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16 Mar 2008
Amman〜Dead Sea〜Petra

宿泊したメリディアン・アンマン・ホテルのレストランとエントランスの様子です。
ビュッフェ形式の朝食は様々な国籍の観光客で賑わっていました。
この日は死海での浮遊体験、数十年ぶりの水着に備え、量を控え目にしておきました。(泥縄ですね!)
エントランスの白いテント内部には荷物チェック用のX線台などが置かれています。
これは近くのホテルで数年前に起きたという爆破事件の後に付けられた設備かもしれません。



ヘラクレス神殿 もやで霞むアンマンのダウンタウン
丘の南東下に位置するローマ劇場 ヨルダン国立考古学博物館

8時45分にホテルを出発して、アクロポリスの丘、ジャバル・アル・カラへ向かいました。
新石器時代に遡る歴史を持つアンマンは旧約聖書時代にはアンモン王国、ギリシアのプトレマイオス時代には
プトレマイオス2世フィラデルフォス(在位:BC288〜246)に因みフィラデルフィアと呼ばれていました。
その後ナバテア、ローマと支配が変わった後、ビザンティン時代には主教座のある街として発展、
7世紀以降のイスラムの支配後にセム語でザス・アモンと呼ばれたのがアンマンの語源と言われています。
7つの丘(ローマ、リスボンと同じ)に造られた人口160万人のアンマンは1921年からヨルダンの首都となっています。

丘の上でバスから降りると、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(在位:161〜180)建造の
ヘラクレス神殿跡が先ず目に入ってきました。この辺りはギリシア、ナバテア時代を通じて聖域だったそうです。
南面の下に広がる1930年代のダウンタウンは不思議なもやに包まれていましたが、
これは地中海、紅海からの水蒸気でガスが発生、年間50日程このような日が続くのだそうです。



ヘラクレスの手

高台から街を展望した後、国立考古学博物館へ行きました。
階段左手てすりの最上部に取り付けられているのは像の高さ10mのヘラクレスの手です。



死海北西岸のクムランの洞窟で1947年に羊飼いによって発見されたのが旧約聖書の最も古い写本、
BC2CからAD1Cにかけて書かれた死海文書だそうです。
見つかった約850巻の大半はイスラエルの博物館に所蔵されているそうですが、一部を観ることが出来ました。




巻かれた銅板に書かれていたのは財宝や武器のリストで、羊皮紙に書かれているのが旧約聖書だそうです。


シドンの女神アスタルトの巫女 (BC7C)
世界最古の人体塑像 (BC6500年頃)
アンマン出土の石製立像 (BC8C) メシャ碑文 (BC9C)

植物の女神アタルガティス
城砦型の冠をかぶったアンマンの守護神ティチェ

館内はガイドが出来ないということで、9時半頃から40分程、自由に見学をして回りました。
さ程広くない博物館でしたが、石器時代からイスラム時代までのヨルダン全土の出土品が年代順に展示され、
とても見応えがありました。図録はありませんでしたが、写真撮影が出来たのはうれしいことでした。


アクロポリスに野生ムギと一緒に咲いていた野草
ウマイヤド・モスク ビザンティン教会

アンモン、ギリシア、ローマ、ビザンティン、イスラム各時代の遺跡が重層しているアクロポリスを
サミュエルさんのガイドで20分ほど歩きました。

北側のアンマンの中心街にある現王宮の一つに30m×60mの巨大な国旗が立っているのが見えました。
こちらの方向が昨夕散歩したジャバル・アル・ハッサン地区だということです。
統一された建物の色が美しい、新しく作られた都会の顔が見られました。



丘の上から見たアントニウス・ピウス帝(在位:138〜161)の時代のローマ劇場へ寄りました。
自然の傾斜地を利用したこの劇場には7000人を収容することが出来るそうです。
まわりは土産物店が並ぶ公園になっていて、やはりカメラの前でポーズを取る子供達の姿が見られました。



