[ホーム][目次][P7

10 Mar 2008
Aleppo〜Lake AL‐Assad〜Qal'at Ja'bar〜Dayr Az Zawr

この日は少し早目に8時にホテルを出発、南東へ360kmのディレゾールへ向かいます。
・・・の筈だったのですが、ホテル玄関前に全員集合してもバスが見当たりません。
何とドライバーのサイさんが寝坊をしてしまったらしいのです。
15分遅れのお詫びにミネラル・ウォーターのボトルが全員に配られました。

アレッポの街を出ると、土漠が続く中にちょっと珍しいビーハイブ型の泥煉瓦の家を見つけました。
羊飼いのいる風景と合わせて、これが想像していたシリアらしい風景という所でしょうか。



大勢の人が集まっている移動市?やパラボラ・アンテナが目立つ小さな町も車窓に見られました。
この日はサウジアラビアからの南東の風が運ぶ砂塵で、どんよりとした曇り空に包まれていました。



1時間半程走って、トイレ休憩にガソリン・スタンドへ寄ると、
財産一式をトラックに乗せたベドウィン家族が出て行く所でした。最近は車移動のベドウィンも多いようです。
右は腕組みを真似してみたものの、完璧に風格負け・・・です!



 

10時過ぎにソビエトの援助によって1975年に完成したユーフラテス川のダムに到着、簡単な検問所を通過して、
ダムによって出来たアサド湖に残るカラート・ジャーバルへ向かいました。
上流のトルコにもアタチュルク・ダムがあり、国家間の問題もあるようですし、
何よりこのような大きな開発事業の功罪を思わざるを得ませんでした。



カラート・ジャーバルはヌールッディーンがアレッポの君主であった12Cに築いた城塞の跡です。
当時は35本あったという塔屋、修復された高さ30mのミナレット、モスクや墓の跡などを見学しました。
ザンギー、ヌールッディーン親子が攻略したトルコのウルファまでは(当時はフランク王国支配下のエデッサ)
北へわずか150kmですし、重要な戦略拠点であったことが窺われますが、
今は湖畔に佇む美しい古城という風情でした。



細やかな修復をしている職人さん達のティータイム風景を見ながら、
このような人造湖は砂漠地方のこの上ない観光資源であることを理解した思いでした。
発掘されることもなく水底に沈められた数知れない遺跡の代表として、
カラート・ジャーバルはいつまでも修復が続けられていくことでしょう。


カラート・ジャーバルでの待ち時間にきれいに洗車をするサイさんの姿が見られました。
・・・・が、3時間半後に次の町、ディレゾールに着いた時には、ご覧の通り、
ユスリカ(多分)アートが出来ていました。サイさんの運勢が悪い日だったのですね、きっと。



シリアでは政府がベドウィンに土地を提供し、定着政策が進められているようですが、
まだまだ遊牧を続ける人達も多い様子が車窓に見受けられました。
羊の群れの中には動きをコントロールする為に山羊が2〜3頭加えられているそうです。
パニック状態になった羊は、羊飼いや牧羊犬の手に余るのかもしれませんね。


セレウコス朝時代以来、シリア北東部の中心都市であったラッカの街郊外では建築中の集合住宅や、
大勢の子供達の下校風景が見られ、(シャッターチャンスは逃しましたが、道路にあふれる程でした。)
再開発が進んでいる街の様子が窺えました。
シリアでは6歳から15歳までが義務教育、大学まですべての教育費は無料の代わりに、
毎年行われる進級テストはかなり厳しいもののようです。
5年前からは小学校に英語教育が取り入れられ、2年間の徴兵義務は、
家族に男の子が一人しかいない場合は免除されるというのがファイサルさんのお話でした。



ディレゾールに近づくにつれ、農地が多くなり、満開の花をつけたアーモンド畑なども見られました。
ユーフラテス川が近いことを教えてくれる風景です。



 

2時頃ディレゾールに到着し、バディア・シャーム・ホテルで昼食を取りました。
出発前の説明会で生野菜たっぷりのレバノン風サラダがおいしいとは聞いていたものの、
飲んではいけない生水で洗った野菜だし・・・とちょっと敬遠気味でしたが、
この旅ではお腹をこわしたという話を聞くこともありませんでしたし、段々サラダにも手が伸びて行きました。
オクラと牛肉のシチューやデザートのタルトの味がとても好評を博していました。



 

昼食後、ディレゾール博物館でBC8000年来のユーフラテス川流域の発掘品や再現した展示物を見学しました。
1999年に開館した国立博物館だそうですが、訪れる人も少なさそうで、私達の後を付いて来た係員が
部屋を出るとすぐに電気を消してしまうので、もう一度見に戻ることも出来ませんでした。
写真撮影は出来ず、図録もありませんので、記憶が薄くなっていくばかりですが、
メソポタミア、アッシリア時代の文明の高さを再確認した時間となりました。



ディレゾール橋

ホテルへ入る前に1924年にフランスによって作られた一部修復中の吊橋、ディレゾール橋に寄り、
ゆっくり散歩をしながら、夕方のユーフラテス川の光景を楽しみました。
民族衣装の男性4人組はホムスから来たという人達で、
右側は「写真を撮らせてほしい」と初めて向こうから私達に頼んで来た親娘3人連れの女性です。
携帯電話の中に収まった私達の画像はまだ健在でしょうか?




フラット・シャーム・パレスの夕食のメインはウィンナー・シュニッツェルに似たビーフ料理でした。
近くに石油が見つかり、経済が急速に発展、観光拠点として上り坂というディレゾールのお料理は、
昼、夜ともに合格点でした。


目次][P7