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11 Mar 2008
        Dayr Az Zawr〜Mari〜Doura Europos〜Palmyra 

旅も7日目、中盤に入って、全体的にはリズムに乗って来たものの、
胃の方がちょっと休みたい、というシグナルを送って来たので、この朝は朝食をパスすることにしました。
泊まったホテルはフラート・シャーム・ホテルという名前の通り、
庭側がユーフラテス川に面していましたので、夫が朝食から戻るのを待って、川に下りてみました。


ディレゾールは全長2780kmのユーフラテス川の上流から4分の1あたりに位置していますが、
コンクリートなどで護岸されていない川はゆったりと美しく、
川辺に立つと、川面を波立たせる程の風さえも心地よく感じられるようでした。


8時にホテルを出発して、ユーフラテス川の右岸を120km程南東に走り、マリへ向かいました。

デジタル・カメラを持つようになって、バスの中から車窓風景を撮ることも多くなりましたが、
遠景はまだしも、流れ去っていく近景を撮るのは、かなり運任せになります。
コンマ何秒のタイミングで画像がずれてしまいますし、
電源が入っていなくて、「あっ、今の情景、ほしかった!」と思うこともしばしばです。
ですから、このようにピタッと画像が真中に収まってくれた時の快感は得も言われぬものがあり、
そういう瞬間を追って、車中ものんびりしていることが少なく、
時に「世の中にデジタル・カメラがなかりせば・・・」という心境にもなってしまいますが、
今の所、これが旅のエネルギー源になっている気もしますので、
当分、デジタル・カメラ片手に、は続いて行きそうです。
それにしても、屠殺したばかりの子羊を洗った水が流れるそばで子羊達が餌を食べている
右側のお肉屋さんの写真はかなりな生々しさです・・・。


 

9時45分頃、マリに到着しました。
「NO ENTRY FIRST BUY TIGET」という看板の後方に広がっているのがマリ遺跡テル・ハリリです。
看板の矢印に沿って左へ入った所にあるベドウィンのテント小屋が観光案内所&カフェになっていました。
「遺跡へ入る前にここでチケットを買って下さい」というのが看板の意味のようですね。
「みんな、イラクへ行くかい?」とファイサルさんが誘いかけるイラクまでは僅か10kmの距離でした。

 
ペルシア湾から北メソポタミアへの道と、シリア沙漠を横断して地中海へ抜ける道の分岐点にあたるマリは、
シュメール文明の影響を受け、BC4000年紀後半からアモル人が定着し始め、
BC2600〜2500年頃にシリアで最初の王朝都市国家が生まれた所です。
BC1813〜BC1782の間はアッシリアのシャムシーアダドに征服されますが、
ジムリ・リム王がハンムラビ王の助けを得て独立、しかしそのハンムラビ王によってBC1760年に、
街は焼け落とされ、滅ぼされてしまったそうです。

泥レンガの壁 かっては屋根であったことを示すアスファルト

1933年にベドウィンがシュメール彫刻を発見したことがきっかけで、メソポタミアから出土した文書に出てくる
古代王国の首都マリがこの場所であることが判明、フランス人考古学者アンドレ・パロらによって
発掘調査が続けられた遺跡の中を1時間ほど見学しました。
土色一色の遺跡は一見、変化に乏しく、面白みに欠けるようにも思えましたが、
旧約聖書時代の研究を飛躍的に進めた粘土板「マリ文書」発見の地に実際に立つことが出来て、
心の躍るひとときを過ごしました。
調査テント下のジムリ・リム王宮は275の部屋を持ち、中東最大の王宮のひとつだそうです。


アレッポ国立博物館で見た「泉水の女神」像が描かれている古いシリア紙幣を見せながら、
「この神殿に飾られていました。」というファイサルさんの説明を聞くと、土だけの遺跡に現実感が伴うようでした。


BC3000年紀から2000年紀の王宮跡が3層になっているという遺跡調査は終わることがなさそうですが、
2000年紀の王宮はアンドレ・パロの45年に及ぶ調査によってほぼ全容が明らかになったそうです。
ダガン、イシュタール神殿やジグラット(聖塔)、住居跡なども見学し、カメラに収めて来たものの、
最盛期には1万人が住んだという街も、4000年を経た今はご覧の通りの土の塊で、
細部を説明をすることは出来ませんが、場所の空気、雰囲気だけでもお伝え出来たらと思います。


