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13 Mar 2008
Palmyra〜Damascus

遺跡を見ながらパルミラとのお別れ朝食を取った後、もう一度、ホテル前で写真を撮ったり、
名残り惜しい朝のひと時を過ごしました。右奥にバールシャミン神殿、後方に4面門と列柱道路が見えています。



8時にホテルを出発、H添乗員さんのアイデアで、「もう一度、列柱を手でさわって行きましょう。」と
バスを降りたのですが、この時の私は遺跡よりも子ラクダに夢中になってしまいました。
H添乗員さんがカメラを向けているのは、列柱にもたれて正しく?名残を惜しんでいるNさんです。



煙草をくわえさせられた子ラクダ。いけないイタズラですね!


 

再びバスに乗って、南西へ250km、一路ダマスカスへ向かいました。
途中、リン鉱石採掘工場とそれを運ぶ鉄道が車窓に見られました。


 
1時間程走り、イラクまで152kmという標識が出て来た所で、サイさんがバスを右折させる真似ごとをしたり、
その標識をカメラに収めた後、少し先のバグダッド・カフェで30分ほど休憩タイムを取りました。


ビーハイブ型住居 テント住居

バグダッド・カフェは喫茶、売店、トイレや写真チップで収入を得ているベドウィン家族経営のお店で、
周辺沙漠の数百kuを独占しているようで、なかなか強気の商売をしていました。
左の長老風情の人は何と髭を付けて変装しているファイサルさんです。
右の写真を見ながら、若い男性店員が結構いたんだなぁとよくよくチェックすると、
左端に鍵を忘れ、開かないスーツケースを引いているHさんがカフィーヤ姿で写っていました。




ベドウィンの手作りというカラフルな刺繍をしたポシェットを孫達へのお土産に、
小さな化石や飾り物を混ぜて、少しだけディスカウントしてもらって買って帰りました。
そういえば、ここのテント前で抱き上げたベドウィンの2〜3歳の女の子は、
パパが迎えに来て手を出したら、離れたくないと大泣きしてしまいました。
5年半のばば・キャリアで私の腕はすっかり‘ばば・ハンド’となってしまったようです。



再びどこまでも続く、沙漠の道を走りました。
道路沿いに低い山脈が続いていて、小さなワディ(涸れ川)の跡が時々見られました。
シリアは雨量は少ないようですが、11月から2月が雨季とされ、
昨冬、この辺りには珍しく20cmの積雪があったそうです。
松の植林も見られましたが、ほとんどは乾燥した沙漠の植物だけが見える車窓風景でした。





11時半ごろ、ダマスカスの街に入り、12時前にシリア国立博物館に着きました。
H添乗員さんによると「今日はファイサルさんではなく、別のガイドが博物館をご案内します。」とのことで、
「日本人?」と聞くと、「そうです。」という答えが返り、さすが首都には日本人ガイドがいるのだと思ったのですが、
博物館前で出迎えて下さったのは、何と、今回の旅行社のN添乗員さんでした。
2007年度ツアーコンダクター・オブ・ザ・イヤー・準グランプリのNさんは、
3月はシリア・ヨルダン10日間の旅で歴史講座を行うツアー3本が入っていて、
ダマスカス〜パルミラを3往復なさるとのことでしたが、この日の午後、私達の半日ガイドを務める為に、
日本を1日早く出発されたという旅行社のサプライズ・サービスでした。

1919年開館のシリア国立美術館正面の装飾は、パルミラの南西80kmの沙漠から発見された
ウマイヤ朝のカスル・アルヘイルの門を修復、再現したもので、
入口が1つで、防暑のために外壁が2層の日干しレンガで造られている特徴を持っているそうです。


 

ギリシア・ローマ時代の工芸品から始まって、この旅で見てきた、ウガリット、マリ、ドゥラ・ユウロポス、パルミラ、
これから行くシャハバなどの出土品、復刻品を中心に、
N添乗員さんが1時間半足らずという短時間で、要領よく館内を案内して下さいました。
ゆっくり見られなかったのは残念でしたが、行ったばかりの土地の出土品の数々には強い印象を受けました。

館内は撮影禁止でしたので、買って来た絵葉書から少しご紹介をすると、
左から白アラバスター製のマリの王像(BC2650)、金とラピスラズリの獅子頭の怪鳥「アンズー」像(マリ出土)、
ドゥラ・ユウロポスのモーゼの物語が描かれたAD3Cのシナゴーグの壁画です。
壁画の左上が斜めに退色していて、その部分が砂の外で、他は砂で保護されていた様子がよく分ります。



 

勇壮なサラディン像が立つ城壁の近くから旧市街へ入り、スーク・ハミディエを通り抜けて、
ウマイヤド・モスク西門前の広場に出ました。右側はスークの東端に残るローマ門です。
モスク近くのレストラン「ウマイヤド・パレス」で遅目のランチとなりましたが、
モスク近くとあって、シンガポールからの巡礼の旅と思える一団で随分と混み合っていて、
バイキングの列がなかなか進みませんでした。ここは禁酒レストランでした。



3時頃から旧市街の観光に入り、最初にウマイヤド・モスクの北側にあるサラディン廟へ行きました。
ここでも「ねずみ女」に変身してから1196年建造の廟の中へ入って行くと、
十字軍の襲撃からダマスカスを救い、エルサレムをイスラムの手に戻したアラブの英雄サラディンの肖像画や、
二つの棺が並べられていました。緑の布で包まれた方が本物で、
白い大理石製の石棺は1898年にドイツ皇帝ウィルアム2世から寄贈されたものだそうで、
ヨーロッパ人からも尊敬を受けたというサラディンの一端がうかがわれました。


