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12 Mar 2008
Palmyra

4時半に起きて、パルミラ遺跡に昇る日の出を見に行きました。
5時過ぎにホテルを出発、暗い足元を懐中電灯で照らしながら5分ほどで4面門に到着した時には、
東の空は明るくなり始めていたのですが、太陽はなかなか昇って来ず、
冷たい風が吹く中で30分ほど待った後、下の方の雲が厚いのだろうと諦めかけた頃、
ナツメヤシの林の間から太陽が顔を出し始めました。


四面門の柱の陰で寒さを凌ぎながら一緒に日の出を待っていたプラハの大学生と
上って来る太陽をバックに記念撮影をしたのが5時45分を少し過ぎた頃でした。
ちょっとカメラのアングルを変えてみると、
大きな列柱ラクダが太陽に向って立ち上がっているように見えました。



早朝の静かなパルミラを1時間ほど味わった後、明るい朝日に包まれた中をホテルに戻り、
少し冷えた身体をレストランの温かいおかゆで暖めて、ほっと一息の朝食タイムを過ごしました。

観光に出発するために9時前にレセプションへ向かう途中で、再び鎌田さんにお会いしたので、
「結局、ここへ泊られたのですか?」とお聞きすると、同行の方がどうしてもディレゾールへ
行かなければならなかったので、「850円のホテルに泊まって来ました。」とのことでした。
一晩の間に片道200余kmを往復され、ハードスケジュールをこなしていらっしゃる様子が伝わって来ました。




昨秋、この旅に参加することを決めて間もなく、中東の歴史の基本書はヒッティだという情報を得て、
文庫になっているものをネットで注文した所、在庫なしということだったのですが、
「シリア 東西文明の十字路」(ヒッティ著・中公文庫)の小玉新次郎訳というお名前を見て、
10年前にスペインへ行った時にご一緒した関西の大学で経済学を教えていらしたという小玉さんが
「主人はオリエントが専門なので、あまり一緒には旅行しないのですよ。」とおっしゃっていたのを思い出しました。
インターネット検索で、これはご夫妻であることが間違いないと確信を得て、何年ぶりかのお便りを差し上げると、
「パルミラの遺跡」(アドナン=ブンニ ハレド=アル=アサド著 小玉新次郎訳)というガイド・ブックを
「観光本ですけれど。」と送って下さいました。
パルミラ研究のシリアと日本の権威によって書かれたこの東京新聞出版局発行の本は、
今回のシリア旅で見かけた唯一の日本語版ガイド・ブックでした。
こういううれしいご縁も得て、期待を高めながら遺跡見学に向かいました。


ベール神殿境内
本殿正面 本殿裏側

バスに乗って先ず、面積10kuの遺跡の南東に位置するベール神殿へ行きました。
東西210m×南北205mの周壁に囲まれた神殿境内のほぼ中央にある本殿は、
AD32年に奉献されたパルミラで最古かつ最大の神殿だそうです。
正面入り口が少し右寄りになっている理由は不明ですが、メソポタミア文明の影響とも考えられ、
神殿の原型が良く保存されているのは、ローマ軍があまりの荘厳さに破壊を躊躇したからとも言われています。
本殿前には犠牲祭壇や犠牲動物用の通路、浄化槽の他、儀式用宴会場があったことが、
儀式の招待状、食物券として使われたテッセラ(焼き粘土札)が発見されたことで判明しています。



北側の神像安置所と天井彫刻

ギリシアのゼウス、ローマのユピテルと同一神であるバビロニアの最高神ベール(主人の意)が、
太陽神ヤルヒボールと月神アグリボールを左右に従えて北の神像安置所に祀られていたそうです。
天井の一枚岩には天体の運行をつかさどる宇宙神ベールの象徴として、
真中にユピテル、その周りを惑星6神の胸像と12宮が囲む文様が彫られていました。
向い合う南側の安置所には行列の時に運ぶ3位神像が置かれていたと言われ、
ビザンティン時代のフレスコ壁画やイスラム支配後のミフラーブも見ることが出来ました。



覆いに包まれた霊石をラクダの背に載せて運ぶアラブ固有の神殿の建立に関わる儀式の場面が
外に置かれた神殿の梁石に浮き彫りにされていました。
その底面の彫刻には彩色の跡がわずかに残っていました。

 

神殿境内には1929年まで住宅が密集していたそうですが、新しい村が北方に建設され、
3年間で整備が行われたそうです。
神殿の北と東側にはナツメヤシ(パルミラの語源)の林が一面に広がっていました。



 

次に遺跡の外側、西方にある塔墓が点在する墓の谷へ行き、
最も大きく保存状態の良いAD103年に作られたエラベール塔墓を見学しました。
地下1階、地上4階建て、300人を収容したといわれる塔墓内部には、
様々な彫像や彩色で4人の胸像が描かれた格天井、棺を納める棚の切り込みが入った
コリント式柱頭を持つ方柱などが残り、美しく装飾されたかっての姿を思い浮かべることが出来ました。
この塔墓から発見された漢時代の中国製絹織物がエラベール家の富裕さを物語っているそうです。



