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 3 Oct.2014  
    

ウィーン滞在最後の日、6日目の朝となりました。
この日は4人でウィーン美術史美術館へ出掛けるため、いつもより30分早く、8時半からの朝食となりましたので、
「軽めに」というテーブルで、かぼちゃのポタージュ、果物を足したミューズリー添えヨーグルトを美味しくいただきました。

美術史美術館の後は舟田さんはお仕事で、私達は「王宮家具博物館とアプフェルシュトゥルーデルとウィンナーシュニッツェルを予定」と、
おおよその計画を話すと、Kさんが「ご一緒させていただいてよろしいかしら?」という1日となりました。



国立オペラ座

ウィーン美術史美術館

    

9時40分頃、出発して、カールスプラッツから1停留所トラムに乗って、10時20分に美術史美術館に到着しました。
フランツ・ヨーゼフ帝の命でゼンパー、ハーゼナウワーによって、1872年から20年の歳月をかけて建築された美術史美術館は
ネオ・ゴシック建築が威容を誇り、建物内に入ると多色大理石を使ったホールや大階段の装飾の壮麗さに目を奪われます。



クリムトの壁画

ホール壁面の上部にはグスタフとエルンスト・クリムト兄弟やフランツ・マッチュ(アンカー時計の画家)によって絵が描かれていますが、
クリムトのエジプトやギリシアなどの女性像は、美術史美術館の「美術史」の寓意となっています。



ゆったりとした展示室

    

絵画展示室がある2階へ上り、美術史美術館が世界に誇るブリューゲル・コレクションを見に行きました。
歩きながら写したもので、角度はまちまち、見苦しい点多々ですが、収蔵品目録の一部として、写真をご紹介させていただきます。

左の「雪中の狩人」はピーテル・ブリューゲル(1525~30頃-1569)の晩年、1565年に描かれた傑作のひとつで、
女性が模写しているのはピーテル・ブリューゲル(子)(1564-1638)の「ベツレヘムの嬰児虐殺」です。
一見、美しい雪景色ですが、聖書物語に時代風刺を織りこんで奥行ある作品になっています。



左の1564年に描かれた「ゴルゴダの丘への行進」も16世紀のネーデルラントにゴルゴダを重ね合せた歴史画の一種で、
2011年に「ブリューゲルの動く絵」というタイトルで映画化され、
100人を超える絵画中の人物が絵と同じ服装で登場し、絵にある様々な場面を演じ、時代が絵巻物のように綴られていました。
右の「謝肉祭と四旬節の喧嘩」の前では描かれた1559年当時のことを、舟田さんが文化史的な視点からお話して下さいました。
こちらも興味深い題材が詰まっていて、動かしてみると面白そうなストーリーを展開させることができそうです。





「バベルの塔」(1569年)、「牛群の帰り」(1565年)、「農民の結婚式」(1568年)など1時間ほどブリューゲルを堪能した後、
舟田さんと分かれて、3人で他の絵画展示室を回りました。


テニールス「レオポルト・ヴィルヘルム大公のブリュッセルの絵画収集室」

美術史美術館はマクシミリアン1世(1459-1519)を出発点として、フェルディナント1世、フェルディナント2世、ルドルフ2世と
歴代ハプスブルク皇帝や大公による絵画蒐集が元となっていますが、
中でもフェルディナント2世の次男レオポルト・ヴィルヘルム大公がネーデルラント総督時代の10年間に、
ブリュッセルで蒐集した1400点余りが現在の絵画コレクションの中核をなしているそうです。
テニールスの「レオポルト・ヴィルヘルム大公のブリュッセルの絵画収集室」の画中に見られるオランダとイタリアを中心とした蒐集絵画は
甥の皇帝レオポルト1世に相続され、ほとんどが今に伝わると言われています。


    
    フェルメール「絵画芸術の寓意」            レンブラント「自画像」        デューラー「ヴェネツィアの若い貴婦人の肖像」

    
マンテーニャ「聖セバスティアン」         コレッジョ「ユピテルとイオ」             コレッジョ「ガニメデの誘拐」 

フェルメール、レンブラント、デューラーなど、何度訪れても見ておきたい作家が目白押しですが、
昨夏訪れたマントヴァの宮廷お抱え画家マンテーニャと、パルマのドゥーモのクーポラに天井画を描いたコレッジョも見逃せませんでした。
コレッジョの作品はマントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガとイザベッラ・デステの息子フェデリーコ2世(1500-1540)が、
皇帝カール5世(1500-1558)に忠誠を誓い、公爵位を授けられて、献上したものと伝えられています。
マントヴァでマンテーニャの天井画に出会えなかった残念も思い出します。

