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2013・4・19
松江〜佐太神社〜加賀の潜戸〜美保関〜弓ヶ浜〜米子空港〜東京
                           
    

   
 
島根旅の最終日、4日目は朝から陽のさす好いお天気で、気分は一気に観光モードに入って行きました。
松江駅前に「はじめ人間ギャートルズ」のブロンズ像が置かれていましたが、
これは松江で育った漫画家・園山俊二氏によってこそ生み出されたキャラクターであることが、
神話の国・出雲の大らかな風土に触れて、納得できるような気がしました。

8時半にホテルを出発して、先ず松江城へ向かいましたが、駐車場の入り方に迷って、プチ市内観光?のおまけ付きで、
9時前に大手前駐車場へ車を止めました。


大手門跡 太鼓櫓
大手木戸門跡から城内に入り、 廃城が決まって明治8年(1875)に壊されるまでは数多くあった櫓の中、
平成13年(2001)に復元された時刻を知らせる太鼓櫓、御具足と呼ばれた中櫓、監視用の2階建ての南櫓が並ぶ大手門跡から
二の丸上ノ段へ上って行きました。
江戸時代の絵図や文献資料によると防御の要の門であった大手門には長さ14.5m、幅6.4mの鯱鉾がつけられていたそうです。


松江神社 興雲閣
二の丸上ノ段には松平直政(松平初代藩主・徳川家康の孫)を祭神とする明治10年創建の楽山神社と
寛永5年(1628)創建の東照宮を明治32年に合祀した松江神社がありました。
現在の祭神は松平直政、堀尾吉晴(松江開府の祖)、松平治郷(不昧公 松平7代目藩主)、徳川家康とされています。

松江神社の南にある興雲閣は、明治天皇を山陰へお迎えしたいという地元の強い要望のもと、
明治36年(1903)に13489円の経費で造られた御宿所ですが、まもなく日露戦争が勃発して行幸は実現せず、
 明治40年5月の皇太子嘉仁親王(大正天皇)の山陰行啓の折に使われ、現在は閉館中です。
入母屋瓦屋根、列柱廊回廊など和風と擬洋風と混じったスタイルが貴重な明治木造建築と言われています。 


    
城内随所に見られた八重桜


高さ30m、外観5重、内部6階の天守閣は松江開府の祖・堀尾吉晴によって慶長16年(1611)から5年かけて造営されたものです。
松江城は堀尾氏3代(1600−1633)、京極忠高(1634−1637)の後、松平直政が信州松本から移封し、
松平氏10代(1638−1871)が領していましたが、明治4年(1871)に廃城が決まった時、
元松江藩士・高城権八と斐川町の豪農・勝部本右衛門家の人々が、管轄の陸軍広島鎮台から入札に来ていた責任者・斉藤大尉に会い、
入札額と同じ180円を払って、天守閣を守ったと伝えられています。
こうして守られた松江城の天守閣は国内に現存する12天守のひとつとして、松江のシンボルとなり、
昭和10年国宝に指定、昭和25年の文化財保護法の制定により重要文化財に改められたという経緯を持っています。


現存する木造では日本最大の高さ2.08mの木彫銅張り鯱鉾、一枚ごとに違う表情を持つ鬼瓦、
黒い雨覆板で覆った(下見板張り)白壁の少ない建物外観、自然石をほとんど加工せずに積み上げた野面積みの石壁、
内部の狭間、石落としなど実戦を本位とする体裁に、3重の中央の寺院様式のかざり窓、華頭窓に見られるような桃山風の様式を加え、
無骨さの中に剛健な美しさも兼ね備え、「千鳥城」とも呼ばれている天守閣です。
 入口の付け櫓には鉄延板張りの大戸がつけられ、内部は枡形の小広場が2段構えになっていて、万全の防備体制が見られました。


  
  

天守閣の中には松平家家宝の武具、調度品、古文書など200点余りが展示されていて、
代々城主の威光と共に、出雲の国の発展に貢献した業績が伝えられていました。


 
この天守閣の厚さ10cm、幅1.6mの階段は、防火防腐のために総桐で出来ていて、
引き上げることもできる仕掛けも持ち、他の城に見られない特殊性を持つと言われています。




また、樹齢300年以上の脂をたくさん蓄えた肥松の一本柱の外側に板を寄せ合わせ、鉄輪で締めて太い柱にした寄木柱は
 力学的強さを生むための吉晴の苦心の作と考えられています。



「天狗の間」と呼ばれた最上階は東西9.64m、南北7.72m、中央の間が24畳という広さを持ち、
壁がなく、手すり(高欄)が巡らされて、内部から4方を展望できる望楼式となっていて、
松江の街や宍道湖を一望のもとに見渡すことが出来ました。

