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2014・5・27
下諏訪~片倉館~高島城~諏訪大社上社本宮~神長官守矢資料館~諏訪大社上社別宮
~尖石縄文考古館~麦草峠~白駒池~八ヶ岳高原ロッジ
                           

昨夕から天気予報が好転し、雨の心配のない旅の2日目となりました。



昨夜と同じ食事処で8時からゆっくりと朝食をいただいた後、
客室9室という規模が心地よく、ゆったりと過ごすことができた「聴泉閣かめや」を9時前に出発しました。



「聴泉閣かめや」に隣接して「本陣 岩波家」がありましたが、これらは共に本陣であった建物を兄弟で分割相続し、
旅館の経営が傾いた後、地元の企業が引き継いで、昨年11月にリニューアル・オープンしたといういきさつを持つようです。
中山道随一の名園を誇る本陣が開くのは10時ということで見学は諦めましたが、
案内板に「明治天皇行在所 上々段の間」と表記があり、「上段」「上々段」のランク付けが面白く思われました。



永六輔 「綿の湯」石碑

建御名方神妃の八坂刀売神が化粧用の湯を真綿に浸して下社へ持参した折に、綿を置いた所から湯がわいたというのが、
下諏訪温泉の「綿の湯」の由来で、やましい者が入ると湯がにごることが下社七不思議のひとつとされています。
本陣近くの「綿の湯」伝説の場所は、甲州街道と中山道の合流地点ともなっていて、
旅籠や問屋場などが軒を連ね、諏訪大社下社の門前町として賑わった往時の面影を留めた一画となっていました。



 「諏訪温泉」陶板レリーフ  

文化2年(1805)に描かれた木曽路名所図会を元にした陶板レリーフなどが並んだ案内板には、
松尾芭蕉と門人であった近江国膳所藩士菅沼曲水の連歌も紹介されていました。
「人ごみに諏訪の湧き湯の夕まぐれ」 曲水  
「中にもせいのたかき山伏」  芭蕉



会館棟

温泉浴場

下諏訪を出て、諏訪湖を南下し、上諏訪にある片倉館に立ち寄りました。
片倉館は明治時代の代表的な製糸業者であった片倉家の2代目当主、片倉兼太郎氏が創業50周年の記念事業として、
欧米視察の知見を取り入れて、昭和3年(1928)に地元の人々の福祉施設として造った温泉浴場で、
松山森之助氏(1889-1949)設計のゴシック・リバイバル風の意匠や軟弱な湖岸の地盤に適した耐震設計が高い評価を受け、
平成23年(2011)に国の重要文化財に指定されています。
月2回の休館日にあたったため、ステンドグラス、彫刻が施されているという大理石造りの1度に100人が入浴できるという「千人風呂」は
見学することが出来ませんでしたが、隣接して諏訪市美術館もあり、諏訪地方の文化の奥深さの一端にふれたひと時でした。



高島城天守閣

冠木門

次に高島城へ寄り、天守閣を見上げる西側から城内に入りました。
天正18年(1590)に豊臣秀吉の家臣であった日根野織部正高吉が設計、文禄3年(1592)に着工、慶長3年(1598)完成した高島城は、
慶長6年(1601)の初代藩主・諏訪頼水から10代藩主・諏訪忠礼まで270年の間、諏訪氏の居城として威容を誇っていましたが、
明治4年(1871)の廃藩置県の後、明治8年(1875)に天守閣が撤去され、翌年、明治9年(1876)から高島公園として城址を一般公開、
その後、昭和45年(1970)に大岡實氏(1900-1987)の設計によって天守閣や櫓、門などが復元されたそうです。
資料館や展望室となっている天守閣内部には入らず、ここも外観だけを見て回りました。



「諏訪ノ湖水眺望」 渓斎英泉画 (1790-1848)

かつては諏訪湖に突き出していた水城の高島城は、「諏訪の浮城」とも呼ばれていたそうですが、
江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影を失ったと言われています。
創作がかなり加わっているとは思いますが、江戸の雰囲気が伝わって来る英泉の浮世絵です。



高島城天守閣


角櫓と本丸内堀

冠木門と冠木橋

冠木門を抜けて、冠木橋から城外に出ると、天守閣や角櫓を一望するビュー・ポイントとなっていましたが、
時代を経た野面積みの石垣と見事に調和した高島城の美しさは予想を超えていて、しばし、ただ見入るばかりとなりました。



