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16 Oct.2012
 San Sebastian~Santillana del Mar~Comillas~Fuente De


街灯が灯り、まだ薄暗いサン・セバスチャンの街を8時に出発し、西隣のカンタブリア州へ向かいました。
ビスケー湾の雨の風情、雨の多い地域ならではの緑豊かな田園風景も悪くはありませんが、
やはりバスを下りる頃には上がってほしいと思われる雨が降り続いた道中でした。

このバスの中で添乗員Iさんより第2弾目の「パラドール・スト」情報が発表されました。
今回のツアーで宿泊するパラドールの中のハイライトのひとつ、
レオンのパラドールが私達が宿泊する19日に全面ストに入ること、様々な代案を考えた結果と手配によって、
ツアー・ルートを入れ替えて、明日17日にレオンへ向かうことになりました。
一部、バス・ルートが重なってしまいますが、ストの余波がこの程度で収まったのは幸いと言えそうです。
スペイン側の手配会社「MIKAMI」でもパラドールがストするという事態は前代未聞の出来事だったようです。



11時にサンティリャーナ・デル・マル郊外のアルタミラに到着すると、雨は何とか上がった様子でした。
この地方には天然の洞窟が6500か所あり、その中の60か所から旧石器時代の壁画が発見されて、
1985年に世界遺産に登録された「アルタミラ洞窟」は、2008年に17か所が追加され、
「アルタミラ洞窟とスペイン北部の旧石器時代洞窟壁画」と改称されています。



現地ガイドのピラールさん


サウトゥオラ侯と娘マリア

洞窟入口

洞窟内部は保護のために非公開で、2001年オープンの博物館でレプリカを見学することになりますが、
その前に本物の洞窟の入口を見に行きました。

1868年に犬を追いかけていた男性が偶然に洞窟を発見した後、
1879年にアマチュア考古学者で領主のマルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯が洞窟に入った娘マリアを追いかけると、
「アルタミラ!(=上を見て!)」と天井を指さしたというエピソードが洞窟名の由来と言われていますが、
実は洞窟のある高台を「アルタミラ(=上から見る)」と呼んでいたことが真相のようです。
当初は全く相手にされなかったサウトゥオラの報告書が考古学会で評価されるようになるのは、
1940年にフランスのラスコーで同様の壁画が発見された後のことと言われています。
1万1千年前の落石が洞窟の入口を閉ざしたことによって壁画が昔のままに残されたそうです。




写真は撮影禁止の博物館内でもロビーなら大丈夫でしょ、と注意を受ける前に1枚写した壁の文字ですが、
6月19日付の讀賣新聞に紹介されていた米科学誌「サイエンス」最新号の記事によると、
「壁画を覆う鍾乳石の薄い層の年代をウランとトリウムの比率を調べる測定法で分析した結果、
丸い模様や手形など抽象的な絵の一部は少なくとも4万800年前まで遡ることが分かった。・・・ 
研究チームは、現生人類が急速に絵を描く能力を発達させたと考えるより、
もともと住んでいたネアンデルタール人が絵を描いたと考える方が妥当とみている。」とのことでしたので、
数字が書き換えられる日が近いのかもしれません。


ポストカード転載

博物館の中はビデオ室の後、洞窟入り口近くで生活をしている人々の様子を展示物の上に音声付き映像で
投射するコーナー、8層の地層を発掘する様子の再現や壁画を描くプロセスや原料を紹介するコーナー、
長さ18m幅9m高さ1.1~2.7mの大広間を実寸大で再現したコーナーへと続いていました。

まっ暗な洞窟内で動物の骨髄で出来た無煙のろうそくを使って描いた野牛、馬、鹿など動物たちの迫力を
ポストカード写真でもお伝えできるでしょうか。サイズは平均1.6m、最大の雌鹿が2.5mだそうです。
黒い木炭やとがった石で輪郭を描き、貝殻や石を使った顔料で彩色、岩の凹凸を生かしながら、
色の濃淡で立体感を出している技には驚嘆するばかりでした。
高さ77cmの洞窟の入口近くには動物仮面をかぶって狩りに行くシンボリックな絵、
長さ270mの洞窟内の天井には指型やこぶし型のドット、口で吹きつけた手形、サインなど
いまだ意味が解明されない図柄が至る所に見られるそうです。

呪術的な儀式用ではなかったかという推測の域をでない壁画群ですが、
4万年という想像を超える時空へ誘ってくれた人類のグレートジャーニーの現場は興味のつきないものでした。



2本のメインストリート

市庁舎

12時15分にアルタミラを出発し、ほど近くのサンティリャーナ・デル・マルへ行きました。
ディオクレティアヌス帝の迫害でニコメディアで殉教した聖フリアナに由来するサンティリャーナ・デル・マルは
9Cにサンタ・フリアナ参事会教会が建造されて以来、巡礼の街として発展、
カスティーリャ伯の支配下に入った10C以降は歴代君主が修道院を保護、周辺の貴族たちも館を構えて繁栄し、
現在残る17~8Cの建物が趣きを持つ国の文化財指定の街でした。


