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19 Sept.2015 
Tashkent~Urganch~Khiva 

タシケントで迎えたウズベキスタン初日の朝は7時から朝食をとった後、
1999年から3年間、ウズベキスタン特命全権大使をされた中山恭子さんの著書「ウズベキスタンの桜」を旅前に読んだことや、
程よい散歩距離というだけの軽い気持で、「地球の歩き方」の地図にホテルから1km余りにマークされている
日本大使館まで散歩することにしました。
プラタナス、マロニエ、オークなどの街路樹に塗られた防虫用石灰はイスラム圏の国々で多く見かけるように思われます。



東西文化の交差点という土地柄が実感される建物を見ながら、しばらく歩いていると、
広い道路と生い茂った街路樹が街の景観を取りとめのない印象にしていることや距離感をつかみにくくしていることが分かり、
道行く人に確認したり、「大使館」ということに緊急性を感じたのか、「車で送りましょうか」とも言われたりしながら、30分程歩いた挙句、
結局、日本大使館まで行き着けないままホテル前まで戻り、方向を変えて、ティムール広場へ行くことにしました。



国際会議場

ティムール像

ティムール広場近くで、F添乗員さんと散歩に出掛けたツアーメイト達とすれ違った時には、
「日本大使館の方へ(・・・)行ってきたんですけど」と歯切れの悪い挨拶をして、ティムール広場を一周してから、
8時半頃ホテルへ戻り、「スーツケースさえ出してしまえば、9時半の出発までにはまだ充分な時間がある」と日程表を確認し、
何とも面白くない気分を払拭するために、もう一度、日本大使館へ行ってみることにしました。


レストラン?

日本大使館

結局、最初に通った道もほぼ間違いではなく、大使館への曲がり角を通り過ぎただけだったことが判明し、
地図読解力を誇る?夫の名誉もいくらか挽回して、
中山さんが植えたと思われる桜の木が見える正門写真を1枚だけ撮って、気分よく帰路につきました。
ですが、ここで又、元来た道を戻らなかったことが大失敗のもと、
扇状に広がっている街区を大幅に遠回りしてしまい、小走りでホテルへ戻る羽目となってしまいました。
何とか、集合5分前にはホテルへ戻ることが出来ましたが、散々なスタートに気分はダウン・・・。(閑話休題)

では、気持を取り直して、元気にタシケント観光に向かうことにしましょう!



ホテルからバスに乗って、ほどなく下車、タシケントの中心、ティムール広場から観光が始まりました。
ティムール像の前で古い写真を見せながら、「カウフマン→レーニン→スターリン→マルクス→ティムール」とザファールさんから
像の変遷の説明がありましたが、その時に取ったメモが正しいかWikipediaで確認すると、
トルキスタン初代総督のカウフマンのお墓跡に1910年に銅像が建てられた後、「鎌とハンマー」という構成主義モニュメントの一時期を経て、
レーニン(1930年)、スターリン(1940年代)、マルクス(1968年)、ティムール(1994年)と台座の主が入れ替わったとあり、
銅像ひとつでタシケントの近現代史を如実に物語っていることが分かりました。

ティムール像の右側に見える時計塔は左手に隠れているものとペアになっていて、サマルカンドへのゲートの意味を持つそうですが、
1947年と2010年の建造ですから古くからの意匠ではなさそうです。



ティムール博物館

法学研究所

ティムール広場の北側にティムール博物館の青いドーム屋根が見えていました。


1000スム紙幣に描かれたティムール博物館

2009年に行なわれた大規模改修工事で広場一帯の樹齢100年以上の木が伐採され、植生が一新されたそうです。
広場の西側、サイールゴフ通りの入口両側に1890年に建造された煉瓦造りの法学研究所がありました。


  
サイールゴフ通り
  

手入れの行き届いた公園に囲まれたタシケントのブロードウェイと称されるサイールゴフ通りを歩いて、
絵画青空マーケット?や国会議事堂を見ながら、ウズベキスタン国立歴史博物館へ向かいました。



ウズベキスタン国立歴史博物館

    

歴史博物館前に着いた時、近付いて来たパトカーにザファールさんが連行され、何事かと思ったら、
通りすがりに撮影禁止の国の関連機関の建物を写したツアーメイトがいたということでしたが、
再び、パトカーで戻って来た時、写した人が特定されていたことに驚きました。
カメラを見せて画像を消去、「初めてパトカーに乗って楽しかったよ」というザファールさんの一言で一件落着しましたが、
ソ連時代を髣髴させるひとこまでした。

中央アジア最古&最大を誇る歴史博物館は1876年にトルキスタン民俗博物館として設立、1919年にトルキスタン国立博物館と改称、
1970年に場所を移転して、ロシアのレーニン中央博物館の分館として改装され、
1991年の独立後にウズベキスタン国立歴史博物館と名称を変えています。