高島公園内には御殿跡や移築された三之丸御殿裏門、城の名残りの石、心字池、大きな藤棚、野外ステージのある広場などの他、
明治33年(1900)創建の諏訪護国神社もありました。




10時過ぎに諏訪大社上社本宮に到着し、東参道から境内に入り、入口門から布橋を通って参拝所へと参道に沿って進みました。
案内図を見ると、中央の幣拝殿の後方(左手)の森が「神居」、南(案内図上部)の守屋山が「神体山」とされ、
諏訪造りと呼ばれる本殿を持たない諏訪大社の建築様式がよく分かります。



手水舎

入口の鳥居

天保2年(1831)建立の手水舎の脇を流れる御手洗川で、氷を砕いて掘った川底から2匹の赤蛙を捕まえて、
神前で柳の弓で射通して、矢串のままお供えするという「蛙狩り神事」が毎年元旦に行われますが、
どんなに寒い年でも蛙を捕まえることができることが諏訪の七不思議のひとつとされています。



出早社

駒形屋

入口の門前にある出早社の祭神は諏訪大神の御子神・出早雄命(いずはやおのみこと)で、
上社の地主神、門番の神と伝えられ、古くからイボ神様としても敬われ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習があるそうです。


  

神馬舎とも呼ばれる駒形屋は諏訪大神の御神馬の屋形で、明治27年の台風で神馬舎が倒壊した時にも10m程飛び出して、
被害を受けなかったと伝わる木製の神馬が祀られていました。



入口門

本宮の入口で風格ある佇まいを見せている門は、文政12年(1829)に地元の宮大工・原五左衛門によって建立されたもので、
雄大な構えと素晴らしい彫刻が称賛を受けています。



布橋

絵馬堂

入口門に続く約70mの長廊は、明治維新までは上社の大祝(おおほうり=祭神の子孫で、神を顕現する者)だけが通った場所で、
その折に布を敷いたことから布橋と呼ばれ、現在でも御柱大祭遷座祭の時には神輿(=神)が通る道筋として、
近郷の女性が自身の手で織り上げた布を敷くそうです。

布橋の左手にある絵馬堂は額殿とも呼ばれ、参詣者の祈願やお礼として奉納された額や絵馬が納められ、
前回の御柱祭に使われた左右に7人の若者が乗る楢の木で造られた長さ5mのメド梃子や曳綱も展示されていました。



摂末社遥拝所

大国主命社

布橋を進むと、文政11年(1828)の建造と伝えられる、現在100社近くあるという諏訪大社の摂社、末社の遥拝所があり、
その側に摂社の大国主命社がありましたが、その小さな社が出雲神の立場を表しているように思えました。


西宝殿

続いて、1608年に徳川家康が寄進したと伝わる勅使門(別名:四脚門)をはさんで東西の宝殿がありますが、
東の宝殿と勅使門は修復工事の保護シートがかけられていて見ることができませんでした。
写真は布橋の間から見た茅葺屋根の西宝殿ですが、一般の神社の本殿にあたる宝殿には諏訪大神の御神輿が納められていて、
下社の春・秋二宮のように幣拝殿の後方ではなく、本宮では神体山に向けて建てられている所に違いが見られました。
どんな干ばつの時でも宝殿の屋根から水滴が最低3滴は落ちることが宝殿の天滴と崇められて七不思議のひとつとされると共に、
諏訪大神が水の守護神として崇敬される根拠ともなっています。



社殿?

巡拝路に沿って進み、参拝所の前に立った瞬間の違和感は、幣拝殿が工事用保護シートに印刷された写真のせいと分かりました。
本宮社殿は天正10年(1582)に織田信長の軍勢に攻められて灰燼に帰した後、代々の藩主によって再建されましたが、
現在修復中の建物は、天保9年(1838)に2代目立川和四郎によって建立された立川流の代表的建物と言われるもので、
昭和58年(1983)に国の重要文化財の指定を受けています。