    

天守閣を出て、北側から二の丸下段へ降りる途中、
野面積み、打ち込みはぎ、切り込みはぎなどという数種の手法で造られた石垣台の随所に、
築城した堀尾家の紋、工事の分担や石切り場の区別を表す合わせ印などが刻印されているのが見られました。



護国神社

城山稲荷神社
鎮守の森散策コースと呼ばれる北の丸には、明治戊辰の役から大東亜戦争までの軍人を奉祀した護国神社、
小泉八雲が通勤途上に立ち寄ったといわれる城山稲荷神社がありました。



ぐるっと松江 堀川めぐり

ぐるっと松江 レイクライン
稲荷橋を渡って、堀尾吉晴が松江城築城の時に掘削して造った内堀と並行した通り、塩見縄手へ行きました。
200石から600石の中級武士が住んだと言われるこの区域で、
塩見古兵衛が異例の出世をしたことが塩見縄手(縄のように一筋に伸びた通り)の由来とされ、
昭和48年(1973)に松江市伝統美観保存地区、昭和62年(1987)に建設省「日本の道100選」に選定されています。
 堀川めぐりの遊覧船や主要観光ポイントを70分で巡るという観光ループバスが観光地らしい趣きでしたが、
景観を壊す過剰さがない所には好感が持てました。



小泉八雲像

日本の英語学の祖と言われる市川三喜の提唱によって生まれた八雲記念会が顕彰事業として建設を決め、
全国からの寄付金も得て、昭和8年(1933)に開館した塩見縄手の小泉八雲記念館へ寄りました。
当初は山口蚊象の設計による洋風建築であったものを、伝統美観保存地区指定に伴い、
昭和59年(1984)に木造平屋和風造りに改築した建物の中に、(撮影禁止)
遺族から寄贈された文机や椅子などの遺品、著書、直筆原稿、書簡、関係資料など充実した展示が見られました。



1850年6月にアイルランド人の父とギリシア人の母の間にギリシアのレフカダ島で生まれたラフカディオ・ハーンは、
2歳でアイルランドへ移り、フランス、イギリスで教育を受けますが、両親離婚後の養育者であった大叔母が破産し、
19歳で単身渡米、赤貧の生活を経て、ジャーナリスト、フランス文学の翻訳などで世に出て、
明治23年(1890)39歳の時に特派員として来日、まもなく同社との契約を解消し、
英語教師や文筆業で松江、熊本、神戸、東京で14年間を過ごした後、明治37年(1904)に狭心症のため54歳で没します。
松江に住んだ1年3か月のうち、5か月間を過ごした家が当時のままに保存され、公開されていました。


「庭のある侍の屋敷に住みたい」という八雲の希望により貸された松江藩士・根岸家の枯山水の観賞式庭園は、
著書「知られぬ日本の面影」の中に、八雲の日本庭園観の舞台として登場するそうです。
少年時代に左目を失明し、右目も悪かったため、顔をこすりつけて読書や物書きをしたという身長160cmほどの八雲が愛用した
特注の机のレプリカ(本物は記念館に収蔵)も置かれていました。
高校の頃、一字一句、辞書を引きながら読んだ(読まされた)ハーンの随筆は何だったのか、今や思い出すことも出来ませんが、
これを機にもう一度著書を手にしてみたいと思いながら、旧居を後にしました。


塩見縄手の家並み

    

塩見縄手の途中にあるお店に立ち寄り、めのうの勾玉をお土産に買った後、
京都、金沢と並ぶ和菓子処と言われる松江の老舗のひとつ「風流堂」のおぜんざいで一休みをしました。

宇賀橋 堀川遊覧船 大手前広場発着場
宇賀橋を渡り、内堀に沿って大手前まで戻り、次の目的地、佐太神社へ向けて、11時過ぎに松江を後にしました。
この日は夕方、米子を発つまで、松江でゆっくり過ごすというプランもあったのですが、
カーナビさえあれば、どこへでも容易に行けることが分かり、「神話の国」探訪ルートを突き進んでみることにしました。

佐太神社 随神門
昭和51年(1976)に国の重要民俗文化財、平成23年(2011)にユネスコ無形文化遺産に登録された
毎年9月に行われる御座替祭(ござがえさい)神事で演じられる神楽「佐陀神能」で有名な佐太神社に20分程で到着しました。
 御座替祭は本殿三社以下摂社末社すべての御神座の茣蓙(ござ)を敷き替える一年毎の遷座祭ともいえる神事で、
 延喜式の「出雲莚」、枕草子の「いやしげなるもの まことの出雲むしろの畳」はこの藺草茣蓙(いぐさござ)を指しているそうです。