ヨーロッパを歩くと、複雑に絡み合った歴史に挫折感すら覚えますが、ハプスブルク家を中心に置くと、
少し人物相関図がほぐれていくことが分かって来ましたので、収集写真で簡単におさらいをしておくことにしましょう。


    
  
左のデューラーの「皇帝マクシミリアン1世」は、59歳10か月で没した1519年の前年に描いたスケッチを元にした油彩で、
上部にハプスブルクの双頭の鷲の紋章と共に皇帝の生涯を讃える銘文を書き、左手にのせたザクロで繁栄と栄光を表わしています。

真中の「皇帝マクシミリアン1世とその家族」は後列左からマクシミリアン1世、息子のフィリップ美公、妻のブルグント公女マリア、
前列左から孫のフェルディナント1世、カール5世、ラヨシュ2世(諸説あり)が描かれていて、
ハプスブルク家の結婚政策の中でも、飛びぬけた強運に恵まれて、盤石な帝国の基礎を築いた栄光の家族肖像画です。
公女マリア、フィリップ美公が若くして亡くなったとしても、ここからハプスブルク家の帝国進出への道が開けたことは間違いありません。

右はザイセネッガーによる「皇帝カール5世とグレートデーン」です。
皇帝マクシミリアン1世が没して未払いとなった画料の請願のために、デューラーは家族を伴ってニュルンベルクを発ち、
孫のカール5世の戴冠式が行われたアーヘンまで赴いたそうで、その時の旅日誌が一級資料として残されています。
「日没なき世界帝国」の皇帝となって70を超す称号をまとったカール5世(1500-1558)は、
宿敵フランスを始めとするヨーロッパ諸国やオスマン・トルコ、またプロテスタントとの宗教問題などの戦いに明け暮れて、
56歳で退位し、58歳で生涯を終えてしまいました。
ティツィアーノがその頃に描いた老いたカール5世の肖像画はプラド美術館で見ることが出来ます。


    
サンチェス「ドン・カルロス」           ベラスケス「王女マルガリータ」           ベラスケス「フェリーぺ4世」

左はカール5世の後を継いだ皇帝フェリーぺ2世(1527ー1598)の息子ドン・カルロス(1545ー1568)です。
シラーの戯曲、ヴェルディのオペラで有名ですが、無能さゆえに、自殺とも他殺とも言われる最期をとげた王子ですが、
カール5世の庶子でレパントの海戦で華々しい活躍をしたドン・ファンとフェリーぺ2世父子との確執も興味深い史話として残っています。

右の2点はベラスケスの手になる「王女マルガリータ」と「フェリーぺ4世」父娘の肖像画です。
マルガリータの3歳、5歳、8歳の肖像画は、叔父であり、従兄であったレオポルト1世(1640-1705)へ送られたお見合い絵だったと言われ、
1666年暮れに行なわれた26歳のレオポルト1世と15歳のマルガリータの結婚祝宴は延々と2年間も続けられたそうです。
叔父と姪などという血族婚が重ねられた結果、マルガリータの弟カルロスの時にスペイン・ハプスブルク家は終焉を迎えてしまいます。


  

マリア・テレジア(1717-1780)と夫フランツ1世シュテファン公(1708-1765)の肖像画です。
1736年に2人は当時としては珍しい恋愛結婚によって結ばれ、1765年にフランツ1世が亡くなった後、
マリア・テレジアが喪服を脱ぐことはなかったと伝えられています。


    

マリア・テレジアの16人の子供達の中の「ヨーゼフ2世とトスカーナ公レオポルト(後のレオポルト2世)」と、
 「マリー・アントワネット」「ルイ16世」夫妻の肖像画です。
啓蒙君主として18世紀末を駆け抜けた2人の兄弟には、フランスへ嫁いだ妹のマリー・アントワネットへ手を差し伸べる余力はなく、
レオポルト2世の息子フランツ2世の時、1806年に神聖ローマ帝国は幕を下ろすことになりました。
ハプスブルク家は、この後、オーストリア皇帝として1世紀の歴史をつなげていきますが、
今、目にするウィーンの街並み、建物のほとんどは、この時代の遺産が中心になっていると言っても良さそうです。



ミュージアム・ショップで集めた孫土産

美術史美術館では、10年かけてリニューアルされた工芸室が2013年3月に再オープンしたそうですが、
工芸室のみならず、今回もエジプト、ギリシアにも到達しないまま、2階の絵画室だけを見て、
ミュージアム・ショップに寄ってから、1時前に美術館を後にしました。


 

ツィグラーガッセ駅近く

王宮家具博物館

ミュージアム・クオーター近くのフォルクス劇場前からU3に乗り、
ツィグラーガッセ駅まで行って、駅窓口で教えてもらった出口から地上へ出ると、もう郊外域に入っているだろうという見込みが外れ、
写真のようなウィーンそのままの街並みが続いていて、「お見逸れしました」といった気分でした。