勅願殿

梶の木

参拝所がある一画に、朝廷や諸侯の祈願を行った場所と伝えられる元禄3年(1690)建造の勅願殿があり、
重要な大社祭事を行う幣拝殿に対して、個人的な祈祷を行う場として、諏訪大神の神霊が宿る守屋山に向かって建てられていました。
その前方に植えられた神紋の原木といわれる梶の木は元気なさが気になるところです。



参集殿

塀重門

社殿や勅願殿、宝物殿、参集殿などが並ぶ上段から階段を下りて、玉垣の外へ出ましたが、
文政12年(1829)建立の塀重門は通り抜けが出来ず、一般参拝には使われない重要な門と見受けられました。



階段を下りた所に、上下社合わせて16本の御柱の中、最も大きい本宮一之御柱が立っていました。
明治以降に御柱用に使われるようになった樅の木を、上社は25km隔てた八ヶ岳の御小屋山の社有林から、
下社は12km隔てた霧ヶ峰高原の国有林から伐り出し、上社と下社で1週間の間隔をおいて、
大祭の年の4月上旬に山出し祭、5月上旬に里曳祭りが行なわれるそうです。
御柱の後ろ側に回ってみると、曳かれた時にすり減った跡がしっかりと刻みつけられていました。



お沓石と逆鉾

高島神社

一之御柱の奥に真中の窪みが諏訪大神の沓の跡とか御神馬の足跡と伝えられる諏訪7石のひとつとされるお沓石があり、
その奥の玉垣の角に、投げた小石が一度で柱の上に乗ると願いごとがかなうと言われる天の逆鉾と呼ばれる石柱がありましたが、
今回は4人共に届きませんでした。

高島神社には諏訪大神の子孫とされる江戸時代初期の高島藩中興の藩主3代が祭神として祀られていて、
諏訪地方の特徴と言われる上社最高の祀職である大祝と藩主を兼ねた祭政一致の形態の一端を覗かせています。



手水舎の横の狛犬は作者の清水多嘉示氏の好意で昭和49年に奉納された下社秋宮の大狛犬の原型で、
近くには諏訪温泉の源泉と伝えられる明神湯の手水もありました。
諏訪大神は力強い神様として相撲とも関係が深く、相撲神事が行われる大社には多くの力士も参拝し、
昭和41年(1966)に奉納された横綱柏戸関をモデルとしたといわれる江戸時代の大力士・雷電像も置かれていました。


天流水舎

宝殿の下方に天竜川の水源とも伝えられるお天水と呼ばれる天流水舎があり、
宝殿の軒からの天滴と晴天の日でも屋根の煙突のような穴から入る滴が舎内の井戸に溜まると言われ、
干ばつの時には雨乞い神事が行なわれるそうです。



神楽殿

左:勅使殿   右:五間廊

天流水舎の前には、上社で最も大きな建物である文政10年(1827)建立の神楽殿がありました。
毎日行われていたと伝わる大々神楽や湯立神事は伝承が途絶えてしまったようです。



元旦の朝だけ打たれる直径1.8mの神楽殿の大太鼓

大国主命社の下には朝廷からの勅使が着座されたと伝わる元和年間(1620頃)建造の勅使殿、
神長官、禰宜太夫、権祝、擬祝、副祝の神職五官が着座したことが古記録に残る安永2年(1773)に建造された
廊下様式切妻造りの五間廊がありました。



本宮の境内を出て、三之御柱を見がてら山道を少し上って行くと、法華寺がありました。
天正10年(1582)3月3日に織田信忠の軍勢が諏訪に攻め入り、武田家が崇拝する上社本宮を焼き討ちにした後、
3月11日に天目山で武田勝頼軍を滅亡させ、3月19日に信長が諏訪入りして、半年間、この法華寺に陣を敷いて、
諸将が集まって論功行賞を行なった折に、信長の怒りに触れた明智光秀が諸将の前で折檻を受けたことが、
6月2日の本能寺の変を引き起こした発端のひとつとも言われています。



墨縄神社

吉良義周の墓

法華寺の脇の山道をさらに上ると墨縄神社や吉良義周の墓がありました。
材木に線をひくための大工道具、墨壺に使う糸を墨縄ということから墨縄神社は大工の神様とされ、
吉良義周は吉良上野介の外孫で、後に養嗣子となった人物で、討ち入りの翌年の元禄16年(1703)に諏訪に流され、
高島藩に預けられていましたが、宝永3年(1706)に病死し、法華寺に葬られたそうです。

