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25 Aug 2007
Karadut〜Nemrut〜Arsameia〜Cendere〜Karakus〜Karadut
ネムルート山山頂で日の出を待つ人々 −5時15分−
雲間から太陽が顔を出す −5時45分−
左から 鷲 アンティオコス1世 コンマゲネ ゼウス アポロン ヘラクレス ライオンの像 −6時−
朝日に輝く東のテラス石像群

普段は朝寝坊ですから、この日の早朝出発が心配でしたが、時差ボケが残っているせいか、
3時過ぎに問題なく起床、4時に食堂でチャイ(紅茶)を飲んでから、ちょっと肌寒い気温の中、
2台のマイクロバスに分乗して、ホテルを4時半に出発しました。
ネムルート山麓の駐車場から少し急な坂道を20分足らず登り、5時過ぎに2150mの山頂に到着しました。

セレウコス朝シリアとパルティア王国の間に広がる肥沃で戦略的にも重要なこの地方の総督ミトリダテス1世が、
勢力をのばして来たローマ帝国を味方につけてコンマゲネ王国として独立したのがBC80年、
その息子アンティオコス1世(在位BC68−34年)が王国の安泰を強化し、繁栄を導いたのですが、
父ミトリダテスの先祖を辿るとアレクサンダー大王と古代ペルシアのダレイオス大王につながると考え、
自らを東西の歴史を引き継ぐ王として築かせたのがこのヒエロテシオン(神聖な魂の最後の休息地)です。
コンマゲネ王国はAD72年にヴェスパシアヌス帝によってローマ帝国に編入され短い歴史を閉じています。

ネムルート山頂に築かれた円錐形の墳墓は、巨大な石像を彫った時に出たこぶし大の石灰岩の石片を
積み重ねて造ったもので、当初の高さは70m(現在は50m)、直径は150m、
芯として山の岩盤を巧みに利用しているのではないかと推測されています。
アンティオコス1世、王国を女性像で人格化したコンマゲネ、ギリシア・ペルシアの神々を混淆した神像、
守護神の鷲やライオン像の頭部が度重なる地震や落雷で転げ落ち、異様な姿をさらしていますが、
オスマン帝国から輸送路調査を依頼されたドイツ人技師が1881年にこの石像を発見した時に比べると、
はるかに整備が行われ、(古い写真では頭部が小石の中に埋まっています。)
現在は頭部を胴体に戻す計画もあるそうです。

1987年に世界遺産に指定されたネムルート山の絵に描いたような日の出には出会えませんでしたが、
遅目の太陽に輝く石像を見られただけでも幸いだったと思いました。
祭壇の周りで寒そうに日の出を待っていた観光客も6時過ぎには三々五々下山していきました。


西のテラスへ向かう
アンティオコス1世とコンマゲネ ミトリダテス1世の先祖達
西のテラス
下山途中の風景 −タウルス山脈 ロバ 小さな花々−

西のテラスにも同じような石像が残されていましたが、東よりは残存状態が悪く、
東のテラスのように祭壇もなかったようで、造られた当時から重要なのは東のテラスだったようです。

雄大なタウルス山脈、禿山に見えて、小さな花を咲かせている植物が所々に見られる山道を
気持ちよく散策しながら下山しました。
ごろごろと転がっている石灰岩には多くの化石が見られ、太古の歴史を物語っているようでした。



 
HOTEL EUPHRAT

ホテルに戻って、1時間半ほど朝食と休憩時間が取られました。
ホテル・ユーフラット(=ユーフラテス)の気持のよいテラス席で歓談中の、いえ、打ち合わせ中の
O添乗員さんとガイドのツゥレイさんをカメラに収めました。

旅行社の当初の計画では昼食までは自由時間、午後観光の予定でしたが、
上の2者会談の結果?8時45分に再集合して、午前中に観光を済ませることになりました。
暑い時期ですから、その方が良策だと納得しました。
建物の外観をご覧いただくと、ホテルというよりロッジという昨夜の説明が一目瞭然ですが、
勿論、この場所には充分と思えるホテルでした。



 
アンティオコス1世と父ミトリダテスの浮彫り ミトラス−ヘリオス像

ヘラクレスと握手するアンティオコス1世
祭儀が行われた洞窟

再びマイクロバスに分乗して、近在の遺跡を見に行きました。
先ずコンマゲネ王国の夏の離宮があったアルサメイアのエキス・カレ(古い要塞)へ行き、
点在するミトリダテスとアンティオコス親子を記念する像や祭儀が行われた洞窟などを見て歩きました。
先祖のアルサメスがBC2C始めに築いた居城があった地に、ミトリダテスが自らの陵墓を建設することに決め、
父の死後、アンティオコスが父と自らを記念する祭儀の場を築いたことが、
残されている碑文にギリシア語で詳しく書かれているそうです。

ネムルート山の売店で日本語版「コンマゲネ王国 ネムルート」というガイド本を見つけて、
喜んで買ったのですが、こちらの露店の方が値段が安かったのはちょっと残念でした。
緑豊だったと言われるコンマゲネ王国の地は、広大な景色と共に暑さも素晴らしく、
木陰で涼しげに店番をする人達を見て、現在行われているらしい植林が成功することを祈ったものでした。



イエニ・カレ
ニンフェ川にかかる悪魔橋とイエニ・カレ(山頂)

次にイエニ・カレ(新しい要塞)が遠望できる所でバス・ストップをしました。
ここもアルサメス時代からコンマゲネ王国の要塞であったようですが、
現在残っているのは13Cのマルムーク朝の宮殿跡やモスクだけのようです。
こんな岩山が連なるだけの場所で幾多の王朝の攻防があったとは信じがたいような乾いた景色でした。