駅からほど近く、王宮家具博物館はすぐに見つけることが出来ましたが、
前庭にあった実を付けた桐の木の方へ目がいってしまい、建物の全景の写真を撮ることは忘れてしまいました。


    

1747年にマリア・テレジアによってハプスブルク家の家具保管倉庫として造られたという館内には、
マリア・テレジアからフランツ・ヨゼフ時代の家具類が肖像画と共に展示されていて、時代を追いながら、
華麗な宮廷生活の一端を垣間見ることが出来ました。
館内入口には撮影禁止マークがありましたが、中国家具が並んだ部屋に特別に目立つ赤い禁止マークを見た時、
他の部屋を遠目にならば許容範囲・・・?と都合の良い解釈のもと、3枚だけ写真を撮ってしまいました。

博物館で開催されていたモーツァルト時代の生活を描いた額やドールハウスなどの企画展も簡単に覗いた後、
ツィグラーガッセ駅からUバーンを乗り継いでシュタットパーク駅まで行き、
2日目のチーズ・ディナーの店、カフェ・マイエライへ行きました。


カフェ・マイエライ

    

この日は「2時に焼き上がるアプフェルシュトゥルーデル(アップル・パイ)がお勧め」と舟田さんから伺ったお菓子が目的で、
やはり焼き上がったばかりのトプフェンシュトゥルーデル(チーズ・パイ)も一緒にシェアしていただきました。
美味しく、楽しいカフェ・タイムを過ごしている中に、「カイザーシュマレンも試してみましょ。」ということになって、
ちょっと食べ過ぎと言いながら、皇帝お気に入りのパンケーキも賞味して、ウィーンのカフェ堪能のひとときとなりました。



3時40分頃、カフェ・マイエライを出て、ウィーン川を渡って、市立公園へ向かいました。
橋の上から撮った右の写真にはヴィエナ・ヒルトン・ホテルとカフェ・マイエライが写っています。


    

ウィーン初の市立公園として1862年に開園した公園は6万5000㎡の広さを持ち、まさに市民のオアシスとなっていました。
少し南へ行くと、ウィーン写真といえば登場するバイオリンを弾くヨハン・シュトラウス2世の金色の像がありますが、
今回はそこへは立ち寄らずに北へ向かい、ブルックナー像の前を通って、リングへと抜けて行きました。


オーストリア応用美術博物館(MAK)

オーストリア応用美術博物館もとても見応えがあると聞きますが、今回は割愛し、
雰囲気のある建物外観を見ながら素通りして、少し先でリングを横断して、リング内へと入って行きました。



リング内を西へ進んだ所で、何だか風変わりな建物があると思ってカメラのシャッターを押したのですが、
その時はこれが目的の建物であるとは気付かず、建物をぐるーっと半周した所で通りすがりの人に尋ねて、
これが見たいと思っていたウィーン郵便貯金局だったことが分かりました。


  


郵便貯金局

東側へ回ると、写真で見ていた郵便貯金局の正面に出ましたが、建物の大きさが一街区ほどあることには圧倒されました。
ウィーンには銀行資金に対抗するための郵便貯金制度が、ヨーロッパでいち早く、1883年に取り入れられ、
新庁舎建築のコンペに勝利したオットー・ワーグナーによって、1904年から8年かけて建てられたのがこの郵便貯金局です。
コンクリートとアルミニウムを使った外観にはモダンさと共に周りの建物に負けない重厚感がありました。
屋上の女性像、文字などの装飾に今まで見て来たユーゲントシュティールらしさが見られます。




ガイドブックには室内見学は3時までと書いてあり、4時過ぎではとうてい無理だと諦めていましたが、
受付の方から入ってもいいですよと、うれしい許可をいただきました。
ガラスの天井と床、アルミで覆った柱、木製の机や椅子などが絶妙なコンビネーションを見せていて、
古さを感じない室内に100年前の建築当時の斬新性を感じました。

ミュージアム・ショップでKさんがワーグナー・デザインのグラスを購入されましたが、
20日間ほどのウィーン滞在が終わるまでに増え続けるであろう荷物のことが愉快な話のネタとなりました。
(その後のてんまつはまだお聞きしていません・・・。)

    

4時半頃、郵便貯金局を出て、様々なレリーフ板を壁面に取り付けた建物(旧陸軍省?)を見ながら、
ビーバー通りを通って、カール・ルエーガー・プラッツへ出ました。


    