ローマ劇場の西側に伝統文化博物館、東側にフォークロア博物館があり、
ジェラシュやマダバから出土したモザイクや民族衣装なども、急ぎ足で見学しました。



 

アラブの国らしいダウンタウンの様子をバスの車窓に見ながら、アンマンを11時20分に出発、
南西に225kmに位置するペトラへ向かいました。
警官が古い武具に由来するらしい面白いヘルメットをかぶっていました。



トランスヨルダンと呼ばれるヨルダン川東岸地域には、アンマンを中心としたアンモン、
死海の東側にモアブ、南にエドムという王国があり、アンモンとモアブはアブラハムの甥ロトの子孫、
エドムはヤコブの兄エサウの子孫の王国であったと創世記に記されているそうです。
アンマンを離れてまもなく車窓に現れた荒涼とした山の連なりは、
鉄器時代に登場し、新バビロニア帝国に滅ぼされたイスラエル王国の歴史と重なるこの地域の
旧約聖書時代の姿を彷彿させるものではないかと思われました。



12時過ぎに死海の北側の海抜ゼロ・メートル地点に到着しました。
エルサレムとアンマンがほぼ同じ標高800mに位置し、死海は海抜−390mであると看板に書かれていますが、
以前は年に1cmだった水位の低下が近年は年1mとなり、現在は−420mであると言われています。
これはレバノン山脈からヨルダン川を伝って流れこむ雪どけ水の減少や
化学製品産業、レジャー施設への水の取り込みが大きな原因だと考えられ、
対策として紅海から死海まで運河を作る「レッド・デッド計画」が進行しているそうです。
後18kmでいよいよ死海に到着です。


死海が視界に・・・!

デッド・シー・スパ・ホテルのプライベート・ビーチでこの旅のハイライトの1つ、浮遊体験をしましたが、
塩分濃度32%と言われる死海はお相撲さんでも浮くことが出来るそうです。
身体の力を抜くというこつを会得するまでにちょっとバランスを崩す場面もありましたが、
何とか定番の‘新聞を読むスタイル’をカメラに収めることが出来ました。
髪の毛を濡らしたくなかった為、水平の‘リラックス・スタイル’に到達できなかったのはちょっと残念でした。
2ドルで全身泥パックも体験できたようですが、財布はロッカーの中でしたし、
海の中に長くいると水分が身体から抜けるので15分程にした方が良いと言われていましたので、
早々とホテルに戻って、プールやシャワーで塩分をしっかりと洗い流しました。
この浮遊感覚は、特にかなづちの人にお勧め出来る面白さでしたが、
いきなり身体を浮かせた弾みで頭が水中に沈み、苦しい思いをされた方がいましたので、
水の中にゆっくり座るようにしてから身体を伸ばしていくのが原則のようです。

ホテルで昼食後、3時前に死海を出発、この日の目的地ペトラへ向かいました。



 

ホテルを出て間もなく、「Baptism Site 20km」という標識が見えました。
イエスが洗礼を受けたヨルダン川のアル・マグダスやベタニヤも遠い距離ではなさそうです。
現在3万人いると言われるベドウィンは、国の政策もあって、定住化傾向が進んでいる様子です。



アンマンからアカバまで335km続くデザート・ハイウェイに入ると土漠地帯が続き、
リン鉱石工場やエジプトからの天然ガスのパイプラインなどが車窓に見られました。
リン鉱石は石油が採れないヨルダンの重要産業で、日本への輸出品は90%がリン酸塩なのだそうです。
途中のカタラーナで死海製品のソルト石鹸や泥パック剤などを大量に買い込んで、
6時半過ぎにぺトラのクラウン・プラザ・リゾート・ペトラ・ホテルに到着しました。
このホテルも多国籍の観光客で賑わっていて、入口の荷物チェックなどがやや厳しく行われました。

8時からの夕食はバイキング・スタイルで写真は撮りませんでしたが、
ペトラ=岩に囲まれたホテルで、いやでも翌日の観光に期待の高まる夜となりました。


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