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15 Oct.2012
San Sebastian~Bilbao~Gernika~San Sebastian

 
「HOTEL LONDRES E INGLATERRA」



ホテル「ロンドレス・イ・イングラテーラ」の保護シートがかかっている2階(日本では3階)が私達の部屋で、
すっきりと海に面している右側の部屋に私達の旅仲間が当たったかどうかは不明ですが、
「遊歩道の背後は街でもかくべつ美しいビルの列がならんでいて、都市そのものが演劇性の高い空間になっている」
(「街道をゆく 南蛮のみち」)と司馬遼太郎が描く海岸に面したロケーションの良さ、
趣きのあるエレベーターや朝食の女性の卵料理サービスなど、気持ちの良い連泊ホテルでした。


  

9時にホテルを出発して、徒歩でサン・サバスチャンの市内観光に向かいました。
今夜のフリーの夕食の情報のひとつとして、最初に立ち寄ったショッピングセンター「San Martin」の中には
日本人が出している寿司店があり、夕食に利用するという旅仲間の話も耳に入ってきました。




通りの間にすっきりとした尖塔を見せているのは18C建造のネオ・ゴシック様式の大聖堂です。
正面扉の上部に地元出身の彫刻家エドゥアルド・チリーダ(1924-2002年)の銀色の十字架が掲げられていて、
市民の95%がカトリックを信仰するという伝統性と共にバスク人の誇りや進取の気性を感じました。


 

ギプスコア広場前には議事堂や司教館が並び、ギプスコア県県都に相応しい風格が漂う一画となっていました。
その前の公園には南アフリカの植物が植えられていると聞きましたが、
外から一見しただけで、おまけに雨まで降り出してしまい、ゆっくりと観察することは出来ませんでした。

  
    現地ガイドのアナさん  バスク語とカスティーリャ語併記の標識

「原ヨーロッパ人」と称されるケルト人よりも古く、現生人類クロマニヨン人の直系の子孫とも言われるバスク人は
フランスとスペイン国境地帯を「祖国」と考え、「バスク語」だけを民族のアイデンティティとする民族です。
フランコ独裁政権が終わった後、1979年に地方自治体制がスタートした時に、
「バスク語の復権」こそが民主化の象徴と考え、現在はバスク自治州内においては、
バスク語が公用語として認定され、学校では半義務教育化されているそうです。
スペインの多くの都市にあるデパート「エルコンティングレス」がサン・セバスチャンにはない、
他州の法人税が32%に対してバスク州は28%であるなど、
独自、独立性がバスク地方の伝統であるというのがアナさんのお話しでした。


 
旧市街入口ゲート
 市庁舎

現在は週末コンサートなどが行われる円形パビリオンのような建物は旧市街への入口ゲートだった建物で、
運河にするという意見を押さえ、広い並木道(Alameda del Boulevard)に生まれ変わったかっての城壁を進むと、
20C初めにはカジノ、1950年から市庁舎として使われている立派な建物がありました。


  
砂浜に王妃専用更衣室         モンテ・ウルグル             旧市街入口ゲート  

海岸通りに出ると、美しい海岸線が伸びるコンチャ湾の小さな波止場から、
マリア・クリスティーナの専用更衣室や山頂に1950年建造のキリスト像があるモンテ・ウルグルなどが展望でき、
近くの漁港では漁船や漁師の家、水揚げされたばかりのマグロなども見られました。
ハプスブルク家からスペイン王室へ嫁いで来たクリスティーナ(1858-1929年)が滞在したことが、
サン・セバスチャンを高級リゾート地として発展させたといわれています。


  

旧市街への門をくぐり、先ず18Cのネオ・クラシック様式のサンタ・マリア教会を見学しました。
洗礼専用の小さな教会を始まりとするサンタ・マリア教会は市内に4つある大きな教会の中心となっていますが、
バスクで信仰される精霊マリと聖母マリアが同一視されたという背景、
祭壇に飾られたシルバーのマリア像の黒い顔がケルト文化の影響と言われる所に地域性が見られました。
このような「ブラック・マドンナ」は巡礼路沿いに7体造られ、4体が現存するそうです。




この教会にもエドゥアルド・チリーダのアラバスター製の十字架が飾られていました。
サッカー選手から建築家、彫刻家の道を進んだ彼は、パリで成功を収め、ハーバード大教授も務め、
今は亡くなったベルリンに埋葬されているそうです。
バスク人は孤立した民族というイメージを持たれていますが、世界最古の捕鯨、ロヨラやザビエルなどの宗教者、
大航海時代を支えた司令官など世界の歴史に名を残した人物も輩出し、
「外に向かう」側面も持っていることが、エドゥアルド・チリーダの生涯にも伺えます。


