代司祭を描いたと見られる板絵などのオリジナル品

サン・クレメンテ教会は1123年12月10日、サンタ・マリア教会は一日遅れて、
12月11日に献堂されたと伝えられていますが、
このような辺鄙な地域に教会がたくさん作られたのは、
イスラムから守ってもらうためにアラゴン王国の支配下に入ったことを表していると言われています。

8Cにイスラムに侵攻されたボイの谷を9Cにトゥールーズ伯が奪還、辺境伯領としますが、
力をつけた諸伯の勢力争いによって村は荒廃、その後、台頭したトゥールーズ伯家臣のエリイ家が、
12Cにアラゴン王アルフォンソ1世のレコンキスタに参戦し、それによって得た報奨金や交易などで富を蓄え、
ロマネスク教会を再建したというのが、この地域の歴史的背景とされています。


サン・クレメンテ教会の美しい七層の鐘楼は、眺めるだけでなく、上る体験もしてみると、
ここでも晴れ上がった空に感謝する景観に出会うことが出来ました。


  

鐘楼内部には人がすれ違うこともできない急勾配のはしご段がかかっていましたが、
足元に気をつけて、ゆっくり上り降りすれば、全く問題はありませんでした。




ほぼ2時間を過ごしたタウール村を離れる時、地味、逆光・・・と撮りそびれていたサン・クレメンテ教会の正面を
慌てて1枚だけカメラに収めました。



再びバスに乗って10分余り、12時20分過ぎにボイ村に到着しました。

1900を超すロマネスク教会が残るといわれるカタルーニャ地方ですが、
中でも密集度の高い「ボイ渓谷のカタルーニャ・ロマネスク教会群」の中の9教会が
2000年に世界遺産に登録されていて、この日はその9教会の中の4つを見学することになりました。

最後のボイのサン・ファン教会は、6層から3層になってしまった鐘楼、姿を変えた後陣など
ちょっと無残な恰好をさらしていますが、内部の天井やフレスコ画の修復、複製には最も力を注いでいる様子が、
ボイの谷の中心の村であることを表しているようでした。


  

人気の高い「聖ステファノの石打ち」の故郷がこのボイ村であったことが分かりましたが、
キリスト教を信じる前のパウロがこの石打ちに加担しているという話も興味深い所でした。
因みに教会名のファンというのはイエスの弟子のヨハネを指しています。


ランチまでの20分ほど、城壁が残るボイ村の中を散策、
1階を家畜小屋として使っていた古い家屋などが残る石造りの村に重ねてきた歴史が感じられました。



家の軒につけられたお守り


イスパニアの日の休校?

サン・マルティン川に架かる11Cの石橋

城壁の外の新興地?では、村人の生活を垣間見ることも出来ました。
現地ガイドのジュディチさんと談笑する老人方の元気の元は畑作業と毎日のダンスだそうです。
大きなかぼちゃは昨夜の無味なスープを思い出させてくれましたが・・・。



レストラン「PEY」

  

サラダ、アリオリソース添えフィデウア(パスタのパエリア)、アイスクリームというスペインらしいメニューの
ランチは美味しく、只のテーブル・ワインもすっかりお馴染みとなりました。



2時半にレストランを出発して、3時10分にビエリャ・トンネル近くのモイヤレス渓谷に到着し、
1時間半ほどハイキングをして、気持ちの良い、心身共にリラックスした時間を過ごしました。



スタート地点にはフランス国境に近いこのあたりが内戦や第2次世界大戦時に重大な拠点になったこと、
フランコ政権の政治犯によってビエリャ・トンネルが作られたことなど歴史を語る案内板が立っていましたが、
今はノゲラ・リバゴルサナ川に沿って、美しい秋景色が広がっているばかりでした。



ハイキングの折り返し点の滝


黄葉したブナの林の中の滝に到着して、思わずカメラを取り出したガイドのジュディチさん

   

日差しがなくて花を閉じたクロッカス、村の家のお守りに使われていたタンポポに似た「カローナ」、
大きなローズ・ヒップ、数年前から日本の花屋さんでも見かけるようになったエリカの仲間など、
花数は少なくても、充分に楽しめた草原ハイキングでした。
花は終わっていてもトリカブトが植物観察の目玉になるのは洋の東西を問わないということも発見でした。



バスが待つ所まで戻ると、遠目には石に同化しているような羊の大群がいて、
思わず近寄って行って、写真を撮らせていただきました。
羊の数は1500頭、あと1週間ほどで山を下りるとのことでした。
(実は野原歩きの時には、避けようがない程たくさん落ちている羊の糞に辟易させられたのですが・・・。)



5時にホテルに戻り、入浴、荷物整理を終えて、「以前はもう一度散歩に出るエネルギーがあったっけ・・・」と
まだまだ明るさが残る外を部屋の窓から見ると、旗を手にしたデモ隊が
ヒスパニアのお祭りとも見えるのんびりとした感じでパラドールの入口に集まっているのが見えました。


   

パラドール・レストランでの8時からの夕食は、揚げエビのアミューズ、生タラのサラダ、イベリコ豚フライ、
クリームブリュレというメニューで、昨夜とシェフが変わったと思われる程の美味しさでした。
結局、レストランのミニマム・サービス・ストというのは、
朝食に温かい卵料理が出ないという程度のサービス低下で済んだのではないかと思われた
ビエリャ・パラドール・ステイとなりました。


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