  
矢大神             左大神



随神門を抜けると、左から南殿、正中殿、北殿と大社造りの御本殿が三殿並立する壮観な神社構えが見られました。
佐太神社は平安時代末期に成立したと言われますが、現在の御社殿は文化4年(1807)造営されたもので、
国の重要文化財の指定を受けています。

主祭神は天照大御神の孫、邇々杵命(ににぎのみこと)が地上へ降臨した時に道案内をしたことによって、
導きの神とされる猿田毘古大神と同神とされる佐太大神で、
伊邪那岐命、伊邪那美命、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)と合わせた五柱が正中殿に、
北殿に天照大神、瓊々杵命の二柱、南殿に須佐之男命と秘説四座の神の五柱、本社三殿合わせて十二柱の神々が祀られています。

出雲大社の神在祭について「大社を去る17日と出雲を去る26日に神々を見送る神等去出祭(からさでさい)が行われますが
その間、20日から25日までは松江市の佐太神社で神在祭が開催されるそうです。」と今回の旅の一日目レポートに記しましたが、
佐太神社の由来書によると、「記録に残るところ祭は陰暦10月11日から25日までの15日間行い、
11日から17日までが上忌で準備期間としての散祭(あらいみ)、18日から25日までが下忌で致祭(まいみ)とされ、
下忌の方が重儀で18日に神迎神事を行い境内に注連縄(しめなわ)を引き渡すと
25日の神等去出(からさで)神事が終わるまで謹慎斎戒に服しました。」
「明治30年頃より陰暦10月を陽暦11月に改め上忌が無くなり下忌のみを執行することになり現在にいたっています。
八百万の神々は出雲大社にお立ち寄りになった後当社においでになるという伝承がありますが、
これは出雲大社では上忌が残り、当社は下忌が残った為に生まれた誤伝です。」とありました。
いずれにしろ八百万の神々は両社に集まられると考えておいても間違いではないのかもしれません。


  

本殿前の左手に手水舎、右手に「藻汐祓」という一画があり、 
「家に悪穢があった時、青竹で汐筒を作り海に行き汐を汲みジンバ草(神葉草=ホンダワラ)を採り、
身を清め当社にお詣りして祓をするのが古くからの習俗」と立て看板にありました。


舞殿 御仮殿
佐太神社では平成28年度(2016)に正遷座祭が行われるため、御仮殿で参拝をしました。
真新しさに戸惑ってしまいましたが、御仮殿といえど拝殿と本殿を併せ持ち、遷座儀式が厳かに行われたことが想像されます。




社殿、神域の荒廃した部分を修復して、面目を一新するために行われる式年の御造営ですが、
偶然居合わせた宮司さんは「国の補助金が少なくて思うように進んでいないんですよ。」とぼやいておられました。



佐太神社を出て、北東へ10kmほどの加賀の潜戸(かかのくけど)を目指す途中、10分程で日本海が見え始め、
時々、景色の良い所で写真ストップを取りましたが、
「日本で一番県庁所在地に近い原発と言われていたが、2005年3月31日に所在地の鹿島町が松江市と合併したことにより、
日本で唯一、県庁所在地に立地する原子力発電所となった」(ウィキペディア転載)という原発も遠望されました。


島根町の海岸

12時過ぎに潜戸観光遊覧船の発着場「マリンプラザしまね」に到着すると、
4〜10月に運航している遊覧船は「本日運行」の表示があり、20分後に出航することが分かました。
この日は2mの高波で潜戸の洞窟内部に入ることはできないため、1200円の料金が1000円に割引されることになりましたが、
ともあれクルーズが出来る幸運に感謝しながら、防寒、防水、ライフジャケットの重装備で、
20人乗りほどの小さな「なぎさ」号に乗り込みました。



加賀漁港を出航して、夏には海水浴で賑わうという桂島を左手に潜戸まで2km足らずのクルージングは、
「波をただよう木の葉」状態で、少し肝を冷やし、軽い船酔いもありましたが、先立つ好奇心でカバーして乗り切ることができました。




加賀港湾の突端にある高さ40m、長さ200mの海食洞窟によって出来たトンネルが新潜戸で、
カプリ島の「青の洞窟」に対して、「緑の洞窟」と称される神秘的な洞窟の内部は想像するだけとなりました。
1891年にここを訪れた小泉八雲は「これ以上美しい海の洞窟はない」と「知られぬ日本の面影」で絶賛しているそうです。