 
市内最古の建物

 元・魚市場

イギリスとポルトガルの部隊が爆撃してフランスの占領軍を破った1813年8月31日に因む
8月31日通り(31de Agosto)に残る市内最古の18Cのレンガの建物や、
闘牛場として使われた時代の名残りで、窓に観客席ナンバーがふられた建物のある憲法広場、
現在は映画館となった魚市場、ショッピングセンターとなった肉市場の建物なども見学しました。


  
美食の街と言われるサン・セバスチャンの台所を支える魚貝類

昔の市場と形は変わったようですが、今もマーケット・プレイスとなっているエリアで、
魚屋や青果店を覗いた後、ウルメア川まで歩き、スリオラ橋を渡った所でバスに乗りました。


 
  

バス観光の最初はマリア・クリスティーナが夏の離宮としていたミラマール宮殿でした。
小高い丘の上にあった人物像はカタリナ・デ・エラウソ(1592-1650年)で
修道女中尉(La Monja Alferez)と呼ばれたスペインとスペイン領アメリカの伝説的な人物ですが、
この場所に置かれている由来は分かりませんでした。
宮殿は現在はパーティ会場や音楽学校として使われていて、
遮るもののない庭園前には広々とした気持ちの良い景観が広がっていました。



モンテ・イゲルドの眺望
  

再びバスに乗って、モンテ・イゲルドへ上ると、湾入口のサンタ・クララ島がアクセントになった
コンチャ(=貝殻)湾の美しい眺望が眼下に広がっていて、「ビスケー湾の真珠」と称されることが納得されました。
街歩きは残念でしたが、眺望タイムに晴れ上がったことは幸運で、晴雨兼用傘が大活躍の午前中となりました。
100年前の遊園地や2016年にサン・セバスチャンが欧州文化都市になるという大きな看板を見ながら下山し、
丘のふもとのレストラン「TENIS ONDARRETA」でランチとなりました。

 


  

きのこのリゾット、バカリャオ・デ・ピルピル(干しだらの煮込み)、アイスクリームはいずれも美味しかったのですが、
量が多過ぎて、食べきれなかったことが申し訳なく思われました。


  

昼食後、サン・セバスチャンから西へ80kmバスを走らせ、2時50分にビスカヤ県の県都ビルバオに到着しました。
ビスカヤ領主が街を創設した1300年まで遡る歴史を持つビルバオは、
製鉄を中心とした重工業や商業、金融の中心地として発展、北スペインを代表する人口36万人の港湾都市です。
ビスカヤの鉱山から採鉱される鉄は古来から有名で、「ビルバオの鉄と剣」として、
シェイクスピアの作品にも登場しているそうです。 (「バスクとバスク人」渡部哲郎著:平凡社新書)
そのような街を象徴するように1893年にネルビオン川にかけられた世界初の運搬橋がビスカヤ橋で、
革新的な技術を駆使している鉄橋として、2006年に世界遺産に登録されています。


  

エッフェルの弟子でビルバオ出身のアルベルト・パラシオによって設計された運搬橋は、
ワイヤーで吊り下げられたゴンドラに人と車を載せて、164mの距離を2分程で渡ります。
両側のガラス張りの部分に乗客50人、中央部に車6台を載せることができるそうです。


  

鉄の橋梁内のエレベーターで橋まで上り、50mの高所を歩いて渡るという方法もありますが、
ゴンドラの0.3ユーロに対して、4.8ユーロと値段が高めですので、こちらは観光客向けと言えそうです。


  

高所恐怖症の人には不向きなシースルー構造ですが、景観の良さは言うまでもなく、
歴史のある都市景観を堪能することができました。



グッゲンハイム美術館
  
  

ビルバオ市街のかっては工場地帯であった場所に1997年10月開館のグッゲンハイム美術館があります。
「ポスト工業都市」として「文化・商業都市」を目指したビルバオが、
ニューヨークのグッゲンハイム財団に誘致をはかり、世界へ向けて募った設計によって出来上がった
このユニークな美術館は、今では年間入場者100万人という記録的な数字となり、
「グッゲンハイム効果」と言われる経済効果とバスクのイメージアップ効果を生み出しているそうです。
誘致にあたっては海外移住で広がったバスク政財界の人脈が動員され、
「外圧で変化を試みる志向」と「常に外の世界とつながってきたバスク人の見識、知恵」を持つ民族性と、
この地の伝統に興味を持ったグッゲンハイム財団の意図が合致したことが成功を呼んだと言われています。

アメリカのフランク・O・ゲーリーが最先端技術を駆使して設計し、脱構造主義の傑作と称される美術館は
チタニウムの板が波のようにうねり、オブジェのような異様な外観で周りを圧倒しつつ、
ジェフ・クーンズ作のトピアリー彫刻「パピー」(季節ごとに花を変え、この時はビオラで飾られていました。)や
ルイーズ・ブルジョア作クモのオブジェ「ママン」などと不思議な調和を見せていました。
エゴン・シーレ展を開催中で、音楽ホールも併設しているという内部は見学できませんでしたが、
インパクトの強い外観は長く記憶に残りそうです。