塔墓上部の窓から下を見下ろすと、人やバスがとても小さく見えました。
中にスカーフを広げている人が見られるように、ここのお土産売りのベドウィンはちょっとしつこかったのですが、
ファイサルさんの販促協力も得て?楽器をお買い上げの旅仲間の姿も見られました。



もうひとつ、3人兄弟の地下墓室へ寄りました。
ナマイーン、マレー、サエディーの3兄弟が作ったお墓は、160、191、241年に分譲し、売却されたことが
入口の上枠に刻まれた碑分に記されているそうです。
写真撮影は出来ませんでしたが、内部の中央には女装したアキレスなど神話をモティーフとした
シリア・ギリシア様式で描かれた壁画が修復されて残っていました。
これら墓の谷の発掘調査には、現在も日本のいくつかの調査隊が関わっている様子です。



アンティ・レバノン山脈の地下水やムンタル山の湧水によって潤されるオアシスの街パルミラには、
BC9000年から人類が住んでいた形跡が発見されているそうです。
その中でもパルミラのオアシスの生命と言われたエフカ(アラム語で水源の意)の泉に立ち寄りましたが、
現在は水が干上がっているそうで、新しい街づくりによって水脈が変わってしまったのだろうと思われました。
以前落石事故があり、立ち入り禁止になっていることを知らず、水源まで降りて行こうとして、
「降りてはだめだ!戻って来い!」とファイサルさんの大きな怒鳴り声が響き渡る一幕もありました。




記念門

いよいよ昔の街の中心に戻って、かっての隊商隊のように記念門から街の中へ入って行きました。

パルミラはアナトリアで発見されたBC19Cのアッシリアの契約文書や
マリ遺跡から出土したBC18Cの粘土板書簡などに古名タドモルとして登場する長い歴史の街ですが、
アケメネス朝ペルシアやセレウコス朝シリアの支配の後にローマの属州となり、
BC1CからAD3Cに地中海とペルシア湾を結ぶ交易の中継地として最盛期を迎えたそうです。
とりわけ、ライバルであったナバテア人の都市ペトラがローマ支配に入ってからは、
ペトラが握っていた通商権を引き継ぎ繁栄を極め、
ゼノビア女王の絶頂期にはエジプトの一部まで領土が拡大したと言われています。

セヴェレス帝時代の記念門はV字型の小門を設置することによって、
30度曲ったベール神殿正面入り口からも街の内部からも門と正面から向き合うように設計されていて、
中央の大門は人や荷を積んだラクダなど動物用、両側の小門は歩行者用となっていました。
記念門を入ると、パルミラの中心を東西に貫ぬく長さ1200m、幅11mの列柱道路が目に入って来ます。
整然と並ぶ列柱はかっては750本以上あったそうですが、現在は80本ほどが再建されていて、
ラクダに乗った人の目線に合わせ柱上部の持ち送りに街の功労者像を載せた列柱の壮大、荘厳さは、
想像するだけでもパルミラの栄華の様子が伝わってくるようでした。

その栄光もクレオパトラの後裔と称した美貌と知性と行動力を備えた女王ゼノビアが
ローマのアウレリアヌス皇帝の軍門に下ったAD272年以降は衰退、
ビザンティンからアラブ・イスラム時代には軍事・経済の重要地として存続したものの、
2度とかっての栄華を取り戻すことはなく、オスマン帝国時代に急速に崩壊していったそうです。
やがて単なる1村落となって遊牧民族達のなすがままにされていったパルミラが、
再び発掘と修復の時代を迎え、シリアを代表する遺跡として脚光を浴びるようになった歴史を辿りながら、
遺跡の中を1時間半程見学して歩きました。


円形劇場 アゴラ(取引所)

記念門から列柱道路に入るとすぐ左手にナボ(ベールの息子)神殿、右手にディオクレティアヌス浴場の跡、
さらに進むと左手に円形劇場、ニンフの神殿、元老院議事堂、アゴラと続いていました。
これらの栄華の跡をとどめる建造物はパルミラ周辺の丘陵から豊富に採掘された石灰岩や、
エジプトやアナトリア産の花崗岩、イタリア産の大理石で作られているそうです。
ローマ属州らしい建造物と多様な神殿が入り混じっている所が国際都市パルミラの特徴と言えそうです。