朝日と平和・幸福・繁栄の象徴とされる伝説の鳥「フマ」の周りを綿花と小麦が取り囲んだ国章が掲げられた博物館入口の扉前で
ウズベキスタンの伝統工芸である細密な木彫についてザファールさんの説明があった後、館内見学をしました。
入館料1万スム(≒500円)に比して、2万5千スム(≒1250円)という高めの写真撮影料を支払い、
展示ケース越しでは大した写真を物することは出来ないことを承知の上で、HP用にメモ写真を撮って来ました。


    

シルダリア、アムダリアの二つの川の流域のサマルカンド地方に人類が住み始めたのは約10万年前の旧石器時代と言われています。
その旧石器時代から、諸民族の興亡を経て、BC6にアケメネス朝ペルシアの支配下に入り、アレクサンダー、セレウコス朝、
パルティア、ササン朝ペルシア、アラブ、トルコ、モンゴルと支配者を変えた後、14Cに中央アジアはティムールによって統一されます。

その歴史を追いながら、2階の展示物を1時間ほどかけて見学しました。
博物館のお約束通り?恐竜から始まった展示は10万年~5万年前の石器や骨、BC5000年の岩絵へと続いていました。


    
BC3000年~2000年頃の出土品

    

フェルガナ地方で見つかったBC2000年頃の石で造られた蛇のお守り、BC15C~12Cの粘土の人物像、
BC6~4Cの青銅の大釜(Cauldron of Saks)の造形がとても面白いものでした。


    

見事な彫金が施されたBC5~4Cの聖職者像(ゾロアスター教?)、金のブレスレット、山羊の形の容器の取っ手は、
1870年代に発掘されて、アムダリアの至宝とされています。


    
BC2~1Cのヘレニズム時代コイン            人物模型                 多民族性が分かる発掘品  

  

  

歴史博物館の白眉とされているのがテルメズ近郊のファヨーズ・テペから出土したクシャン朝時代(AD1~3C)の
仏立像や観音菩薩、勢至菩薩を両脇にした阿弥陀如来坐像です。
ガンダーラ仏教美術の壁画や断片の数々にも興味惹かれるものがありました。


    

左は人物や動物模様の彫刻が施された6~7Cの骨壺、
真中の3人の肖像は、左からローマ帝国時代のギリシアの医学者ガレノス(AD129-200頃)、
ブハラに生れた医学&哲学者イブン・スィーナー(AD980-1037)、古代ギリシアのヒポクラテス(BC460-370頃)で、
近世に至るまでヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を与えた偉人達です。
右の工芸品には、イスラム時代に入って洗練されていく様子が覗えました。


    
   12C 陶器の動物                  7C ブハラ地方の壁画           5~7C テラコッタ製レリーフなど
    

ティムールの栄光を表したコーナーを中心に、モスクや廟の模型、コーラン、工芸品などに続いて、武具、民族衣装、民芸品などで
2階の展示が締めくくられていました。



11時半過ぎに歴史博物館を出た後、徒歩でナヴォイ・オペラ・バレエ劇場へ行きました。
劇場に名前を冠したアリシェル・ナヴォイは15Cのウズベクの宰相であると共に、ペルシア語でなく初めてウズベク語で詩を書いた詩人で、
ロマンに満ちた政治、歴史、愛を謳った叙事詩はしばしば細密画の題材とされているそうです。
修復工事中ということで、残念ながら、内部見学や第2次世界大戦でソ連の捕虜となった日本人が建設に関わったことを称え、
「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、
その完成に貢献した。」という1996年にカリモフ・ウズベキスタン大統領が設置したプレートを確認することは出来ませんでした。
1966年4月のタシケント地震で多くの建物が倒壊した中、無傷のナヴォイ劇場は市民達の避難場所として機能したと言われています。
国家的生産物の綿花をモティーフとした劇場前の噴水は1924年に造られたものです。



かつてはユダヤ人地区だったという劇場の筋向いには、最高級ホテル「LOTTE CITY HOTEL TASHKENT PALACE」が建ち、
昔も今も変わらず、多民族都市であり続けるタシケントの一端を見るようでした。
右写真はスマホ操作に慣れないにも関わらず、写真を撮っているグループを見ると、「撮りましょうか」と近付いて行く習性を持つ夫です。




      

ナヴォイ劇場前からバスに乗って、12時10分頃、昼食レストランに到着しました。
モダンな食器で生野菜サラダ、スープ、ビーフ・ストロガノフ、ケーキという洋風メニューが供され、
有名な?ウズベキスタンのお腹こわしの心配はなさそうな雰囲気のレストランでしたが、
用心に越したことはありませんので、腹6分目あたりで押さえておくことにしました。



アンホール運河とテレビ塔

国立アートセンター

午後の観光で、タシケントの北西に位置する旧市街へ向かうバスの車窓には
1981年に造られた高さ375mのテレビ塔や真新しい国立アートセンターなどが見られました。

シルダリアの支流チルクル川のオアシス都市、標高430mのタシュ(=石)ケント(=町)は、
南北に流れるアンホール運河が街を東西に2分し、東が新市街のロシア地区、西が旧市街のウズベク地区となっていて、
ソ連時代にはウズベク人はロシア地区に居住することができなかったと言われています。


