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13 Oct.2012
Vielha~Jaca~Javier~Sanguesa~Pamplona


ツアー5日目はカタルーニャ地方を後にピレネー山脈を西進し、アラゴン、ナバラ地方へ向かいました。
昨日通ったビエリャ・トンネルを通過した後、小さなトンネルをたくさん抜けていく車窓は、
緑豊かな山、岩肌むき出しの山、果樹や麦、牧草畑・・・と様々に変化する景色と同様に、
晴れたり曇ったり、霧が立ち込めていたり、お天気も刻々と変わり、
山岳地帯を走っていることが実感されました。

 


8時45分にビエリャを発って2時間ほど、バルバストロ近郊のレストランでトイレ休憩が取られました。
スペインでは長距離を運転する時には2時間毎に30分の休憩を取ることが
公共乗物ドライバーの義務とされているそうです。



バスが標高を下げながら進むにつれて、工場のある小さな集落や山上の城塞などが車窓に増え始め、
街に近づいていく気配が感じられました。



12時40分にハカに到着、フィリップ2世時代に造られた五陵の星形の16Cの城塞近くでバスを降りました。
スペイン内戦の前兆となった1930年の君主制廃止を求めた反乱の舞台ともなったこの城塞は、
現在も軍事訓練所として使われているそうですが、
城塞の外の草地では家族連れがボール遊びに興じる長閑な光景が見られました。

ローマ時代以来の歴史を持つハカは、イスラムを撃退した8Cのレコンキスタの後に伯爵領となり、 
1035年にアラゴン王国を築いたラミロ1世(在位:1035-63)が首都と定めますが、
1118年にアルフォンソ1世がサラゴサへ遷都した後は、司教座として存続していったそうです。




古来、フランスとスペインを結ぶ交通の要衝であったハカは、
ソンポルト峠を越えてサンチャゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼の宿場町でもあり、
道路にはその証の「ほたて貝」マークが埋め込まれていました。


この街に残るのがスペイン最古のロマネスク教会と言われるサン・ペドロ大聖堂で、
1076年頃着工し、1130年に完成したと言われていますが、各時代に繰り返された増改築によって、
様々な様式が付け加えられています。




西正面はポーチを持ち、奥まった入口扉の上にあるタンパンには、
キリストのギリシア文字ΙΧΘΥΣと「最初の者であり、最後の者である」を表す
α
ωを組み合わせたモノグラム、クリスマが花に飾られて刻まれ、
左右2頭のライオンと足元の蛇を追う男と熊や怪獣という図像と合わせて、
「三位一体」を表すと周りの銘文に記されているそうです。



南入口に増設されたポーチには改築で不要になったロマネスクの柱頭が使われていて、
そこに残る「ハカの名匠」と呼ばれる彫刻家の技が高い評価を得ています。


  

「イサクの犠牲」「バラムとロバ」「聖シクストゥスの殉教」など繊細な表現に才能を見せる「ハカの名匠」は、
11C末の巡礼路で活躍、フロミスタ、レオン、サンチャゴにも作品を残していますが、
名前は残さなかった天才のようです。



結婚式参列者

ゴシック装飾が美しく施された大聖堂内では、ちょうど結婚式が行われていて、
おごそかさと華麗な雰囲気に包まれていました。



日曜日の大聖堂の周辺は、地元の人達のハレとケ、非日常と日常が混じり合っていて、
のんびりと観察しながら、楽しい散策時間を過ごしました。


  

1時15分からの「San Martin」でのランチは、珍しくチョイス・メニューとなっていて、
2人組を利して、サラダとシーフード・パエリア、タラと鶏肉料理の2種ずつ選び、2倍分味わえたのですが、
写真は何故かメインしか残っていません。
テーブルのチョイス騒ぎに呑まれてしまったという言い訳はさて・・・・?



2時45分にハカを出発し、丘の街ベルドゥンや緑豊かなレイレ山脈を車窓に見ながら、
1時間余りでハビエル城(=新しい家)に到着しました。

10Cのアラゴン川流域の監視塔を始まりとするハビエル城は、12Cに城塞、13Cに防塁と塔など時代と共に拡大し、
14Cにフランシスコ・ザビエルの母マリア・アスピリクエタの一族所有の城として形を成していきましたが、
ナバラ王国がカスティーリャ王国に併合されると共に衰退、
20Cに入って後にザビエルが生まれた城として修復されて、観光コースとなっています。