 
貴族館の壁の紋章

パラドールとして使われている貴族の館や土産物店、バルが両側に並ぶ16Cの石畳の道を歩いて行くと、
マヨール広場に18C建造の市庁舎があり、その先の2本のメインストリートが合流する所に
サンタ・フリアナ参事会教会がありました。



サンタ・フリアナ参事会教会

12C中頃に建造、13Cに増改築された街で最も古い建物のサンタ・フリアナ参事会教会は、
街の繁栄を支えた堂々とした風格を見せつつ、威圧感がない所にロマネスク様式の好ましさが感じられました。
正面扉の上の破風に悪魔を踏みつける聖フリアナ、その下に12使徒に囲まれたキリストが彫られていましたが、
4人の仰臥する天使に囲まれているユニークなキリスト図像が不思議な味わいを見せていました。



  

  

12時50分から30分ほどのフリータイムが取られましたので、教会の回廊に入って、
「獅子の穴のダニエル」「エルサレム入場」「十字架降下」などの聖書物語、天使たち、動植物唐草文様など、
表現力豊かなロマネスク柱頭彫刻の数々を楽しみました。



教会の中には入れませんでしたので、教会の北側に広がる馬が草を食むのどかな景色を見たり、
彫刻ギャラリーを覗いたり、石造りの水場や1階が家畜用だったという建物に歴史を感じながら、
中世にタイムスリップしたような街をゆっくりと散策しました。



  

1時20分からの街の中のレストラン「Altamira」でのランチ・メニューは
具だくさんの野菜スープ、レーズンの甘いソースをかけたイベリコ豚グリル、アップル・ケーキのデザートで、
とても美味しいと好評で、完食した方が多かったようです。



コミージャス侯邸

バロック様式の噴水

成3時前にサンティリャーナ・デル・マルを出発し、20分ほどでコミージャスに到着しました。
コミージャス候アントニオ・ロペスが国王アルフォンソ12世を招いて以来、避暑地として発展したコミージャスは、
美しい海岸線を持つビーチの丘の上に法王庁大学やコミージャス侯邸など由緒ある建物が数多く見られ、
キューバで成功したというコミージャス候の繁栄ぶりが窺える街でした。
コミージャスに最初に水道を引いた出資者を顕彰する八角形の燭台型噴水も街に彩りを添えていました。



ポストカード転載



コミージャス侯邸の前を通り、隣接するガウディ作エル・カプリッチョ(=気まぐれ、奇想)の見学に行きました。
ガウディがそれ程有名でなかった31歳の頃、パトロンであったグエル伯爵の伝手で、
マキシモ・ディアス・キハーノの夏の別荘として1883年から建てたものですが、
建築現場をガウディが訪れることはなかったと言われています。




  

石、レンガ、鉄、木で構成された複雑な建物は、どこから見てもガウディ!という印象で、
15X15cmの正方形のヒマワリのタイルが全体を統一し、調和させているようでした。
日本人建築家・田中裕也氏の設計図などが展示されている室内は思いのほかシンプルで、
窓を開閉すると鐘が鳴る装置など変わった趣向も見られました。
庭の隅に建物を眺めるガウディ像があったようですが、残念ながら、見逃してしまいました。
日本企業が買収、レストランとして使われた時期を経て、現在は博物館として公開されています。



4時15分にコミージャスを出発して、内陸20kmに位置するピコス・デ・エウロパ国立公園へ向かいました。
2500m級の石灰岩の山が屹立するピコス・デ・エウロパ(=ヨーロッパの峰々)は、
北スペインへやって来た船が初めて目にする連山を意味すると言われています。
段々と山深くなっていく車窓風景を楽しみながら、デバ川に沿ってバスを走らせて、
(1車線の山道でのハビエルさんのドライビング・バトル?が前方席の人にストレスを与えた様子でした・・・)
デバ川源流のリエバナ渓谷のフェンテ・デのパラドールに6時に到着しました。



4方をぐるっと山に囲まれたパラドールでしたが、景観や部屋の広さに差があるようで、
この時もキーを自分で選ぶ方式で部屋割りが決まりました。
私達の部屋の運不運は不明ながら、山岳ビューで、広さも充分だと思われましたが、
2重窓で夜中の冷えを防いでくれたサンルーム?はスーツ置場としても利用できない寒さでした。


  

8時半からの夕食は温野菜サラダ、白身魚のベーコン巻、焼きリンゴのメニューでした。
遅めの夕食にも、忙しい毎日の観光にも馴染んできましたが、
早くも、「これからが早いのよねぇ」という会話が交わされる後半に突入しました。


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