ウマイヤド・モスクの礼拝堂正面と泉亭
ミンバル(説教壇) 洗礼者ヨハネ聖堂

ミナレット「花嫁の塔」
宝物庫

BC10Cのアラム人のハダト神殿をローマがゼウス神殿とし、4Cには聖ヨハネ教会として使われていた教会を
ウマイヤ朝のワリード1世がAD705年にモスクとして作りかえたウマイヤド・モスクは
現存する世界最古のモスクと言われています。
正面ファサードや回廊の壁を飾る金や色ガラスのモザイク装飾、大きなアーチと2つの小さな飾りアーチを
規則正しく繰り返す回廊、宝物庫や泉亭が置かれた東西122m、南北50mの大理石の床の中庭、
どちらを向いても壮麗な姿が美しいイスラム建築でした。

礼拝堂の中にはワリード1世がここで洗礼者ヨハネの首を発見したという伝承に基づき、
11Cに作られた聖堂もありました。
兄嫁のヘロデアを横取りしたヘロデ・アンティパスの前妻はナバテア王の娘であったため、
怒ったナバテア王アルタス4世がヘロデを攻め、マケラス(アンマンの南)のヘロデの城にあったヨハネの首を
ナバテア王の城の1つがあったダマスカスに移し、手厚く祀ったという伝説も残っています。
20分程の忙しい見学でしたが、チャドルを脱ぎ、靴をはいて外へ出ると、ようやく自分に戻れた感じもありました。



スーク・ハミディエ

ウマイヤド・モスクの西門を出て、30分程のフリータイムが取られましたので、
沢山の人で賑わう東西に600m続くスーク・ハミディエをもう一度歩いてみました。
衣料品、貴金属、香辛料、アイスクリーム屋などが軒を並べるお馴染みのスークの光景ですが、
アーケードが高いせいか、僅かに窮屈感が少ない印象を受けました。
夫は木綿で作られた大きなスカーフのようなカフィーヤを夏山で使うと購入していましたが、
日本へ帰ってみるとやっぱり違和感がある・・・となるのではと思っています。



4時15分頃から、またN添乗員さんを先頭に、旧市街見学に向かいました。
キャラバン・サライやハマムの連なる一画を抜けると、「まっすぐな道」という旧市街を東西に貫く道に出ました。
いかにも旧市街らしいこの道に面して、ダマスカスの近くで光に打たれ、復活したイエスに出会ったサウロが
アナニアの訪問を待っていた「ユダという人の家」があったと言われています。
3日間目が見えず、何も食べることなく祈り続けていたサウロの上に訪ねてきたアナニアが手をのせると、
うろこのようなものが落ちて、サウロの目は見えるようになったそうです。
このイエスの奇蹟によってサウロは回心し、キリスト教の迫害者から信仰者へと変わり、
パウロと名を改めて布教の道を歩むことになったというお話はまさに「目からうろこ」です。

道路工事中で歩きにくい1.2km程の道の両側には商店が並び、オスマン時代の家並みも見られました。
パウロの時代には道幅が26mあり、地盤面はもっと低い位置にあったそうです。



聖アナニア教会

上はフランチェスコ派、下はアナニアのシンボル・マーク

パウロに洗礼を行い回心に導いたアナニアの家が教会とされた聖アナニア教会は、
元は1階だったようですが、現在は地下となり、薄暗い礼拝室の隣には、
「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害する?」と天からの声が聞こえる場面から回心するまでの
パウロの物語をつづった絵が飾られていました。


東門 聖パウロ教会ファサード

ローマ時代の上にマムルーク朝が築いた旧市街を囲む城壁には7つの門が残っているそうですが、
最もローマ時代の面影を残していると言われる東門を出て、
300m程バスに乗って、20Cに作られた聖パウロ教会へ寄りました。
キリスト教に改宗したパウロは、やがてユダヤ教徒に追われる身となり、
この城壁から籠でつり下ろされて脱出したと言われています。
ダマスカスから逃亡したパウロは故郷のタルソで祈りと瞑想の時を過ごした後、
小アジア、ギリシア、ローマへ迫害に満ちた宣教の旅を続け、
ユダヤ人からローマ当局に訴えられて処刑されたのが61年のことだったそうです。




ホテルへ戻る前にファイサルさん推薦の「AL FAISAL」というお店でアラブ菓子を買って帰りました。
ピスタチオをふんだんに使った「バクラワ」や胡麻せんべい「サディック」のお土産は好評のようでした。
ファイサルさんの親戚のお店かどうかは不明ですが、
当のご本人は、都会へ戻り、病気とまで評された女性ウォッチングにますます余念がなさそうでした。



 

6時過ぎに2日目と同じダマスカス・シャーム・ホテルへ入ると、
同じ旅行社のもうひとつのグループも到着していて、
ロビーで3人の添乗員さんが勢揃いしてご挨拶という珍しい光景がありました。

この日の夕食はホテル内のレストランでの中華料理でした。
シリア風と初めからH添乗員さんから聞いていましたので、期待はしていませんでしたが、
やはり、何を食べても同じ醤油味が続くのには笑ってしまいました。
アイスクリームの盛り方もユニークですね。


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