1506年4月7日にナバラ王国の貴族の子弟として生まれたザビエルは、19歳までこの城で過ごした後、
パリに留学、イグナチオ・ロヨラと出会って、1534年にイエズス会を創設し、
1541年にローマ教皇とポルトガル国王ジョアン3世の命を受けてインドへ布教に赴き、インドネシアを経て、
1549年から日本で布教活動に入り、多くの信者を得たと伝えられます。
その後、インドへ戻る途中、1552年に中国の上川で他界し、遺体はインドのゴアに祀られ、
1662年にグレゴリウス15世によって列聖されています。


   
ザビエルの生涯を紹介するジオラマ

   19Cの南蛮掛け軸        ザビエル肖像:ムリーリョ画         蔵書や日用食器


13Cキリスト木像 15Cフレスコ壁画

新礼拝堂

元の馬屋部分を利用して作られた博物館や城内の礼拝堂などを見学しながら、
司馬遼太郎の「街道をゆく 南蛮のみち」を読んで膨らませていたイメージが遠のいていく印象を受けましたが、
これは予想の範囲で、観光地化されたお陰で訪ねて来られた者としては文句の言えない所でした。


かっては巡視路であった塔のテラスへ出ると、ナバラ地方の緑豊かな丘陵地帯が広がっていました。
「ザヴィエル城は、市民が日常生活を営む都市城郭ではない。
純粋に戦闘用につくられた孤立せる要塞である。・・・・ムーア人に対する孤独な防衛のみを主題として
設計されており、それだけに兜の目庇の下から両眼を光らせた戦士が、
槍をかまえて岩上に蹲踞しているような凄気がある」(「南蛮のみち」)というほんの30年前の描写すら、
想像力を駆使しなければ理解できないような穏やかな景観でした。



スキンヘッドのハビエルさん

キャラメルを購入したレストラン

バスに戻り、バルセロナからサンチャゴまでのスルー・ドライバーのハビエル(!)さんと写真を撮ったりしている所へ、
キャラメル問題(!?)で出発を遅らせると連絡が入りました。
これから向かうパンプローナには美味しいと評判のコーヒー・キャラメルがあるのですが、
明日は日曜日で購入できない可能性が高いので、ザビエル城で買った方が良いという添乗員Iさんの情報が、
城内の敷地の中にあるお店がクローズしていて頓挫、
それでも諦められない数人の旅仲間が電話して、お店を開けてもらうとのことでした。
そこで再びバスを降りてお店まで行くと、6人程が並んでいて、おそらくその人数分しかないだろうと言われ、
仕方がないと諦めて帰る道で、通り抜けのように寄ったレストラン内のショップに置いてあるのを発見、
その場にいた6~7人が購入するのに充分な在庫がありましたので、5箱入手することが出来ました。


“DOS CAFETERAS”

100%Natural Coffee Cream Caramelsと書かれたSince1886のレシピのキャラメルは
口に入れた時は固いのですが、すぐにくだけ、食べ慣れると独特な甘さが癖にもなる味わいでした。
結局、ほしい人は手に入れることが出来て、満足感と共に5時前にハビエル城を出発しました。



パンフレットには記載されていませんが、「時間があったら寄ります」と聞いていたサングエサに5時10分に到着、
アラゴン川にかかる19Cの鉄橋を歩いて渡り、
サンタ・マリア・ラ・レアル教会の正面ファサードを見学に行きました。



巡礼路にあたるナバラ地方の教会にはフランスの建築家が関わっていたそうで、
びっしりと彫刻が施されたファサードは、フランスのロマネスク教会を思い出させるものでした。
茶色の金属製の保護枠は最近取り付けられたもののようです。


 
「荘厳のキリストと12使徒」の彫刻の下のタンパンに彫られた「最後の審判」

 
       三人のマリア        聖ペテロ・聖パウロ・首を吊るユダ

三人のマリアの真ん中の聖母マリアが手にする本に「レオデガリウスこれを造る」と記されていて、
タンパンから下の彫刻の大半を請け負ったのがブルゴーニュ出身(推測)のレオデガリウスで、
シャルトル大聖堂の人物円柱との類似から、シャルトルでの経験も指摘されています。
人物円柱に使われるのは珍しい「ユダの首吊り」像のリアルさ、マリア像の優美さなどが注目されました。


バスク語で平原を意味するナバラ地方の車窓風景

6時過ぎにナバラ自治州の州都パンプローナのホテル「NH IRUNA PARK」にチェックイン、
8時にロビーに集合して、バスで街の中心のレストランへ出掛けるまで、ゆっくりと過ごしました。


  

レストラン「San Ignacio」での夕食はサラダとビーフ・シチューと共に
ナバラやリオハの赤ワインやロゼワイン、今回のツアー中にお誕生日を迎えたお二人のバースデイ・ケーキの
ミルフィーユが供されました。
ウエイトレスおばさんの愛嬌の良さが印象に残る気持ちの良いお店でした。


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