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2018・9・27
品川〜京都〜奈良
                 

30数年前に車で家族旅行をした時に東大寺大仏殿へ寄ったことがあるだけで、
いずれゆっくりと訪れたいと思っていた奈良へ小さな旅行を計画し、初秋の奈良路を歩いてきました。

夜来の雨がほとんど上がった中、朝7時前に家を出て、品川8時10分発「ひかり463号」で京都へ向かいました。
ジパング倶楽部チケットの購入が遅かったため、指定席の残席は最後尾の16号車となり、
ホームを歩きながら新幹線車両の長さを思い知ることになりましたが、乗ってしまえば同じこと、
富士山や初秋の田園風景を車窓に眺めている中に、段々と回復に向かったお天気が旅気分を上げてくれました。




10時45分に京都に到着、構内のお店でお弁当を買って、11時3分発のJR奈良線みやこ路快速に乗り込みました。
手動ドア、単線というローカル度には驚きましたが、古都奈良へ向かうには相応しいと言えるのかもしれません。



45分間の車中はお弁当を広げる雰囲気ではありませんでしたが、
朝も早かったことだし、到着後の時間節約のために・・・と、早弁を決め込むことにしました。
小学校京都同窓会で11月半ばに訪れる予定の宇治を通過した時には、宇治川の予想外の大きさや流れの速さを見たり、
写真で朝霧橋、橘橋を確認することもできて、ちょっとした旅の予習、下見が出来ました。



奈良ホテル

正午前に奈良駅に到着し、「朝方まで強い雨が降っていたんですよ」と聞きながらタクシーで奈良ホテルへ行き、
荷物を預けた後、徒歩で周辺観光に向かいました。



最初に立ち寄ったのは蘇我馬子の発願によって崇峻元年(588)に建立が始まった法興寺(飛鳥寺)を起源とする元興寺でした。
日本最初の本格伽藍を持った仏教寺院と言われる法興寺は、飛鳥で仏教文化の中心的役割を担った後、
和銅3年(710)の平城遷都後、養老2年(718)に平城京に移され、
「仏法元興之場 聖教最初之地」を由来とする元興寺と改名され、蘇我氏の氏寺から、
東大寺、興福寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺とともに南都七大寺として官寺の格式を持つようになったと伝えられています。



開眼法要の写真を産経WEST・Webサイトから借用

焼失した元興寺五重塔に安置されていたと伝わる国宝・薬師如来像、重文・十一面観音立像が
創建1300年に合わせて奈良国立博物館から里帰りし、9月12日に開眼法要、13〜27日まで法輪館に展示という情報を得たことが、
今回の最初の訪問先に元興寺を選んだ理由で、
平成最後と盛んに宣伝されている正倉院展を始め、秘仏開帳など様々なイベントが10月から始まる直前、
9月末に開催される唯一ともいえる貴重な機会を見逃せないという訳でした。
お里帰り2像と共に写っている高さ5.5mの五重小塔は旧伽藍の西小塔院の本尊か、五重大塔の雛型か分かっていませんが、
建築技法を知る上で重要な天平時代の数少ない遺作として国宝の指定を受けています。



極楽堂

浮図田(ふとでん)

平安時代後期の律令制崩壊によって、財政の後ろ盾を失った全国の寺院は段々と衰退していきましたが、
元興寺では浄土教の学僧、智光が残した「智光曼荼羅」を本尊とする極楽房が浄土信仰の高まりによって、
聖徳太子信仰、地蔵信仰、弘法大師信仰などとともに庶民信仰を受けて荒廃を免れ、
新たな命運を受けた元興寺極楽房は、明治時代の神仏分離、廃仏毀釈の苦難を乗り越え、
「古都奈良の文化財」のひとつとして、1998年にユネスコ文化遺産に登録されています。
仏像、仏塔が稲田のように並ぶ場所を意味する浮図(=仏陀)田と呼ばれる一画もありました。



国宝・極楽堂の西側に旧僧房を分割し、改築した建物である国宝の禅室が並び建っていました。



1400年以上を遡る飛鳥寺創建時の屋根瓦が移建されている所が極楽堂、禅室の見所のひとつとされていて、
百済から渡来した瓦博士が手がけた日本初の瓦とも考えられている丸瓦を重ねた手法は行基葺きと呼ばれています。