30分程でチョルスー(=オールド)・バザールに到着しました。
バザールの中心の屋内バザールの周りにも、ハミウリ、ナン、季節の野菜などの露店がずらりと並んでいました。


  
  
  

バザールの中心ドーム内は乳製品、果物、野菜、砂糖、肉類(左下の馬肉店には馬足・・・)、漬物、香辛料などが所狭しと並べられ、
地元の人々の日常を垣間見ることが出来ました。




20分ほどのフリータイムには、食料品のほか服飾品や雑貨のバザールも覗いてみましたが、
旅が始まったばかりで日本モードが残る目には購買意欲はそそられず・・・となりました。
ドームのテラスから、この後に行くジャミ・モスク(中央)、クカルダシュ・メドレセ(右端の建物)が見えていました。



土曜日の午後とあってか、子供達の姿も多く見られる服飾品、ナンのバザールを南へ抜けて10分足らず歩き、
クカルダシュ・メドレセ(=神学校)へ向かいました。


ジャミ・モスク メドレセの学生達


創建は15Cに遡るジャミ・モスクの前を通って、旧市街の中心、レギスタン(=砂地)広場にあるクカルダシュ・メドレセへ行きました。
シャイバニ朝(1500-1599)の大臣クカルダシュによって建てられた神学校のミナレットは、
中世からロシア支配下の1924年まで、犯罪者を投げ落とす処刑場として使われていたそうです。



ソ連時代には倉庫として使われていたそうですが、独立後に修復され、現在は再び神学校として使われているメドレセの中庭まで入り、
教室と宿舎が2階建になっている様子をカメラに(撮影料1000スム)収めました。


イマーム・アリ・ブハラ学院 バラク・ハーン・メドレセ

ジュマ・モスク

リア・ウィンドウに日の丸

再びバスに乗って、旧市街の北に位置するハズラティ(=聖なる)・イマーム広場へ行きました。
高等教育機関イマーム・アリ・ブハラ学院、ソ連時代には中央アジアのイスラム本庁があった1531年建造のバラク・ハーン・メドレセ、
金曜日の集団礼拝に使われる19C建造のジュマ・モスクなどが立ち並ぶ一画は
ウズベキスタンのイスラム総本部といった趣きがありました。



現地で買ったガイドブックに掲載された写真

ここでは第3代カリフのウスマーン・ブン・アッフーンが暗殺された時に読んでいたと伝わる世界最古のクルアーン(=コーラン)、
「ウスマーン写本」(作成:644-646頃)を見学するためにジュマ・モスク隣のムスリム総務局の図書館へ行きました。
ティムールがイラク遠征中にバスラからサマルカンドへ持ち帰った、スーフィー教団の指導者が15C後半に中央アジアへもたらしたなど
諸説ある53×68cmのクーフィー体文字で書かれたウスマーン写本は、入口正面の大きなガラスケースに収められていましたが、
国宝級とあって、レプリカの展示品でも撮影禁止となっていました。
世界最古のコーランはこの他、トルコ、エジプト、サウジアラビアと合わせて4冊あると言われています。
各国語に翻訳されたコーランを展示した小部屋には(翻訳されたものはコーランではなく注釈書という位置づけと聞いたことがあります。)
日本語版は岩波文庫と中央公論社「世界の名著」が置かれていました。


ファジル・アタ墓地入口 日本人墓地を守って3代目の男性

3時半頃ハズラティ・イマーム広場からバスに乗り、新市街の地元スーパーマーケットへ立ち寄ったり、お弁当をバスに積み込んでから、
ヤッカサライ地区のファジル・アタ(=父)墓地にある日本人墓地へ行きました。
1945年から46年にかけてウズべキスタンへ強制移送された約2万人の日本兵の中、819人が抑留中に亡くなり、
ウズベキスタン国内10か所の墓地に埋葬されているそうで、私達が訪れた墓地には79人が眠っているとのことでした。


  

慰霊碑、墓地の周りには武蔵坊弁慶になぞらえた「枯れない強い草」のベンケイソウが隙間なく植え込まれていました。
この日、9月19日に日本では安全保障関連法案が参議院本会議で可決され、この光景がいっそう深く記憶に刻まれることになりました。



5時20分に日本人墓地を出て、20分余りでタシケント空港国内線ターミナルに到着しました。
チェックイン手続きをした後、ロビーでお弁当夕食を済ませ、7時半に飛び立ったA320機は1時間10分のフライトで、
8時40分にウルゲンチ空港に着陸しました。
当初は6時50分出発、9時10分着の予定だったのですが、飛行機がプロペラ機からエアバス機に変更になったお陰で、
タシケント旧市街観光の時間が増え、ホテル・チェックインも早くなったことはとてもラッキーなことでした。




ウルゲンチ空港から約35km、夜道をバスを走らせて、10時過ぎにヒワの「HAYAT IN HOTEL」に到着し、
11時半に就寝して、長い観光の初日が暮れて行きました。


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