1897年から1910年までウィーン市長として都市計画に辣腕を奮ったカール・ルエーガー(1844-1910)の銅像が立つ広場には
かつて築かれていた市壁や稜堡の模型が置かれ、ステューベントール(=旧市街のゲート)と呼ばれる由来を示していました。
真中の写真の「Dr.Balthasar Hubmaier」(バルタザール フープマイヤー 1480-1528)は、
1528年3月10日にこの場所で異端者として火あぶりの刑にあった再洗礼派の神学者を記念するプレートのようです。



    

ウィンドウ・ショッピングをしながら、ヴォルツァイル通りを歩いて、5時過ぎにシュテファン大聖堂広場に到着し、
1990年にハンス・ホライン(1934-2014春逝去)によって建てられたハース・ハウスをバックに3人で写真を撮りました。
シュテファン大聖堂という歴史あるエリアに建つ現代建築には賛否両論の議論が巻き起こったようですが、
20数年を経た今、大聖堂の南塔を映し込んで、景観の中に違和感なく溶け込んでいるようでした。
カメラのシャッターは「South Koreaから」という一人旅らしい男の子に押してもらいました。

大聖堂の裏手にある紅茶で有名な「Haas & Haas」でお茶やお菓子の買物をした後、この日最後のプラン、
ウィンナーシュニッツェルのお店へ向かいました。


    

グラーベン、コールマルクトとすっかり覚えた通りを抜けて、ミヒャエル広場に到着し、
昨日、目にしながら、古典的な列柱に惑わされて、それとは気付かなかったロース・ハウスときちんと対面することが出来ました。
上層部分の無装飾が市当局や世論の批判を受け、窓にフラワーボックスを取り付けるという妥協案によって、
1910年に完成したアドルフ・ロースによる建物ですが、
歴史主義時代には「眉毛のない家」と呼ばれた窓屋根のない建物も、現代人の目には充分に装飾的に見えてしまいます。
ワーグナー達とは一線を画していますが、ユーゲントシュティールの代表作といわれる建物のひとつです。


王宮ファサード

ミヒャエル門

スイス門


ミヒャエル門から王宮を抜け、レオポルト翼の前を通って、フォルクス庭園を散策しました。
歴史的な建物と緑が調和したウィーンの街は美しく、規模も程良く、観光地としての人気が高いこともうなずけます。



エリザベート像


市庁舎

ブルク劇場

舟田さんに予約を入れていただいたレストランはブルク劇場の中にありましたが、7時の予約時間まで30分程ありましたので、
リングを渡って、市庁舎などを見物に行きました。


市庁舎広場のサーカス・テント

トラムやバスの中からしか見ていなかったリング沿いの歴史的建物群を間近かに見ることが出来て、うれしい余禄タイムとなりました。
1872~73年にフランツ・フォン・シュミットの設計によって建てられたネオ・ゴシックの市庁舎の中央尖塔は高さ98mありますが、
その上に立つ「市庁舎の男」と呼ばれる騎士像を合せると全長107mで、
99mのヴォティーフ教会の尖塔を超えてはならないという皇帝の命は守ったという計算になっているそうです。
各種フェスティバルやマーケットが開かれる市庁舎広場には移動サーカスのテントが建っていました。



ヴォティーフ(=献納)教会

国会議事堂

アテナ女神像とピンクリボン

ブルク劇場

1853年にフランツ・ヨーゼフ帝の暗殺未遂事件が起きた時、無事に生還できた神の加護に感謝して、
弟のマクシミリアン3世の呼びかけで1856~79年に建設されたフェステル設計のネオ・ゴシックのヴォティーフ教会を遠望したり、
ギリシアの古典建築を模してテオフィル・フォン・ハンセンが建築、1883年に完成した国会議事堂前へも行ってみました。
乳がん撲滅のシンボルマークのピンクリボンが、これだけ大掛かりなキャンペーンとなっているのを初めて見ました。

程よい散歩で、程よい時間になって、ブルク劇場のレストラン「フェスティヴュール」(=入口)に到着しました。
皇帝専用のエントランス兼厩舎であった部屋をレストランにしたもので、地元セレブ達にも利用される隠れ家的なお店のようです。


    

ここでのメニューは舟田さんご推奨のウィンナーシュニッツエルと決めていましたので、ワインとサイズだけをオーダーして、
美味しいお料理とおしゃれな雰囲気を味わいながら、ウィーン最後の夜をゆっくりと過ごしました。



8時過ぎにレストランを出て、カールスプラッツまでトラムに乗って、U4でヒーツィングへ戻りました。
Kさんのドイツ語、従妹の地図ナビ、私の企画?と3人の分担がうまく運んで、楽しく過ごした半日を舟田さんに報告した後、
ゲストルームへ戻り、あっという間に過ぎた6日間を惜しみながら荷造り、11時半に消灯・・・と最終日が過ぎていきました。


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