歴史を語り継ぐ建造物が数多く残る上社本宮を1時間余り見学した後、11時過ぎに次の目的地、神長官守矢資料館へ向かいました。
車でわずか2分の距離でしたが、目的地近くでカーナビが詳細ガイドを止めたために小道に迷い込んでしまい、
同じ道を2度目に通った時に、突然、見たいと思っていた建物が目に飛び込んできて、思わず、「ここよ、ここ!」と叫んでしまいました。



「空飛ぶ泥舟」

「高過庵」

傾斜地の畑の中に見つけて大声を上げたのは、かくも奇妙な建物ですが、これは地元出身の建築史家の藤森照信氏の作品で、
「空飛ぶ泥舟」は2011年に茅野市美術館で開催された「藤森照信展 諏訪の記憶とフジモリ建築」の時に、
地元職人やワークショップ参加者と共に制作され、展覧会終了後に移築された茶室、
その奥の空中に浮かぶ「高過庵」は、「高過ぎた」ので「たかすぎ庵」と命名された2004年に自分用に設計した茶室で、
はしごをかけて4人程が入れる現役の茶室ですが、TIME誌で「世界でもっとも危険な建物トップ10」に選ばれたそうです。



大祝諏方家墓所

神長官守矢資料館

二つの茶室から丘を少し下った先に、大祝諏方家墓所と目指す神長官守矢資料館がありました。

今回の旅を計画し、下調べの中で出会ったのが大祝(おおほうり)や神長官(じんちょうかん)という言葉でした。
諏訪盆地には室町時代初期に編纂された「諏訪大明神画詞」などに、古事記とは別の国譲り神話の記述があり、
それによると出雲系の稲作民族を率いた建御名方命が諏訪へ侵入した時、
この地で以前から長(おさ)をしていた先住民族の洩矢神(もりやのかみ)が天竜川河口に陣取って迎え撃ちましたが、
建御名方命に負けてしまい、勝利した建御名方命が諏訪大明神となって諏訪大社を興し、
その諏訪大社の筆頭神官である神長の位についたのが、洩矢神の子孫とされる守矢家とされます。
建御名方命の子孫は諏訪氏として大祝という生神(いきがみ)の位に就きますが、古くは大祝の地位には成人前の幼児が即位、
即位にあたる神降しなどの呪術を行う力は神長官だけが持つとされたため、信仰と政治の実権を握っていたのは守矢家で、
諏訪氏と守矢氏が共存していくこの諏訪地方独特の祭政体が古代から中世まで続いたと考えられています。
神長守矢の歴史は一子相伝の口伝によって伝えられて来たそうですが、76代実久氏が「神長守屋氏系譜」を表して文字化、
現在の78代目早苗氏が神長官守矢資料館を開設されたそうです。


御頭御社宮司総社

大祝、神長官と共に初めて出会ったのがミシャグジ神という言葉でした。
諏訪大社は建御名方命ほか3神の出雲系の神が御祭神とされていますが、祭祀は樹木や石や生神・大祝に降りてくる精霊である
御社宮神、御作神、御左口神など様々に表記される諏訪地方古来の神、ミシャグジ神を中心に行われ、
表向きは中央政体に従いながら、縄文時代以来とも伝わる土着の神を守り継いで来た諏訪独特の信仰が見えて来るようでした。
ミシャグジ神を祀る諏訪地方の神社の総社とされるお社が守矢家敷地の高台にありました。



神長官守矢資料館

神長官守矢資料館は守矢家に伝わる1600点に及ぶ古文書や家伝品を保存、公開するために平成3年(1991)に建てられたもので、
建築家としての藤森照信氏のデビュー作品ともなっています。
壁土を塗った外壁面の一部にサワラ手割り板を貼り、屋根には天然スレートや地元産の鉄平石を用いて、
外見的には鉄筋コンクリートの構造を見せない造りが、周囲の景観にすっかり溶け込んでいました。
正面入り口の庇を貫く地元産のイチイの木を用いた4本の柱は、偶然、設計の鉛筆が走って生まれたものだそうですが、
上社祭器の薙鎌(なぎかま)が打ち込まれた姿には、原始の力強さが込められているように感じられました。