出雲国風土記によると棋佐加比売命(きさかひめ)が佐太神社の主祭神、猿田毘古大神を出産されたのが新潜戸で、
大切にしていた弓箭が誕生時に流されたため、「わが御子が麻須羅神の子であるならば、失せた弓箭よ出てこい」と言うと、
鹿の角の弓箭が流れて来て、「これは違う」と投げ捨てると、
次には金の弓箭が流れ出て、正しく我が弓箭であると取り上げて、「闇き(くらき)窟かな」と東口の岩を射通されると、
射し込んできた明るい光で洞窟内が輝いたため「ああ、かかやけり」と言われたことが「加賀」(かか)の地名の始まりとされています。
勢い余った金の箭は奥に見える沖の島まで射通し、この穴が弓のけいこの的とされたので的島と呼ばれ、
手前の西口から洞内に入ると、左側に白木の鳥居があり、平らな岩を誕生岩として祀っているのが見られるそうです。



新潜戸の外側の見物を終えた後、遊覧船乗り場の正面岩壁に見えていた旧潜戸を下船して見物しました。
かつては洞窟前の砂浜に直接降りていたようですが、現在は少し南に造られたトンネルを通って洞穴へ入るようになっています。



旧潜戸は年端もいかない中に命を落とした幼子たちの魂が集まる場所と言われ、小石を積んだ塔が無数に並ぶ賽の河原でした。
大昔には海人族の女神達が子供を産み育てた所とも伝えられる余り気持の良い場所ではありませんでしたが、
遊覧船のもう一組の乗客であったマニアックなカメラを持った二人連れは、ここを撮るために数回訪れているとのことでした。



東京の大学、就職を経て、定年後に地元へ戻って来たというシニア・ガイドのお話を聞きながら、50分程の湾内クルーズを終えて、
今回の旅の最終地、美保関へ向けて1時20分頃、加賀を出発しました。


  
  

山道を縦断して境港を経由、2時に到着した美保関は、古代より漁業や交易で栄えた島根半島の東端に位置する港町で、
町の中心に鎮座する美保神社周辺には商店や旅館などが立ち並び、今まで訪れた神社とは少し趣きを異にしていました。

大国主大神の御子神、事代主神(ことしろぬし)を御祭神とする美保神社では、
父から「国を譲るべきか、否か」と問われた事代主神が、国譲りを認めた後、船を踏み傾け、海中に身を隠したという神話に因む
青柴垣(あおふしがき)神事が毎年4月7日行われています。
もしかしたら、その神事に使ったものかもしれないと思われる幡のような布が随神門の下に干されていました。


拝殿 御本殿後方

随神門を抜け境内に入ると、御本殿を二つ並べ、美保造り又は比翼大社造りと呼ばれる独特の建築様式を持つ本殿が、
門前とは違う神域らしい空気の中に荘厳な姿を見せていました。
右側の本殿には大国主大神の御后神で、高天原から稲穂を持ち降りた農業と子孫繁栄の守り神である三穂津姫命(みほつへめのみこと)、
左側に御子神の事代主神が祀られています。
江戸時代に入ると事代主神が大漁の神、恵比須様と同一化され、美保神社は全国の恵比須社3385社の総本社として、
水産、海運業の人々から信仰を集めているそうです。
以前、西宮神社でも恵比須社総本社と聞きましたが、そちらは商売系の恵比須社ということでしょうか・・・?
いずれにしろ、恵比須、金毘羅、釜神などは神無月にも出雲へは行かずに留守を守る神様とも言われています。


鳥居の先には海が見え、イカや目刺しを干す港町の光景が見られて、神社境内とは雰囲気が一変する美保神社を出て、
山道を美保関灯台へと上っていきました。



地蔵崎は大山国立公園と島根半島、隠岐、三瓶山地区を合わせて、昭和38年(1963)に大山隠岐国立公園に指定された岬で、
雄大で美しい日本海の景観が見られましたが、残念ながら、隠岐島までの眺望を得ることは出来ませんでした。
古来、美保之埼と呼ばれていた岬は、航海の安全を祈願して、岩壁や波打ち際に多くの地蔵が奉納されたことによって、
中世以降には地蔵崎と呼ばれるようになったそうです。

古事記には羅摩(かがみ=ガガイモの実)の船に乗り、鵝(ひむし=蛾?)の皮衣を着て、韓国(からくに)から海を渡って
小彦名命(すくなひこなのみこと)が「御大之前」(みほのさき)へ辿り着き、大国主大神の国造りを手伝ったと記され、
出雲国風土記には「三穂之埼」とされている美保関ですが、ミホは素晴らしく秀でた所、神が依りつく場所の尊称と言われています。



