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26 Aug 2007
Karadut〜Diyarbakir
ホテル ユーフラット 干しピーマン

朝食を7時過ぎに食べに行った時は青空でしたが、この朝、ネムル―ト山では日の出が見られなかったそうで、
同宿のイタリア人観光客にはあいにくな天候となりました。
私達は「昨日は雨だった」という所を追いかけることも2〜3日あり、とてもお天気に恵まれた旅が出来ました。

・・・が、朝食の時、数人が浮かない顔で話をしているのを聞くと、お腹をこわした人が増え始めた様子です。
昨日のクルド人宅のアイランのせいでは・・・?というのが有力説のようでしたが、
私達夫婦は大丈夫で、170ヵ国以上旅をしたというNさんは、ミネラル・ウォーターと言っても、
外国産は硬質で日本人には合わないので、水が原因だろうとの見方でした。
対策としては日本から1Lボトルを持ってきて、最初の3日間は両方を交互に飲むと良いのだそうです。
結局、旅の間に8割方の人達がお腹の調子を悪くしたようですが、
私は飲食全般、特にサラダなど生ものは極力控えて、運良く、無事切り抜けることが出来ました。

朝食後、1人で散歩に出ると、放し飼いの門番犬?がちょっと怖そうでしたが、
目を合わさないようにしたら、近付いてくることもありませんでした。
市街地のマンションのベランダなどでも良く見かけた干しピーマンは、
トルコの夏の終りの風物詩といった所でしょうか。


8時半にホテルを出発、キャフタの町に降りると、朝から子供達がたくさん集まっている・・・と見ると、
近くに結婚式の車が止まっていました。
満艦飾の車は新郎新婦が乗るのでしょうか、それとも結婚持参品なのでしょうか・・・。


キャフタから東へバスを走らせ、ディヤルバクルの街へ向かいました。
80〜90年代にかけてのクルド人独立運動の中心地とあって、検問所が沢山ありましたが、
私達のバスは1度、ツアー名簿を提出したり、少し時間をかけた検問があったほかは、
ほとんどフリーパスで通過することが出来ました。
現在も過激派PKK(クルド労働者党)のテロなどの可能性はないとは言えませんが、
「トルコ国民はすべてトルコ人であり、トルコ人の言語はトルコ語以外にない、
トルコ語以外の言葉はトルコ国内に存在しない」(「トルコのもう一つの顔」小島剛一著)
といった政府公式見解の時代は終わったようで、近年はクルド人が大統領になったり、
少数民族もアイデンティティを保って暮らせるようになっているようです。


途中で2度、ガソリンスタンドやドライブインでの休憩をはさんで、5時間程でディヤルバクルに到着しました。
ドライブ・インのケバブ店の店員さん達が典型的なクルド人に見えますが、微妙な差異が分りません。
右の写真は買った布の巻き方を教わっている染織家・民族衣装コレクターで、170ヵ国踏破のNさんです。
グループ旅行でも並の行動力ではなく、気が付くと、はるか先の高台から手を振ったりしていました。


 

ディヤルバクルの街に入る頃、雨が降って来ましたが、通り雨だったようで、
1時半にバスを降りてレストランへ入る頃には止んでいました。

サラダ、羊のあばら肉のロースト、イチリ・キョフテ、スイカがランチ・メニューでした。
この旅で食べない日はなかったという程、お目にかかったスイカはこの街の特産品で、
街の入口に大きなスイカのモニュメントが飾られていました。ティグリス川の砂地が栽培に向いているようです。


 
ウル・ジャミイ
元・聖トーマ教会 国籍不明・・・?