バスに乗って旧市街へ向かう車窓に、グッゲンハイム美術館がネルビオン川に浮かぶ軍艦のように見えました。
この日はスルー・ドライバーのハビエルさんの公休日で、
一日ドライバーのヘスースさんのバスのため、車窓写真がブルーの色付きになってしまいました。


  

ビルバオ市役所、バスク地方特有の木枠窓を持った建物、大聖堂などを見ながらヌエバ広場まで散策し、
カフェでトイレ休憩タイムを取りました。


 

明日はもうバスク地方を離れるのにバスク人の代名詞のようなベレー帽をかぶった人に出会っていない・・・と
残念に思っていると、バスへ戻る途中で、公園のベンチに座っている男性を発見、
ズーム写真を撮っていると、すれ違った帽子姿の男性までポーズを取ってくれましたが、
よく見るとベレー帽ではないようで・・・。

5時にビルバオを出発して、20km東に位置するゲルニカに40分余りで到着しました。
ゲルニカは都市無差別爆撃の先例となったドイツのコンドル兵団とイタリア軍による
1937年4月27日の空爆によって歴史に名を刻み、
パリ万博スペイン館に展示されたピカソの壁画「ゲルニカ」によって人々に衝撃を与えた街です。
中心市街地の71%が破壊された中、消失を免れた1826年建造のバスク議事堂を最初に見学しました。



現地ガイドのミゲルさん

  
  議事堂                    2代目オーク               3代目オーク

集団生活を重視し、教会の前庭での合議によって物事を決定したバスク人の伝統の延長として生まれた評議会が、
「オークの木」の下の宣誓に始まったことに因み、オークがバスクの自治の象徴となり、
樹齢300年の2代目オークの枯木が円柱に囲まれて議事堂の前庭に保存されていました。
2004年に2代目オークが枯れた後、2005年に3代目シンボルとして、
樹齢19年のオークがネオ・クラシック様式の儀式用演壇(Tribune)前に植えられています。



代々のオークをつなぐドングリ

議会儀礼が形式化し、王の役割を代官や役人が代行するようになると宣誓も書状に代わり、
存在価値が薄れていった「オークの木」ですが、代々の木を残すことによって、
ゲルニカがビスカヤ領主の自治の原点であり、バスクの聖地であることを伝えていました。


  

カスティーリャ王フェルナンド5世の「オークの木の下の宣誓」やビスカヤ領主たちの肖像画が飾られた議事堂は
1876年に廃止された後、1979年に復活して以来、再びビスカヤ県評議会場として使われています。
タペストリーや椅子など至る所にオークの木のモチーフが見られました。


  

ビスカヤ各地の地方色をまとう人々がオークの木の下で誓いをたてる場面を描いた天井のステンドグラスは、
1985年にビルバオの会社が制作したもので、美しいものでしたが、巨大さには圧倒されました。


 
サンタ・マリア大聖堂

「ゲルニカ」のレプリカ
 
市庁舎

平和公園

議事堂を出て、戦火を免れた小学校やサンタ・マリア大聖堂、ピカソの「ゲルニカ」のレプリカ壁画、
市庁舎などを見ながら街の中を徒歩で見学しました。

「ゲルニカ」はパリ万博の後、ロンドンなどを巡回、1939年にニューヨーク近代美術館に預けられ、
1973年に「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」といったピカソが亡くなり、
1975年にフランコ政権が終わった後、1981年にスペインに返還されて、
現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されています。
「ゲルニカ」の展示がビルバオのグッゲンハイム美術館の建設条件だったといわれますが、
実現するには難しい現実が立ちはだかっているのかもしれません。

平和をテーマにしたオブジェがある平和公園を通り抜けて、6時40分にゲルニカを後にして、
日暮れた道をバスを走らせ、8時前にサン・セバスチャンのホテルに戻りました。


  
  

この夜はツアー夕食がついていませんでしたので、ホテルの部屋で一休みした後、
バルが48軒あるという旧市街へ出掛け、人が入っていれば大丈夫だろうという判断で選んだお店に入りました。




大皿に盛られたピンチョスを自由に選び、レジで精算するだけですから言葉はいりませんが、
お金を払った時、「ありがとう」と日本語を返されたのには驚きました。
量が少なめでしたので、飲み物、チップも入れて、2人で25ユーロという安上がりな夕食です。


  

滞在時間が少ないのが残念に思われたサン・セバスチャンを惜しみながら、
美しい夜景もカメラに収め、9時半にホテルへ戻りました。
お天気はめまぐるしく変わり、観光は盛り沢山で草臥れましたが、充実した一日の終わりでした。


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