2Cの水道管 ギリシア語とアラム語で功労者賞賛文が刻まれた円柱
円形劇場から見たアラブ城砦と四面門 ファイサルさんと記念撮影

AD130年建築の豊穣の神バールシャミン神殿を外側から見学して、1時過ぎにホテルへ戻りました。

バールシャミン神殿の遺跡が下に眠っていると言われるゼノビア・シャーム・パレス・ホテルは、
正に遺跡の中に建っているという最高のロケーションで、
トイレ休憩に立ち寄ったという日本人ツアーの2〜3団体から随分と羨ましそうな視線を受けました。
はっきりツアー価格を尋ねる人もいましたが、H添乗員さんが「頑張っています。」というお得?価格でした。



 
旅情を高めてくれるホテルのレセプション 民族衣装を着たホテル・マン

ランチはお馴染みの前菜とH添乗員さんを真似て注文したブラッド・オレンジのフレッシュ・ジュース、
メインがシシ・ケバブ、デザートがチーズの入ったハラウジュメルというハマのお菓子でした。
ガラス張りの素敵なレストランで、遺跡歩きの快い疲れが癒されるランチ・タイムを過ごしました。




パルミラ博物館

昼食後、パルミラ博物館へ行きました。
玄関前の大きなライオン像はパルミラ遺跡の西端にあったアラート神殿で発見された像を復元したもので、
ライオンの両脚の間にはさまれたカモシカは「神殿に刃向かわないものを祝福する」という意味があるそうです。
庭には数多くの石像が無造作に?展示されていました。

館内は先史時代の洞穴の復元や発掘品、パルミラ遺跡の出土品が年代を追って陳列されていました。
(因みに陳列ケースやエアコンは日本が寄贈したものだそうです。)
1階は主に神殿やお墓からの出土品、2階はパルミラの伝統的、民俗的な工芸品が中心となっていました。
民族衣装の部屋にゼノビア・ホテルの制服と同じような衣服が展示されていましたが、
紫(紫貝)、赤(Cochineal・・・サボテンの寄生虫)、青(インディゴ)、黄(Wold Plant)の4種類が
当時使われた染料だったそうです。
パルミラを飾った彫像、装飾彫刻、装身具、コイン、テッセラなどを1時間ほど見て、博物館を後にしました。



博物館からホテルに戻るバスの中で、ファイサルさんが突如、シリア音楽に合わせて、歌い、踊り始め、
ちょっとあっけに取られてしまいましたが、こういう時は調子を合わせて、手拍子を取る方が良さそうで・・・。
明日はダマスカスに帰るので、気分が急にアップしたという所でしょうか。

ホテルに戻って1時間余りのフリータイムは、部屋でゆっくり絵葉書を書いたりして過ごしましたが、
このポストに投函した葉書は、1ヶ月半近く経った今なお、日本には届いていないようです。


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追記: 5月5日の消印で6月14日に届きました。ラクダ便だったのかもしれませんね?
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夕日に輝くパルミラ遺跡

4時45分にバスに乗って、アラブ城砦へ夕陽を見に行きました。
左上の大きな建物がベール神殿、その前の記念門から右下へと列柱道路が続き、
真中あたりに四面門、その右手に円形劇場、アゴラが円形劇場が見えています。
右下の大きな建物の周辺がディオクレティアヌス軍営地です。



高さ150mの岩山の頂上に立つ城塞は十字軍の攻撃に備え、歴代のイスラム君主が防備を固めた上に、
17C始めのオスマン朝の知事ファクル・エド・ディーンが建設したものだといわれています。
山々や広大なナツメヤシ林、パルミラ遺跡、アラブ城砦、市街地やラクダ競技場が夕陽に照らし出され、
幻想的とも言える光景が眼前に広がっていました。



絵に描いたような日の入りは見られませんでしたが、
今回のツアーの中、最も好天に恵まれ、充実したパルミラの一日がこうして暮れて行きました。



下山途中に、ふと気持ちよさにつられて?ベドウィンから買った木製のカエル(右側が頭)は、
口にくわえた棒で背中のイボをなでると、ケロ、ケロッと本物のカエルの鳴き声のような音を出し、
孫のお気に入りのおもちゃとなっています。



帰途、バスが遺跡の中にずんずんと進入して行き、不思議に思っていると、
昼間立ち寄らなかった葬祭殿の前を通り、ディオクレティアヌス軍営地に案内されました。
陽はすっかり落ちてしまい、ほとんど建物の識別は出来ませんでしたが、(画像は少し手を加えています。)
一応これで遺跡のほとんどを踏破したということで、規模も実感でき、心残りが少なくなりました。
それにしてもバスが遺跡の中に入って行ったり、今なおベドウィン家族が住んでいる様子があったり、
大らかとも管理不足とも言える、少々驚きの世界遺産でした。




夕食は煮込んだ羊とご飯にヨーグルトをかけていただくベドウィンのもてなし料理マンサフでした。
豪快に大盛りされていて、随分残してしまいましたが、楽しい雰囲気は味わわせていただきました。
ティナファというココナッツを使ったパルミラのお菓子も美味しいものでした。


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