沖之御前地之御前

事代主神が魚釣りをしたと言われる沖合4kmに浮かぶ沖之御前(みさき)と眼下の地之御前を遥拝するために
中央に「沖之御前地之御前」と書かれた額が掛けられた鳥居は昭和48年(1973)に設置されたもので、
毎年12月に美保神社で行われる諸手船(もろたぶね)神事も、
この場所で魚釣りをしていた事代主神に国譲りの可否を問うたという国譲り神話に因んでいるそうです。

明治31年(1898)年に建てられた美保関灯台は山陰地方最古の灯台で、平成10年(1998)に世界の歴史的灯台100選に選定、
平成19年(2007)には灯台のほか、旧吏員退息所主屋、倉庫、石塀など関連建造物を含めて、
灯台としては初めて国の有形文化財に指定されています。
海抜73mの岩上に凝灰岩で造られた高さ14mの灯台は、当初は地蔵埼灯台と呼ばれていましたが、
同名地が多いため、昭和10年(1935)に美保関灯台と改められ、昭和37年(1962)以降は無人化されています。



灯台横の旧吏員退息所の石造りの建物は、今は美保関灯台ビュッフェというレストランとして使われていて、
館内には明治31年(1898)から昭和29年(1954)まで使用したというフランス製の初代レンズが展示されていました。


  

2時45分という遅いランチとなりましたが、ビュッフェのカウンター席で日本海を眺めながら、
「地魚スペシャル」
「御崎(みさき)のいかめし」をいただきました。
少し離れた席に加賀の潜戸で同船だったお二人の姿も見えましたので、定番ルートとなっているのかもしれません。



高麗山と大山

弓ヶ浜より望む美保関

美保関を出て、境港へ入り、時間の余裕がありましたので、「夢みなとタワー」の高さ43mの展望台に上りましたが、
天候や時間のせいか、期待したほどの眺望ではありませんでしたので、
弓ヶ浜海岸へ降りてみると、前方に25km先の大山の雄大な姿が見られました。

昔、韓国(からのくに)の神様が、お国自慢の山を大きな船に載せて、高さ比べに日本へやって来たのですが、
大山の大きさにあきれ果て神様がそのまま残していったと伝えられるのが手前左側に見える高麗山です。
出雲国風土記には、八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)が4回行った国引きの最後の場所がこの辺りで、
大山に綱をかけて越(北陸地方)から国を引き、「意宇」(おう)と名付けて出雲の国を大きくしたと書かれているそうです。

「日本列島において海面が最も高くなった縄文海進は、今から約六千年前のこととされる。その後、時間の経過とともに
海面下の地盤が隆起し、火山灰が堆積して、現在のような広大な平野ができたと考えられている。
ちょうどその頃が弥生時代にあたり、出雲の稲作農業に携わった当時の民衆は耕地が増えたことを心から喜んだに違いない。
スサノオに始まる出雲王朝は、ヤツカミヅオミツノの時代になって三瓶山から伯耆大山まで支配を拡大し、
韓および越の王朝とも交流をするような巨大な王国となったのであろう。
そう考えると、まさにヤツカミヅオミツノは、出雲王朝の中興の祖であるといえる。」(「葬られた王朝」)と梅原氏が著述されるように、
出雲から弓ヶ浜までの4日間の島根の旅は、
開祖、須佐之男命から中興の祖、八束水臣津野命を経て、6代目の大国主大神の時代に最盛期を迎えた出雲王朝との出会いとも言え、
今まで断片的であった神話、歴史がきれいにひとつの線としてつながり、とても充実した旅となりました。


  
海岸一面に生えていたコウボウムギ


4時20分に米子空港でレンタカーを返却し、384kmの島根旅が無事に終わりを迎えました。
5時20分に空港を飛び立ち、つい4日前までは全く未知であった眼下の弓ヶ浜、美保関に名残り惜しさすら感じながら、
快い疲れと共に帰路に着きました。



雲が厚く、はっきりとは分かりませんでしたが、かなり早目に太平洋上に出て、海上航路をとったようで、
日没の中、はるかかなたに富士山を小さく望んだ後、(右写真の右隅にぼんやり見える小さな三角形)、高度を下げて、
定刻の6時45分に羽田空港に到着しました。

少し待ち時間がありましたが、ラッシュアワーの電車を避けて、7時半のリムジンバスで渋谷に出て、
タクシーに乗り換えて、8時半に帰宅しました。
予期しなかったほど多くの見聞に恵まれ、無事に旅ができたことを大黒様に感謝をこめて・・・!

                                                          (2013.5.14)



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