格子構えの町家が残るかつて元興寺の境内であった「ならまち」を歩いて、興福寺へ向かいました。
五重塔と猿沢池のコンビネーションは、最も奈良らしい情趣ある景観のひとつです。


   
   
三重塔                              北円堂            

境内の西端に興福寺最古の建物で、国宝の指定を受けている北円堂と三重塔がありました。
高さ19.1mの三重塔は鎌倉時代建造ですが、細く軽やかな木割りに平安時代の優美な建築様式が見られると評されています。
廟堂の意味を持つ八角形の円堂は興福寺建立を発願した藤原不比等の1周忌(721年)に元明天皇、元正天皇が建立、
現在の建物は1210年に復興されたもので、安置されている運慶作の弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像などは、
毎年、春・秋の特別開扉の折に拝観することができます。




藤原氏の氏寺として710年に不比等が建立した興福寺は、170余りの堂塔を持つほどの権勢をふるっていましたが、
1180年に平重衡の南都焼討ちに遭った後、鎌倉時代に復興を遂げたものの、
その後も度々の戦乱や火災で、消失と再建を繰り返してきました。
それらの伽藍の中心となる3棟の金堂の中、不比等によって最初に建立された中金堂が最も重きを置かれる建物で、
1717年の大火で伽藍を半分焼失した後、100年の歳月をかけて本来より小さな規模で仮堂が再建され、
中金堂の役割を担ってきましたが、その建物も老朽化のために2000年に解体されました。
その中金堂を20年の歳月をかけて、300年振りに天平の創建時に近い姿に再建、
仕上げ段階に入った間口36.6m、奥行23m、高さ21.2mの御堂は、
10月7日から11日まで落慶法要が営まれた後、20日から一般公開されることになっています。
奈良時代創建時の礎石配置を活かして立てられた直径77cm、長さ9.9mの身舎(もや)の36本の柱、
直径65cm、長さ6mの裳階の30本の柱にカメルーン産の2種類のアフリカケヤキが使われたことも特筆に値することでしょう。

      
五重塔                               東金堂      

不比等の娘、光明皇后によって建立、1426年頃、天平の様式を残して再建された50.1mの五重塔、
聖武天皇が建立し、1415年に再建された東金堂の二つの国宝建物の外観を見た後、
今年1月にリニューアルオープンされた国宝館の必見とされる阿修羅像は、
2009年に上野の国立博物館で興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」が開催された時に、
八部衆、十大弟子像と共に対面を果たしているし・・・と、街歩きに主眼をおいた今回は展覧を割愛することにしました。


奈良公園名物の鹿は毎年7月に頭数調査が行われ、今年は雄鹿355頭、雌鹿767頭、性別の判別不能の小鹿238頭、
合計1360頭が記録されたそうです。平均寿命は雄15年、雌はそれより5年ほど長いと言われています。
鹿に食べられないようトゲを増やす方向に進化したといわれる奈良公園のイラクサを是非見てみたいと思っていましたが、
手入れが行き届いた(鹿の落し物は至る所に・・・)公園周辺に雑草類はほとんど見られず、残念でした。
隣接の春日大社境内の鹿苑角きり場で毎年行われる伝統行事「鹿の角きり」は、今年は10月6〜8日に開催予定です。


 

登大路に出て、奈良県庁に立ち寄り、屋上庭園と展望室から奈良市街の眺望を楽しみました。
東に金色の鴟尾(しび)を飾った東大寺大仏殿の大屋根、二月堂、若草山、
南に興福寺の五重塔や最後の仕事をしているクレーンが目立つ中金堂、遠くに三輪山、
北に聖武天皇と光明皇后の御陵を山裾に鎮める佐保山、西に平城宮跡へと続く奈良新市街を一望することができ、
緑に包まれた奈良の文化財の様子をビジュアルに把握することができました。



 県庁を出た後、東大寺南大門へ直進という常道を外れ、右手の東大寺の広大さを実感しながら、
古い街道時代の面影を留めた国道369号線を北へ15分ほど歩いて、転害門(てがいもん)に到着しました。



