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14 Mar 2008
Damascus〜Shahba〜Bosra        

この日の出発は9時半とゆっくりでしたので、朝食後、ホテル近くで出会ったO夫妻とご一緒に、
ヒジャース駅あたりまで散歩の足を延ばしてみました。
BC3000年のマリ遺跡出土の粘土板にデイマシュカとして登場するダマスカスは、
世界最古の都市の1つであり、様々な民族に支配された長い入り組んだ歴史を持つ街ですが、
この日はイスラムの安息日金曜日のせいか車が渋滞した昨日の喧騒が嘘のように静まり返っていました。
雨上がりで空気も浄化されたように見える街は、3月末に開催される汎アラブ会議に向けて、
清掃中であるとも聞きましたが、その会議はサウジアラビア、エジプトを始めとする首脳11ヵ国が欠席し、
大きな成果は上げられなかったと後に報じられていました。



ヒジャース駅の先代アサド大統領のプレートや蒸気機関車などをカメラに収めて戻ったホテルには、
シリア国内の旅行手配会社の支配人が寄せ木細工の筆立てのお土産を持って、
私達を見送りに来て下さっていました。(ラタキアのランチの不手際のお詫びだったとも・・・?)
その後、一路ダマスカスの南東140kmのボスラへ向かいました。


バスの右側車窓にアンチ・レバノン山脈の最高峰ヘルモン山(高さ2814m)やゴラン高原が見えました。
3次中東戦争以来イスラエルが占領、現在は国連の平和維持部隊が駐在し、
日本の自衛隊員も40人が派遣されているゴラン高原は遠目にはとても穏やかな風景でした。

シャハバ神殿 ローマ時代のフォーラム(オスマン時代には会議場)
ローマ劇場 ローマ風呂

途中、ローマ皇帝フィリップス・アラブス(在位AD244−249)の出身地シャハバに立ち寄りました。
フィリップス帝はシャプール1世とペルシアに有利な講和を結んだ後、
248年4月にローマ建国1千年祭を盛大に執り行った皇帝ですが、内戦により自ら命を絶ってしまいます。
フィリップスに因みフィリップポリスとも呼ばれている町にはアラブ山の噴火による火山性の黒っぽい石で作られた
ローマ風の建造物の数々が残されていました。
ここのローマ劇場は小さな規模ですが、西アジアに作られた最後の劇場と言われています。


壁に彫られた出口を示す魚のマーク

この日は南下するので、気温が上がるだろうという予想が外れ、真冬のような寒さになり、
半袖姿が寒そうな旅仲間が数人いました。
未知の土地は油断大敵、多様に対応出来る服装が必要だと思いつつバスに乗ってほっとする間もなく、
シャハバの町はずれにあるモザイク博物館に到着しました。

カイゼル髭のドゥルーズ派の男性 モザイク博物館

キリスト教徒との抗争で19C末にレバノンから逃れて南シリア近郊に多く住むドゥルーズ派は、
自らをイスラム教徒とは思っていないイスラム一派だそうで、他派にはモスクの内部も見せない人々だそうです。
シリア2000万人の人口の3%程がドゥルーズ派で、私達にも一目で区別のつく外見をしていましたが、
モザイク美術館前でモザイク店を営むこの男性はかなり開放的で、観光慣れしているようでした。

この博物館は耕していた畑の下から出てきた4Cの個人邸宅のモザイクを原位置のまま展示してあり、
地下を覗き込むように鑑賞するようになっていました。
写真禁止と聞いていましたが、一眼レフカメラのシャッター音に振り向くと、
「お金を払ったから写してもいいんだよ。」とHさん。その言葉を深く考えずに、私も真似をして写して来ましたが、
部屋の入口に立っている係員の様子を見て、チップを要求していることを悟りました。
この不正撮影モザイクは左から「海の女神テティス」「バッカスとアリアドーネの結婚」「音楽の神オルフェウス」
「アフロディーテとアレス」の4場面です。絵画のように表現が細やかな素晴らしいモザイクですが、
この細かいモザイクこそが豊かな財力と権力の象徴で、
時代が下ってビザンティン時代になると、もう少し荒いモザイクとなっていくそうです。


シャハバを出て間もなく、シリア南部ハウラン地区の首都、ドゥルーズ派の拠点でもあるスウェイダを通過、
車窓に小さなローマ劇場を見ることが出来ました。
このあたりはブドウ酒とアラックの産地だそうで、お別れの近付いた私達にご馳走しようと、
ファイサルさんがバスを降りて、アラックを買いに行くひとこまが見られました。


 