牛の放牧地 ジェンデレ橋遠望
ジェンデレ橋

ユーフラテス川のほとりに降りると、パルティアへの備えとして、ヴェスパシアヌス帝時代と同じ場所に
セヴェルス帝と妻子を讃えて建てられたというローマ時代のジェンデレ橋がありました。
もともとは4本あった円柱の1本は、セヴェルス帝の息子カラカラが皇帝になった時に弟のゲタを殺し、
帝国内のモニュメントからゲタの名前を期し去るように命じた時、円柱そのものを取り去ったと言われています。
カラカラ帝もAD217年にパルティア戦役に向かう途中、ウルファ(古代名エデッサ)近くで
軍団内部で謀殺されてしまいます。

ユーフラテス川上流に建設されたアタチュルク・ダムは経済発展には貢献したものの、
コンマゲネ王国最初の都サモサタをはじめ、数百もの未発掘の遺跡を水底に沈めてしまったそうです。
全長約2800kmのユーフラテス川が織りなしてきた歴史が水底に・・・では、
ロマンを感じるという話にはならないとは思いますが、
世界史の‘ユーフラテス川’ですので、河原で小さな石を拾って、お土産に持ち帰りました。


カラクシュ古墳からの眺望 カラクシュ古墳

アンティオコス1世の息子ミトリダテス2世が母と妹とその娘のために建てたカラクシュ古墳に最後に寄りました。
この墳墓もネムルート山と同じく小石を積んで造られていますが、
コンマゲネ王国がローマ帝国に併合された後、ジェンデレ橋の材料とされ、
現在の高さは30m、円柱も4本が残されるだけとなっています。
東側に残る円柱の上の上には2.54mの鷲像が載っていました。
カラクシュというのは黒い鳥を意味するそうです。
360度さえぎる物のない眺望の中にネムルート山やユーフラテス川を遠望することが出来ました。

近在する遺跡を巡る午前中の観光でしたが、広い地方のことで、バス走行距離は113kmに及びました。
バスに乗ってさえ大変な場所で、この辺りの歴史を読む時は特別な尺度が必要だと実感させられました。
バスの車窓には交通手段をロバに頼っているような村人も見られました。



 

12時半ごろホテルに戻り、そのまま昼食になりました。
お昼から豪勢な内容と思われるかもしれませんが、運ばれたメイン料理の中身が人によって様々、
「ありったけのお魚を使ったんじゃない?」という2人分のお皿を写してみました。
久し振りのお魚を喜ぶ人、今一つ・・・という人、感想はいろいろでした。
味付けは様々ですが、ほとんど毎回添えられるピラフは野菜の1種と分類されるのでしょうか・・・?



 
ホテル近くの景色 イチジクを試食
クルド人集落

昼食後、部屋に戻って、シャワーを浴びたり、昼寝をしたりしてゆっくり休憩・・・・といきたかったのですが、
到着した観光客が部屋のすぐ前で大声で話し、ちょっと妨害されました。
後で話をすると、イタリアからの団体客で、カッパドキアから到着して、明日にはシリフケヘ向かうとのこと、
いずこも変わらずトルコ観光はかなりな強行軍となるようです。

5時に希望者7名が集合して、クルド人の民家を見せていただくことになりました。
小さくて緑色なのに充分甘いイチジクを食べたりしながら、田舎道を歩くこと30分ばかり、
ホテル従業員の1人のお家に到着しました。


メッカの方向 ぶどうとアイラン チャイ スカーフ・・・

家の中に入って、コーランなどを貼ってある室内を眺めたり、子供達に声を掛けたりしていると、
アイラン、チャイなどのおもてなしを受けたのですが、
次に出されたのはバザールで山積みで売られているようなスカーフでした。
ご主人がホテルからお客さんを連れて来て、奥さんが商売をするというのがシナリオだったとは・・・。
奥さんの一番近くに座っていた私は、いきなり頭に巻き付けられ、戸惑ってしまいましたが、
それ程の手仕事がなされていると思えないスカーフが2000円というので、すっかり気持が引いてしまいました。
最年長のFさんが「お土産にすればいいんだから。」と義侠心を発揮して?1枚買って下さったので、
何とか場がおさまり、ちょっとほっとしながら、1人2ドルのチップをO添乗員さんに託し、帰途に着きました。
冬の訪れが早く、半年余りも雪に埋もれて暮すこの地方に住む人たちにとっては、
短い観光シーズンにしか現金収入はないのかもしれませんが、
適正を超えると思われる価格を教えたのは観光客だったのでしょうか・・・・。


出会った動物たち

来た道とは違う山道を近回りして、ホテルへ戻りました。
畑にいたカメや珍しい山羊を見たり、ベリー類を食べたり、花を見ながらの夕方の1時間半の散歩は
何はともあれ、面白い体験となりました。
ホテル下方に点在するブルーの鉄板屋根の民家の一番右奥がこの時訪ねた家でした。



 

7時からの夕食はバイキング形式の前菜とスープ、スパゲッティというメニューでした。
私達より遅く夕食を始めたイタリア人観光客も同じメニューだったら、
「これはスパゲッティではない!」と言われそうなお料理です。
麺がくっついていて、せめてオリーブオイルで野菜をあえておいてくれたら!と思いましたが、
トルコではオリーブオイルは高いので、ひまわり油を使うことが多いそうです。


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