転害門

平城左京一条大通りに西面して建立された転害門は東大寺創建時代の姿を残した貴重な遺構で、
佐保路門、源頼朝を討とうとした平景清が隠れたという伝説から景清門、手貝門、手掻門などいくつかの別称を持ち、
三間一戸八脚門型式の飾りのない力強さ、雄大さが天平の魅力を湛えて、静かに佇んでいました。
聖武天皇が大仏建立の守り神として、749年に大分の宇佐神社から八幡神を勧請した時、
東大寺の鎮守とされた八幡神はこの門から東大寺に入ったと言われています。





転害門で最も見たかったのは、この節だらけの柱でした。
元々日が当たらなかった北側を南に向けると木が弱ることから、立木の時の方向のままに、
枝が付いていた側を南に向けているという先人の知恵を目の当たりにして、大事なことを教えられた思いでした。


 

東大寺境内に入って、先ず正倉院宝庫の外観を見学しました。
756年に聖武太上天皇が崩御した後、光明皇后が七七忌に大仏に奉献した遺愛品を正倉に収蔵したことに始まり、
国際色豊かな9千点にのぼる宝物が納められている宝庫は、シルクロードの終着点とも例えられています。
お馴染みの寄棟本瓦葺き、檜造り、単層高床式校倉造りの宝庫内部は3つの倉に分かれていて、
北倉には光明皇后の奉献品、中倉・南倉には東大寺に関わる品が納められていますが、
宝物のほとんどが出土品ではなく守られて来た奈良時代のもので、制作年代や由緒が明らかな点が、
正倉院が唯一無二とされる所以となっています。



正倉院から南へ向かうと、大仏池や礎石が残る講堂跡があり、大仏殿の裏正面を望む東大寺北域に出ますが、
その一帯は観光客の姿も少なく、落ち着きがあり、静かに散策を楽しむことができました。



二月堂へ至る石畳の裏参道

二月堂と良弁杉

瓦土塀と石畳が風情を見せる二月堂裏参道は、司馬遼太郎や入江泰吉も好んだ景観と伝えられています。
懸崖造りの泰然とした二月堂の下の杉は、赤子の頃に鷲にさらわれた初代別当・良弁にまつわる伝説のある良弁杉で、
初代は1961年の室戸台風で折れ、挿し木をした2代目は枯死、現在は3代目の杉で、
浄瑠璃や歌舞伎で「二月堂良弁杉」の題材とされています。




二月堂に到着したのがちょうど3時、旅の前には龍美堂のわらび餅で一服と決めていたのですが、
見渡した所、龍美堂は見当たらず、3時間歩き続けたエネルギー切れもあって、ふらりと手近かの絵馬堂茶屋に入り、
その時間に用意できるという唯一のメニュー、抹茶ソフトで一休みとなりました。



二月堂南側から飯道神社前を登って行った先に龍美堂を発見し、わらび餅に心惹かれながら、二月堂へ入ると、
お水取りでお馴染みの舞台から上院諸堂、横位置の大仏殿大屋根、その先に広がる奈良市街の眺望を楽しむことができました。


 

二月堂本尊の大観音・小観音2体は絶対の秘仏とされていて公開されていませんが、
その十一面観音の前で懺悔し、国家の安泰と国民の幸せを祈るのがお水取り、正しくは「十一面悔過(けか)」、
旧暦2月に行われることに因んで「修二会」と呼ばれる伝統行事で、3月1日から14日にかけて様々な行法が修されます。
752年から途絶えることなく続けられてきたお水取りは、今年で1267回目を数えたそうです。
行法に参加する11人の練行衆を二月堂へ導く「お松明」が休憩コーナーに展示されていましたが、
通常松明は長さ6〜8m、重さ40kg、12日だけに使われる籠松明は長さ8m、重さ60kg、
使われる材料は真竹、杉やさわら板、檜葉、杉葉など細かい決まりごとがあることが分かりました。



3月12日深夜に十一面観音に捧げる御香水(おこうずい)を汲む儀式を行う閼伽井屋(あかいや)が二月堂の下にありました。
実忠和尚が初めて修二会を行ない、諸神を勧請した際、若狭の遠敷(おにう)明神が献じたことに因んで、
若狭井とも呼ばれる鎌倉時代初期に再建された建物です。