1時頃、ボスラのシャーム・パレス・ホテルに到着して、昼食を取りました。
ファイサルさんがグラスに注ぎ、水で割って白濁したアラックを「どうだい?」と得意そうに見せています。
アルコール度60℃近いという蒸留酒は飲むというより、舐めてみる体験となりました。
オニオン・スープとシチュー、ケーキがランチ・メニューでしたが、もちろんアラブ前菜も並んでいました。

食後、まだロビーの片隅にかためて置いてあったスーツケースから、必要な人は防寒グッズを取り出し、
歩いてボスラの遺跡観光に出発しました。


 

シタデル・ローマ劇場

南シリア随一の観光都市ボスラは青銅器時代からの遺跡が残り、エジプト第18王朝のアマルナ文書に
ブスラナとして出てくる歴史のある街です。BC332年にアレクサンダーに征服された後、
BC1Cにはナバテア王国の北の都として発展、AD106年トラヤヌス帝時代以降はローマ属州の州都となります。
ビザンティン時代には大司教座が置かれていましたが、7Cにシリアで最初にイスラム化された町となり、
17C以降はこの地方の中心はダラーへと移り、衰退の一途をたどって行ったそうです。

アラブによって出入り口や窓が石壁で塞がれ、要塞化された2世紀建造のシタデル・ローマ劇場から
ボスラ見学が始まりました。この劇場は1946年に砂の中から発見され、修復が始まったそうです。
十字軍対抗のために作られたアイユーブ朝時代の外壕を渡り、外壁を潜り抜けると、
黒っぽい火山性の石(玄武岩?)で作られたほぼ完璧な姿のローマ半円形劇場が現れました。
ローマの有力者像が飾られていたという正面舞台の白い列柱は修復ですが、黒い部分はオリジナルで、
下から14、17、6列と3段階に配列された客席が演出効果を高め、
「はけ口」からは5000人の観客が5分で外へ出られる構造になっていたそうです。
現在も秋にはフェスティバルが行われるという劇場はこの日は遠足の子供達や観光客で賑わっていました。


遺跡の上に現在の町が造られたボスラは遺跡の中で人が暮らしている1980年世界遺産登録の町で、
地元の子供達の姿も多く、向こうから写真をせがんで来る場面もよくありました。

劇場を出て、東側にある12Cアイユーブ朝時代の広い貯水池跡を見に行きました。
湧水が多く、土壌が肥沃なシリア有数の穀倉地帯の優れた灌漑システムであっただろうと思われました。
右下のデコレーション過多なバスは、3〜40年前の公共バスを個人が所有して、
通常より安い運賃で運行しているのだそうで、ちょっと面白いお国柄が窺われました。

ナバテア人の門
ビザンティン大聖堂 修道院

トルコ人観光客
オマール・モスク
                                                                    
ナバテア人の門からローマ遺跡が多く残る区域へ入って行きました。
この門からローマ時代のメインストリートが東西に900m続いていて、西の入口には「風の門」が立っています。

511年に建てられたビザンティン大聖堂にはアマルーラ村と同じくサルキスとバコスが祀られていたそうです。
キャラバン隊の一員として、おじに連れられてこの地に立ち寄った12歳のムハンマドが、
ネストリア派の修道士バヒーラからキリスト教を学んだと言われる修道院の前も通りました。
その時バヒーラは「この子に気をつけなさい。将来立派になります。」と言ったと伝えられています。
オマール・モスクはBC1Cの神殿、AD1Cのローマ時代のアーチを利用して720年に造られたものだそうです。


子供達と写真を撮ったりしながら、ハマム(トルコ式風呂)へ向かいました。
ハマムで出会った4人組のイラク人は「我々はテロリスト!」と銃を構える格好をして笑わせてくれました。
観光が出来るイラク人は恵まれた階層と言えるのでしょうか・・・。


ボスラ独自のコインが発見されたことが貿易拠点としてのボスラの繁栄を物語るアゴラの前を通って、
4本の高さ13mのコリント式円柱が残るメインストリートの中心に出ました。
右下の写真は列柱通り半ばにある「灯りの門」です。

様々な施設が完備したローマ式共同浴場跡

最後にシリア国旗でお見送りを受けて?黒っぽい石造りが独特の雰囲気をたたえるボスラ遺跡の観光を終え、
少し早目の4時半にホテルへ戻りました。
ホテルの部屋からローマ劇場の外壁が見えましたが、周りには何もない所でしたので、
この日は7時の夕食まで部屋でゆっくりと過ごしました。


 

少しバリエーションのある前菜とステーキがシリア最後の夕食となりましたが、
シリアのアラブ料理は漠然と想像していたよりはずっと豊かな内容だと思いました。

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