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9 Mar 2008
Aleppo

今日はアレッポに滞在の日で、長いバス移動がなく、乗り物酔いの心配もないので、
オムレツやパンケーキを焼いてもらったり、果物、ジュースなどゆったりとした朝食タイムとなりました。
同じテーブルに座られたH夫妻がもう散歩に出掛けられたご様子だったので、
「どちらへいらしたのですか?」とお聞きするとバロン・ホテルとのこと。
そこで私達も、とレセプションで街の地図をもらって出掛けることにしました。
その前に、ちょっと寒そうなので、と部屋へ上着を取りに戻ったのですが、
エレベーターから降りると廊下の様子が変で、瞬時に3度目の失敗をしたことに気付いてしまいました。
ルームナンバーを書いてある袋を部屋に置いて、カードキーだけ持って朝食に出てしまっていたのですね・・・。
ドアが開いていた小さな会議室の入口でパソコンを見ていたホテルマンに、
「日本人の18名のグループですけど・・・」と部屋番号を調べてもらって、
下り立った5階は前日のホテルの階数で、今回は4階であることが判明しました。
うろ覚えの時差ぼけ情報で行動していたようですが、さすがにこの3度目で目が覚め、
これ以降は、しっかりと気持ちを旅モードにフィットさせることが出来ました。
でも私達の失敗などは、スーツケースの鍵を日本へ忘れていらしたHさんに比べれば幕下クラスです。
2〜3日分の手荷物で15日間をしのぎ、1度も開けられることなくシリア・ヨルダン旅をすることになった
Hさんのスーツケースには横綱の風格が(哀愁が?)漂っていました。


シェラトン・ホテルから商店街を5〜6分歩いた所に、アラビアのロレンス、アガサ・クリスティ、リンドバーグ、
ルーズベルト、アタチュルクなど各界の有名人が宿泊したと言われる1909年創業のバロンホテルがありました。
1911年の写真と比べてみると、4階が増築された他は、それ程外観は変わっていないようです。
(写真は後になって購入したため、アングルが違っているのが残念です。)
往年の由緒は感じられましたが、エントランスのドア越しに中を覗くと、
人影はありましたが、営業しているかどうか分らない程、閑散とした雰囲気でした。


 

9時半にホテルをバスで出発して、アレッポ国立博物館へ行きました。
シリアの北東、トルコ国境近くのテル・ハラフ遺跡のアラム王国宮殿入口を復元した像が正面入口を飾っていました。
牛・グリフォンの上に権力の象徴ハダト神、ライオンの上には豊穣の女神イシュタル、両脇にはスフィンクスという
ちょっと異様な存在感を持った玄武岩製の像のオリジナルは、
バグダード鉄道敷設予定地を調査した時にこの遺跡を発見、発掘したドイツが自国に持ち帰りましたが、
第2次世界大戦の大空襲で破壊、修復されたものがベルガモン博物館で見られるそうです。

泉水の女神・ブロンズ・ライオン像・イシュタプ王像 :マリ BC18C
    誓いの場面・金の器 :ウガリット BC15〜4C ギルガメッシュ :テル・ハラフ BC9C

博物館は人類最初の農耕が行われたというユーフラテス川支流ハブール川沿いのテル・ハラフ出土の農耕用具、
石器、土器に始まり、矢じりなど戦闘用具、彫刻、装飾品、生活用品、円筒印章、粘土板などが
時代毎に展示されていました。
館内は撮影禁止の上、博物館図録も未作成のようでしたので、買って来た絵葉書セットの中から、
これから訪れるマリ遺跡と昨日行ったウガリット遺跡の出土品などを少しご紹介しました。
マリ遺跡のダカン神殿の入口に置かれていた2頭のブロンズ・ライオン像の中の1頭や、
ウガリットの繁栄を象徴する金の器のオリジナルはルーブル美術館所蔵となっているそうです。
ルーブル美術館では見事なコレクションだと思っていた物のルーツを知ると思いは少々複雑になって来ます。
下段はカメラ・フリーの中庭の展示品で、ゆったりした感じが気持ちを和ませてくれました。
1時間ほど古い時代の発掘品を見た後、フリータイムに2階のビザンティン時代などの展示品を覗き、
11時過ぎにバスでアレッポ城へ向かいました。


 
大統領広場 オスマン・トルコ時代の時計塔

ダマスカスから北へ350km、北シリアの中心であるアレッポは、カナンへと旅するアブラハムがこの地に立ち寄り、
牛乳を搾ったという伝説に因み、アラビア語でハラブ(牛の乳)と呼ばれているそうです。
BC2000年紀から交易都市として発展し、ダマスカスと並んで世界最古の町と言われるこの街は、
ミタンニ、ヒッタイト、アッシリア、ギリシア、ローマ、ペルシアの侵攻を受けた後、
特にイスラム支配下になって国際都市として発展、旧市街が1986年に世界遺産に登録されています。


15分ほどで街の中心に聳え立つアレッポ城に到着しました。
500m×300m、周囲約2.5kmの丘はBC16C頃、アラム人がハダト神を祀ったのを始まりとして、
BC10Cネオ・ヒッタイト時代にも神殿が築かれた聖域で、BC4Cのセレウコス時代になって城塞となり、
ローマ時代はよく分っていませんが、十字軍の侵攻に備え、難攻不落の城に変えたのは
サラディンの息子アル・アジーズだったと言われています。
1260年に深さ22m、幅30mの堀がモンゴル軍に埋められ、1400年にはティムールに城塞を部分破壊された後、
マムルーク朝時代にほぼ現在の形に再建されたそうです。


城塞の南西部にある唯一の石橋を渡ると、
厄除けの蛇や、「私はムスリム王」というサラディンの言葉をアラビア語で刻んだ城門があり、
天井には熱油を流す穴、さらに幾重もの関門を経て、城内に入る構造になっていました。