  
兎の串刺し                 耳裂鹿(みみさけしか)                鹿・猪の頭

館内には諏訪大社上社の最も重要な神事とされる御頭祭の神前供物が復元展示されていました。
これは江戸中期、天明4年(1784)に御頭祭を見た菅江真澄の細密なスケッチによるもので、
御贄柱(おにえはしら)、さなぎ鈴、根曲太刀、藤刀、弓矢などの神前祭具や猪の皮焼き、脳和え、生鹿、生兎、五臓などの肉料理が
狩猟との結びつきが強いといわれる諏訪のお祭りの一端を伝えていました。
耳裂鹿というのは、神前に献ずる75頭の鹿の首の中に必ず、神の矛にかかった耳の裂けたものがあったという伝えによるものです。



奥の展示室では企画展「守矢文書にみる 室町時代の古文書」が開催されていました。(撮影禁止)
藁をモルタルに混ぜた壁、鉄鐸型電灯、2階の収蔵庫へ上がるための電動式梯子など、細部に藤森氏のこだわりが見られる資料館でした。



守矢家

神長守矢家祈祷殿

資料館を出て、真夜中に火の気のない中で一子相伝が行われたという祈祷殿を見ながら、守矢家の門を抜けると駐車場があり、
そこではじめて、私達は裏道に入り込み、資料館の職員用の駐車場に車を止めていたことや、
御頭御社宮司総社や神長官守矢資料館が守矢家の敷地の一部に建っていることが分かりました。




資料館職員の方から教わった藤森照信氏の茅野にある4つ目の建築、県道沿いにあるご実家の外観も拝見させていただきました。
ほとんどはいとこさんの設計になるもので、ご本人が造ったのは玄関と茶室だけということで「玄庵」と命名されたご実家です。


上社前宮の鳥居

内御玉殿

神長官守矢資料館を出て、本宮から2km東に位置する前宮へ行きました。
県道から一段高くなった広場が諏訪大神が初めて出現された場所として神原(ごうばら)と呼ばれ、上社の祭祀の中心地となり、
大祝の居館である神殿(ごうどの)や付属の重要な建物が立ち並んでいましたが、
大祝が室町時代に居館を他に移した後、多くの神殿は消滅し、現在、前宮に残るのは祭儀だけとなったそうです。

鳥居右側の内御玉殿は、諏訪大神の幸魂奇魂を祀り、かつては御神宝が納められていた神原の中心の社で、
現在の社は昭和7年(1932)造築ですが、正面の柳組や蛙股などは天正13年(1585)の旧殿の古材が使われているそうです。


十間廊

鳥居左側の間口3間、奥行き10間の十間廊は昔は神原廊とも呼ばれ、上社最大の神事である御頭祭を執り行った建物です。
3月酉の日に行われていた御頭祭は、大祝以下全神職の奉仕のもと、鹿の頭75頭や鳥獣魚類などの御供え物をし、
大祝の神徒が神霊を奉じて、信濃国中に出発するための大祭でしたが、
明治以降は4月15日に、本宮で例大祭を済ませた御神輿を十間廊上段の間に安置する神事と変わっています。



鳥居から200mほど、両側に民家や畑のある普通の道を上った高台に前宮本殿がありました。
諏訪大神が最初に居を構えた場所と伝えられ、諏訪信仰の発祥地として本殿を持つ所が諏訪大社の他の3社とは違う点で、
昭和7年(1932)に伊勢神宮の古材を使って造営された本殿の側面へ回ると、玉垣と拝門の構造がよく分かりました。


     

12時半過ぎに上社前宮を出発して、次の目的地の尖石(とがりいし)縄文考古館へ行く前に途中の蕎麦店に寄って、
「つき臼で丹念につきあげて、そば本来の甘みと香り豊かな希少なそば」と謳われた「十割どうづきそば」、又は鴨なんばんと、
朴葉味噌カツをシェアして、昨日に続いて、信州そばランチとなりました。


尖石縄文考古館

宮坂英弌氏像
 
1時半頃、尖石縄文考古館に到着し、戦前から小学校教師を勤めながら考古学の研究をし、八ヶ岳山麓の縄文遺跡の発掘を行なって、
日本で初めて縄文集落の全容を明らかにした宮坂英弌(ふさかず)氏の功績を紹介する映像を見た後、
館内の展示物をゆっくりと鑑賞しました。