法華堂(三月堂)

法華堂経庫

毎年3月に法華会が行われることから三月堂とも呼ばれる法華堂は、
東大寺前身の金鐘寺の御堂と考えられている東大寺内最古の建物で、740〜747年頃の創建と言われています。
至宝の天平仏の数々が祀られていると聞きますが、今回はここも外観見学だけとなりました。



三昧堂(四月堂)

手向山八幡宮

4月に法華三昧会を行う所から三昧堂とも四月堂とも呼ばれる御堂や、
東大寺建立に際し、宇佐八幡宮から祭神を勧請した宇佐八幡宮に因み、絵馬発祥の地とも言われる手向山八幡宮を見ながら、
売店や茶店が並ぶ坂を下って大仏殿方面へ向かいました。



東大寺余仏堂

鐘楼(大鐘)

行基堂

俊乗堂

大仏殿の東上に鐘楼を中心とした平坦な一画があり、
東大寺創建に尽力した行基、鎌倉時代の再建の先頭に立った重源の菩提を弔う俊乗堂がありました。
反り返った屋根などに中国様式が見られる鐘楼は承元年間(1207〜11)に臨済宗の祖、栄西(ようさい)が再建、
東大寺創建時の口径2.6m、重さ26tの梵鐘は、宇治の平等院、大津の三井寺と共に日本三名鐘に数えられています。



大仏殿中門

大仏殿(金堂)

転害門から時計回りに東大寺境内を半周余りして、大仏殿前に到着しましたが、
中門から覗いた大仏殿前は人だかり、大仏殿には入場しないことを即決することとなりました。


    
南大門

運慶、快慶の威容を誇る金剛力士像で有名な南大門は、南都焼討ちによって大仏殿とともに焼失後、
三重塔鎌倉時代に俊乗坊重源によって再建されたものです。
金剛力士像の前に置かれた石像の獅子は、南宋の石工が作ったもので、日本の狛犬とは少し違った様相を見せていました。 

  

  
二之鳥居

東大寺を出て、石灯篭が立ち並ぶ春日大社の長い表参道を歩いて、春日大社本殿へ向かいました。


南門

幣殿


中門(楼門)
回廊をめぐらした中門

御蓋山浮雲峰 遥拝所

後殿各社 参拝所

神事や災難除けに使われた榊やなぎなど神木の森で、原始信仰時代にはご神体とされた春日山(御蓋山)の麓に、
奈良、平安時代に強力な政権を担った藤原氏の氏社として建てられたのが春日大社です。
常陸国鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)、下総国香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)、
生駒山から天児屋根命(あまこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)の四神を勧請して、
768年に藤原永手が壮麗な社殿を創建、その折に武甕槌命が鹿の背に乗って来たという言い伝えによって、
神のお使いとして鹿が大切にされることになりました。
神仏習合思想によって春日社と興福寺を一体化し、神仏両体の加護を得た藤原氏は、
春日曼荼羅を信仰する庶民の尊崇も受けて、家門の隆盛を歴史に刻んでいくことになります。
創建1250年を迎えた今年、式年造替も終えて、春日大社は往年の繁栄を彷彿させる賑わいを見せていました。


浮雲園地

奈良国立博物館

奈良国立博物館

荒池と五重塔
奈良ホテル

  

春日大社を出て、奈良公園を横断して、5時半に奈良ホテルへ戻りました。
若草山を望む部屋で台風24号が列島縦断というTV天気予報を見ながら、無念ながら、旅を1日短縮することを決断、
日航ホテルへ1泊キャンセルの電話をして、「台風ですから止むをませんね」と快く承諾していただきました。


 

  

 

一休みをした後、7時に予約を取っていたならまちの「天仁」で夕食、
ちょっと似た雰囲気を感じた通り、銀座の「天ぷら 近藤」で修業したらしい板前さんの揚げたての天ぷらを、
カウンター席で隣席になった地元の方との会話も楽しみながら堪能しました。

スマホの歩数計は25000歩余り、盛りに盛ったという感は否めないとしても、
奈良中心部をほぼ網羅して、満足できる初日となりました。



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