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23 Mar.2012
  Zanjan~Soltaniyeh~Maragheh~Tabriz


2006年開業のザンジャン・グランド・ホテルは設備も整っていて、気持ち良く過ごせましたが、
町はずれに位置するため、周りに見るべきものはなさそうで、
昨日のノウルーズ祭りの余韻だけが残っていました。
相当冷え込みそうな地域、道路端にもかかわらず、宿泊テントが張られている所がイランらしい光景です。

8時にホテルを出発し、ザンジャンの南東に位置するソルターニエへ向かいました。
パトロール・カーに2度も止められたために、30km足らずの距離に1時間を要してしまいましたが、
例え、「バスに乗せてほしいと手を挙げている人を無視した」などと理不尽な言いがかりをつけられたとしても、
先を急ぐツアー・バスのような場合は、逆らうことなく、ただ放免を待つのが最善の方法のようです。
取り締まりが厳しいと言われるザンジャン州で出会ったドライバーのフセインさんの不運でした。


ゴンバデ・ソルターニエ

イル・ハン朝時代に夏の幕営地のひとつとされていたソルターニエを、
第8代君主ムハンマド・オルジェイトゥ(在位:1304~1316年)が新しい首都と定めて都市造りをし、
宮殿、モスク、マドラサ、病院などと共に城塞の中に造った墓廟ゴンバデ・ソルターニエが、
2005年に世界遺産に登録されたソルターニエ遺跡の中核として残っています。

ゴンバデ・ソルターニエの直径25.6m、高さ48.5mのドームは、
フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、イスタンブールのアヤ・ソフィア大聖堂に次ぐ規模ですが、
2重殻式ドーム建築としては世界最古で、後世の建築に与えた影響は計り知れないと言われています。
45年間の修復を終えたドームと未修復の8本のミナレットや8角形の外壁のコントラストが
長い歴史を語り継ぎ、堂々とした存在感を見せていました。



廟内に入って先ず見学した地下墓ではオルジェイトゥの遺骨は発見されていないと言われていますが、
レンガ造りの天井アーチがイスファハンのマスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)と同じ所に目を引かれました。


  

1階の展示室では堅牢な岩盤の上に築かれているゴンバデ・ソルターニエの基礎が地下わずか1mという様子、
建物模型や出土品、修復の様子などを見学しました。





2階の回廊に上ると、落ち着いた色調の素晴らしいしっくいやタイルの内部装飾と共に、
女性専用室にオリジナルの木のフェンス(のぞき窓?)が残っているのが見られ、
火や雨から守られさえすれば、木という素材がいかに丈夫であるかを証していました。
ゴンバデ・ソルターニエ破壊の最も大きな原因は地震と寒さで、
亀裂から浸透した雨水が凍って、タイルやレンガを傷めるのだそうです。



外に向けて開かれた3階の回廊には様々な模様の素晴らしいモザイクが施され、
土色のレンガ造りの無骨な外観からは想像がつかないような美しい空間となっていました。



3階回廊から見たソルターニエの風景です。
右写真遠景にはオルジェイトゥに仕えた宮廷詩人モッラー・ハサンの青いドームの廟や、
イスラム神秘主義の宗教哲学者、旋舞で有名なメブラーナ教団始祖のメブラーナの孫チェレビ・オグル廟も見え、
由緒ある歴史の街であることが窺われましたが、
オルジェイトゥの息子アブー・サイードの没後、イル・ハン朝の衰退と共に街は廃れていったそうです。


狭い石階段

人がすれ違うのが難しい狭い石階段を降りていくと、イラン人家族がにこにこと待機してくれていました。
降りてきた一団からカメラを向けられて、ちょっと緊張気味の子供もいたようです。



ハマム(公衆浴場)

ゴンバデ・ソルターニエの周りを一周して、順光のベスト・ポジションで集合写真を撮った後、
15分ほどのフリータイムとなりましたので、私はもう一度、廟内を見に行きました。