再び、ベドウィン・テントの観光案内所へ戻ると、ちょうど羊達も食事から帰って来た所で、
同じ敷地内の泥レンガの家に、家族や家畜が暮らしている様子を垣間見ることが出来ました。
下の右側は日本の若者2人の写真です。
前はH添乗員さんですが、後ろはマリ遺跡で出会った男の子で、パリで3年半パン作りの修業をした後、
帰国前に4か月ほどひとり旅をしているのだそうです。
私達のバスに乗せてもらえませんかというお願いは、個人旅行ではないので、叶えてあげられませんでした。


ドゥラ・ユーロポス

ディレゾールから来た道を24kmほど戻った所にドゥラ・ユーロポスがありました。
ドゥラ(要塞)・ユーロポス(セレウコスが生まれたマケドニアの町名)はBC300年頃に
セレウコス朝によって築かれた城塞都市で、パルティア時代はローマとの交易の隊商都市として栄えましたが、
AD165年にローマ軍が占領、256年にはササン朝ペルシアによって破壊され、
4世紀半ばにユリアヌス帝がペルシアに遠征した時には、この地は既に廃墟と化していたそうです。

イギリスの遠征軍によって、1920年に偶然発見されたドゥラ・ユーロポスは、
フランスとアメリカの調査隊によって37年かけて発掘調査が行われたそうですが、
マリに比べて時代が下る分、より元の形を留めている神殿やアゴラ跡を見ることができました。
遺跡に残る30もの神殿が示す人種や宗教の多様性が貴重な歴史資料となっているそうです。



今日訪れた2つの遺跡は、植物もほとんど生えていない乾燥しきったテルでしたが、
小さな黒い虫(ヨロイゴミムシダマシspと教わりました。)が動いているのを見かけることがありました。


街をまっすぐ横断するメイン・ストリートを抜けると、ユーフラテス川を眺望できる断崖があり、
ここが要塞都市であることが実感されました。
長い歴史を紡いできたユーフラテスの流れと共に、暑く、埃っぽかった遺跡が懐しく思い出される景色です。


ドゥラ・ユーロポスで最も注目される建物跡の1つが、正門近くに残るシナゴーグです。
ローマがユダヤ教徒の動乱を鎮圧し、ユダヤ文化の痕跡がほとんど残っていない時代のシナゴーグを、
ササン朝ペルシアは砂を積み上げて保護したと言われ、
ここから発見されたフレスコ画の壁画は現在ダマスカス国立博物館に保管されています。

右写真は時間さえあれば高い所へ登ってみる習性がある?夫が手を広げて合図をしている所です。


 

2時前にディレゾールへ戻って、泊まったホテルでランチ・タイムになりました。
朝食を抜いたお陰で、受け入れ体勢も万全、ダイナミックに盛りつけられた新鮮な野菜や
ユーフラテス?の魚、クラップを美味しくいただきました。
左のロボット君は、いくつかのホテルにありましたが、使っている所は見かけませんでした。


 

3時前にホテルを出発してシリア沙漠を横断、ひたすら西へ204kmバスを走らせてパルミラへ向かいました。
北側にはビルアース高原の連なりが見えましたが、所々で遊牧中のベドウィンを見かける他は、
延々と土沙漠が続いていました。


5時頃、パルミラのゼノビア・シャーム・パレス・ホテルに到着しました。
昨日の部屋はユーフラテス・ビューではなかったということで、今回は遺跡側の部屋になりましたが、
小さな窓から見えるアラブの砦は絵になるものの、部屋がとても狭く、
どうやって2つスーツケースを広げようかと思案している所へ、部屋のチェックに見えたH添乗員さんから、
「1階ですけど、私の部屋と変わりましょうか」と提案があり、広さ充分な部屋で2連泊することが出来ました。
このホテルにもド・ゴールやアガサ・クリスティが宿泊したという由緒があります。


 

夕食はいつものアラビア前菜とシャりーアと呼ばれるお米のパスタにシチューをかけるお料理でした。
雰囲気の良いホテルのレストランで、レバノン・ワインのボトルをO夫妻とシェアし、
連泊の余裕も伴って、寛いだ夕食となりました。



食後、ホテル玄関前で星を見ている所へ入ってきた車から降り立ったのは鎌田實さんでした。
イラクの難民キャンプへ医療支援にいらした帰りに食事に立ち寄られたそうですが、
今夜中にディレゾールまでいらっしゃるそうで、「こんなホテルに泊まれていいですね。」と
羨ましそうにおっしゃっていました。穏やかな笑顔がとても素敵です。

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