    
深鉢 -下ノ原遺跡-             甕 -棚畑遺跡-                      展示室

    
国宝「縄文のビーナス」 縄文時代中期 (約5000年前) 高さ27cm 重さ2.1kg -棚畑遺跡-

    
国宝「仮面の女神」 縄文時代後期(約4000年前) 高さ34cm  重さ2.7kg -中ツ原遺跡-

装飾性豊かな縄文土器、祭祀用具、生活用品など充実した展示品の数々を堪能しましたが、
何よりうれしかったのは、是非見たいと思っていた「縄文のビーナス」「仮面の女神」に出会えたことでした。
(今春、国宝の指定を受けた「仮面の女神」は上野の国立博物館へ貸し出し中のため、レプリカでしたが・・・。)

また国宝とされる「中空土偶」(函館市)「合掌土偶」(八戸市)「立像土偶」(山形県舟形町)も展示されていて(撮影禁止)
思いがけず、一挙に5体の国宝土偶を全部見ることが出来たことは望外の喜びとなりました。

    


考古館に収蔵されている縄文土器を見本にして、土器の作成と野焼きをする土器サークルの方々が作業の手を休めて、
「本物を見ながら作成出来ることが何より恵まれている点です。」と話しながら、野焼きの説明をして下さいました。
「以前、神奈川で見た勝坂式土器に比べ、文様がはるかに複雑で精巧ですね。」と言うと、
誇らしげに、「この辺りが当時の文化の中心だったんですよ」という返事も戻って来ました。



カフェでソフトクリーム・ブレイクを入れてから、尖石史跡公園の一画にある与助尾根遺跡の復元住居や尖石遺跡などを見て回り、
八ケ岳西南山麓一帯に繰り広げられた縄文文化に思いを馳せたひと時を過ごしました。



広い台地の南斜面の途中に、高さ1mほどの三角錐の石が露頭していて、この「とがりいし」が遺跡名の由来とされています。
尖った頭にある舟底型のくぼみが人工の削り跡で縄文人が石斧を研いだ砥石とか信仰対象の石であった、など諸説持つ尖石です。



3時過ぎに尖石遺跡を出発して、美しい八ヶ岳連峰の山容を楽しみながらメルヘン街道を走り、1時間ほどで麦草峠に到着しました。
峠には真新しい水神様が祀られていましたが、古風な御柱を建てた様子に少しちぐはぐな印象を受けました。



麦草峠を越えて、少し下った所にある白駒の池に立ち寄ることにしました。
駐車場に車を止めて、歩いて山道に入ると、まだ雪が残っていたのには驚かされました。
残雪の中での山小屋の仕事も大変そうでした。



原生林の名残り雪、標高2000m以上の湖としては日本最大の天然湖、白駒の池の春の目覚めが遅い湖畔の木々など、
思いがけない景色に出会って、旅のページに彩りを増やすことができました。


中央アルプス方面                                     御座山・天狗山・男山

    
ヤマナシ                   黒曜石

メルヘン街道のビュー・ポイントで2~3度、車を止めて展望を楽しんだのですが、遠くの山、目先の植物など見るものが分かれる中、
常に足元ウォッチングを怠らなかったMrs.Yさんは、麦草峠から下る途中で、ついに黒曜石を発見することが出来ました。
昨夕諏訪湖畔で拾った黒石?は人工物と同定せざるを得ない物でしたが、
その後も是非とも黒曜石を入手したいと、神社や博物館のショップなどでも、折にふれて探したずねていたものが、
道端にひとつだけ落ちていたという稀有な幸運に、はた又、Mrs.Yさんの内助の功に?、Yさんが驚喜したのは言うまでもありません。



メルヘン街道、佐久甲州街道を経て、海の口自然郷の八ヶ岳高原ロッジに5時45分頃に到着しました。
カラマツ林の中に建つロッジの環境は素晴らしく、レセプションの手続き中に、気持の良い滞在が約束された思いが湧いて来ました。


    

  

時からロッジ内のレストランで、ホタルイカの前菜、スープ、鱒、牛肉のフルコース・メニューをワインと共に楽しみました。
盛り沢山で、充実した一日は、9時過ぎの早寝で締めくくられました。


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