足場だらけの中央ホールでしたが、高さや直径38mの規模は実感することができました。
これら膨大な量のタイルやレンガを再生産、再現することは可能なのでしょうか、
過剰に修復するよりは、残されたものを大事に守ってほしいと思われた世界遺産でした。



廟の受付でナンをプレゼントされたり、ガイド(多分)の方達と写真を撮った後、急ぎ足で集合場所へ戻りました。

 

門前に並んでいた露店で、素敵なデザインの火ばさみを買っているツアー仲間を見つけ、
真似をして、2本50000リアル(≒350円)で買って帰りました。
刃物で有名なザンジャンには、中国製が多く出回っている昨今だそうですが、
確認するほどの買物でも、時間の余裕もない、という所でした。



10時15分にソルターニエを出発し、一路、北西に位置するマラゲーを目指しました。
途中、不思議な色合い、形をした鉄、銅などの鉱物質の地層が明らかな禿山が延々と続き、
5時間近くの長距離ドライブの目を楽しませてくれました。



   

3時前にマラゲーに到着、遅いランチとなりましたが、
空いたおなかに焼き立てのナンとお魚のケバブがとても美味しく感じられました。



「青いドームの墓」

  

昼食後、イル・ハン朝の最初の都であるマラゲーに残された塔墓を2か所見学しました。
墓を造る習慣を持たなかったというモンゴル人がイスラム化していった様子が窺われる塔墓には
青い彩色タイルなどの美しい装飾が残っていましたが、支柱で支えられた内部は修復不能とのことでした。
小さい方の塔墓は未完成だそうです。



「赤いドームの墓」


塔墓内ドーム

日時計

鉄分が多いレンガを使用し、「赤いドームの墓」と呼ばれる塔墓がある一角には
マラゲーに天文台があったことに因み、2005年の国際物理年に設置されたという日時計がありました。

2008年に龍谷大学の調査隊がマラゲー近郊のヴァルジュヴィ遺跡で発掘した石窟は、
イスラム化する前のイル・ハン朝の仏教寺院の遺構とも見られていて、
仏教伝播の西限の地をトルクメニスタンのメルブとする現在の学説が覆される可能性もあるそうです。
モンゴルが支配した時代の貴重な遺跡や建造物が残るマラゲーですが、
民家が建てられ、発掘調査が出来ないため、世界遺産への登録は無理だと言われています。



集合場所での撮影騒ぎに?気付いて、家の中から一人、また一人と顔を出した美形家族と記念撮影をした後、
4時40分にマラゲーを出発、タブリーズへ向かいました。

バスの車内では、タブリーズ出身の44歳のムハンマドさんが、革命前の貧しさを覚えていること、
10代の初めに父上を亡くして18歳でテヘランへ引っ越したこと、大学時代に徴兵を経験、
イラン・イラク戦争では友人を失くし、戦争の怖さを充分に知っているので心から平和を願っていることなどを
言葉を詰まらせながら話して下さいました。
若い頃に映画を見て日本文化に興味を持ったことが、日本語ガイドになったきっかけだそうです。
現政府に対しては、経済制裁を受けながらも屈することなく、良い仕事をしているというのが彼の評価でした。



1時間近く走った頃、車窓にウルミエ湖を遠望することができました。
小さなエビが一種だけ生息するというイラン最大の塩湖は、水位の低下が深刻な問題となっているようです。
2時間半ほどでタブリーズの街に到着し、460kmの長距離ドライブの一日が終わりました。


  

7時20分にチェックインしたインターナショナル・ホテルの部屋から貿易センターの高層ビルが見え、
イラン第3の都市に来たことが実感されました。


  

夕食は8時からと遅めでしたが、タブリーズには3連泊しますので、
ゆったりとした気分で、クーフテ・タブリーズィ(大きな肉団子)という地元の伝統料理を味わいました。




デザートのコラビーエというさっくりしたタブリーズの伝統菓子も好評で、
ムハンマドさんがお店に手配をして下さって、多くの人がお土産に持ち帰ることになりました。


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