最後の5つ目の城門の左右の柱には2頭のライオンが彫られていました。
「門を出る時は笑って出るか、泣いて出るか」と傍に書かれていて、
ユーモラスな像に見えますが、簡潔な表現にリアリティが感じられました。


貯水槽や食物貯蔵室、牢屋跡を見た後、アイユーブ朝時代の2つのモスクを見ながら城塞の上に出ました。
つい30年ほど前に作られたという右側写真の劇場では実際にコンサートなどが行われているそうですが、
アラブ建築と円形劇場の組み合わせには賛否両論があるようです。


城塞の上からアレッポの街の眺望を楽しみました。
寒いような、暑いような、曇りがちでいま一つはっきりしないお天気でしたが、
街の広がり、重なりを見ながら、長い歴史に思いを馳せたひと時でした。


複雑な迷路のような通路を抜け、下へ向い、王宮のホール跡や、王の謁見室などを見学しました。
廃墟のような城塞に残るペルシア、ダカスカス、アレッポ様式で作られたという室内装飾には、
突然現れた異次元の世界のような違和感が感じられましたが、
修復はされていても、オリジナルであることは間違いないそうです。


この日は日曜日でしたが、外へ出ると、学校帰りの子供達の姿がたくさん見られました。
日本に興味津々らしい女子大生グループから話しかけられましたが、
「写真を撮ってもいい?」と聞くと、「父親に殺されるからダメ。」と強力な拒否が戻って来てしまいました。
(と言いつつ、キャッキャッと笑い合っていましたが。)
スカーフをかぶった外見からは区別がつきませんが、写真を不吉に感じる宗派があるのでしょうか?

攻めるのがいかにも難しそうな石で積まれた丘の傾斜を見ながら、アレッポ城を後にしました。


 

この日のランチはシリア風イタリアンで、2種のパスタと2種のピッツァが出ました。
たまに色を変えて・・・という‘旅行社ごころ’は理解出来ますが、
シリアまで来て、あえてパスタを食べたいとは思わない人の方が多いのではないでしょうか・・・?
なんとなくツアーメイトの顔が不完全燃焼のように見えたランチでした。


 

昼食後はスークへ行きました。メインストリートから枝分かれしている小道を合わせると
12kmもあるというオリエント最大のスークだそうですが、
ここでの買物は何といってもアレッポ石鹸です。



オリーブ・オイルにローレル・オイルを混ぜて作るアレッポ石鹸は、乾燥させた外側は土色をしていますが、
中は鮮やかな緑色をしていて、それを見せるために渾身の力で固い石鹸をナイロン糸で切ってみせ、
そのかいあって?何十個かのお買い上げのあった、
ファイサルさん紹介のお店のおじさんの表情はとても満足げでした。
様々な形のお土産向きサイズの石鹸には、オイルがほとんど入っていないものも多いそうですから、
無骨で重たくても、買うなら伝統的な形のものが良さそうです。


大モスクのミナレットと中庭
説教を聞く信徒たち 洗礼者ヨハネの父ザカリアの霊廟
ねずみ女? 泉亭

ダマスカスにウマイヤド・モスクを建てたカリフのワリード1世が715年に造ったのがこの大モスクで、
元々はキリスト教の巡礼に来たコンスタンティヌス大帝の母ヘレナを記念して作られた大聖堂だったそうです。
シリア様式と呼ばれる美しい装飾がほどこされた4角柱の高さ45mの1090年建築のミナレットが特徴的で、
モスク全体がほぼ現在の形になったのは14Cのマムルーク朝時代と言われています。

 モスクの中には洗礼者ヨハネの父親である祭司ザカリアの首が納められた霊廟もあり、
信者達が次々とお祈りに訪れていました。
男性が少ないのは、お説教の方へ行っている人が多いせいだと思われますが、
女性用の方が広く仕切られているようにも見えますので、別な理由があるのかもしれません。
(イスラムではアブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマドが主な預言者とされる他、
その他の聖書の登場人物も預言者として信仰の対象とされるようです。)

観光客でも女性は入口で貸し出しているチャドルを着て、中庭は靴を脱いで歩かなければなりませんでした。


ハーン・アル・ワジール

大モスクを出て、向い側の神学校を少し覗いた後、徒歩で隊商の宿泊施設キャラバンサライのひとつであった
17Cオスマン時代のハーン・アル・ワジールへ行きました。
沙漠からたどり着いた隊商達が旅装をとき、ラクダをつないだ中庭、交易品を入れた1階倉庫、
宿泊施設の2階の原型はそのままに、現在は主にお土産物店やレストランとして使われているようでした。
ここでも人物写真は「ノー!」と言われてしましました。


オスマン様式の建物
アルメニア教会
地下レストラン バックギャモン

バスでホテル近くまで戻り、アルメニア教会へ行きましたが、5時前で今日はお仕舞と言われ、
代わりに地下の抜け道がアレッポ城へ通じていたという17Cのアラブ人の家を転用したレストランを
ファイサルさんに案内していただいたり、オスマン時代の木組みの家並みが残る区域を歩いて、
5時20分ごろホテルへ戻りました。



夕食後、H添乗員さんが希望者をバロン・ホテルへ案内して下さることになりました。
今朝、行ったし・・・と思いましたが、もしかしたら中を見せてもらえるかも知れないということで、
もう一度行ってみることにしました。
小さなレセプションやロレンスの領収書、リンドバーグが泊まったという室内、アガサ・クリスティが
「オリエント急行殺人事件」を執筆したと言われる203号室のドアなどをカメラに収めることが出来て、
ちょっとお得気分の夜の30分足らずの散歩となりました。

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