ミフラーブ(メッカ方向の壁の窪み)とミンバル(説教壇)
コーランを勉強中

メソポタミア北方の都市ディヤルバクルの歴史はBC2000年のフリル人のミタンニ王国に遡ると言われています。
アミダと呼ばれたチグリス川沿いの玄武岩の丘の上のこの街は戦略上の重要な拠点であったため、
ウラルトゥ、アッシリア、ペルシア、セレウコス、ローマと次々と支配を変え、
639年からはベニ・バクール族の「アラブ族の王国=ディアル・バクール」となり、
モンゴル支配の時代を経て、セルジュク、オスマントルコの支配へと移っていくことになります。

徒歩見学の最初に旧市街の中心にあるウル・ジャミイへ行きました。
ウルは大きい、ジャミイのCAMIIはイスラムの4人の天使の頭文字を表すそうです。
5〜6世紀のバジリカ様式のキリスト教会をモスクとして使用しているこのジャミイは、
アナトリア最古のイスラム寺院と言われています。

暇そうな老人クラブ、興味津々で近付いてくる学童クラブ?の人達と立ち話交流をしました。
子供達は神学校の生徒で16〜7歳だそうです。
たまに両手を合わせて、おじぎをして通り過ぎる子供がいるのは仏教徒への礼儀と思っているのでしょうか、
中国人と日本人の区別がちょっと難しいようです。


 

バザール
ウル・ジャミイ鐘楼

タバコ店
伝統芸?
中央の建物:隊商宿ハサン・パシャ・ハン 青果店
スイカ・メロン売り パン店

今回の旅で最もスリなどに注意をしなければならない街だということで、ちょっと気を引き締めながら、
ウル・ジャミイ隣のバザールへ行き、紙たばこ用の葉っぱを高く積んだ店、香辛料、チャイ、衣料品店などを
覗きながら歩きました。パンを頭に高く載せて歩く人は別の街でも時々見かけました。

10分ほど街を歩いて、旧市街を取り囲む城壁へ行きました。


 

この城壁はビザンチン時代の基礎の上にマルトゥク朝が11世紀に築いたものだと言われています。
万里の長城に次ぐ長さの城壁だと説明されましたが、全長5kmとなると真偽のほどは、さて・・・。

城壁の上からミナレットや古い建物が並ぶ旧市街、田園の広がる新市街の眺望を楽しみました。
埃っぽく、雑然とした街でしたが、豊かで安全になって、古くからの文明の地である誇りを蘇らせると、
魅力を発揮する街ではないかと思われました。


バスの車窓からティグリス川を見て、新市街にあるホテルへ向かいました。
左の写真の遠くの丘の上はティグリス大学、手前の橋は大学橋と呼ばれ、
右の写真はその橋の上を通る時に写したもので、全長約1900kmのティグリス川の上流になります。


 

4時半にHOTEL DEDEMANに到着すると、ロビー脇の小部屋に花嫁さんとお父さんの姿が見えました。
ホテルのすぐ近くに広い軍施設が見られましたが、私達の部屋は公園に面した側で、
街の景色と5つ星ホテルに久し振りのような懐かしさを感じました。


いつも似たり寄ったりですが、夕食はスープとお肉料理(今回はチキン)と果物のデザートでした。
別テーブルでサービスが遅すぎるというトラブルがあったようですが、レストランのすぐ外側のプールサイドで
結婚披露宴が始まろうとしていて、ホテル従業員の人手が足りなかったのかもしれません。


 
ダンス先発隊 新郎・新婦入場
お披露目ダンス 未来のカップル?
音楽隊 美形カップル
新郎新婦もダンスの輪に

夕食後、物見高い3〜4人の旅仲間と、結婚披露パーティを見学させていただきました。
民族的・宗教的結婚式が禁止された時代もあったそうですが、300人もが集うクルド人の結婚式は、
祝祭ムードたっぷりで、結婚祝いというよりも、出席者が楽しみ、盛り上がっているようでした。

実は歌を歌っている右端の黒い衣裳のおば様から手招きされ、
踊りの輪に入り、小指をつないで、「4ビートよ。」という声に合わせて、一緒に踊って来ました!
他の子を輪に入れたくない男の子(私の手を放さない・・・)、ベリーダンスのような動きを教えてくれる女の子、
いろいろな場面を楽しみ、エキサイティングなひと時を過ごさせていただきました。
歌声の中に、時々、イスラム特有の高揚した声、ザカリ―ト(Cry of Joy)がはさまれていましたが、
クルド人のダンスは比較的静かだと言われているようです。

私達は9時頃に部屋へ戻りましたが、パーティは11時過ぎまで続いたらしく、
プール側の部屋にあたった人達にはちょっとアンラッキーな夜だったかもしれません。


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