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2024・9・12
渋谷〜大宮〜松島
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平城宮跡、太宰府跡と共に日本三大史跡と称される陸奥国府「多賀城」が創建1300年を迎えることを知り、
2017年に太宰府へご一緒した吉川夫妻を宮城旅にお誘いすると、
「行きましょう!」と即答を得て、同じく学生時代のサークル仲間の石巻在住の新妻さんも巻き込んで、
6月半ばから宮城旅計画が進められていきました。
台風、長雨など天候に不安要素のある9月半ばの旅でしたが、
猛暑日が続く東京に比べれば、まだましな夏日の中、暑さ位は我慢という天候にも味方された旅となりました。
古代ロマンをテーマの一つとした宮城旅をご一緒にどうぞ!
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9月12日の朝8時半過ぎに自宅を出発し、渋谷から湘南新宿ラインに乗って、10時前に大宮に到着、
駅構内のコンビニで買物している途中に吉川夫妻と出会い、本格的に旅がスタートしました。
大宮発10:29のはやぶさ15号の車窓に稲刈りが始まった秋景色などを見ながら1時間余り、
11:39に仙台に到着、仙石線に乗り換えて12:29に松島海岸駅に降り立ちました。
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「歓迎 日本三景 松島」という駅前看板や松の大木、色づき始めたモミジに迎えられ、
宿泊するホテル松島大観荘の12:40のシャトルバスに乗って、12:45にホテルに到着、
早めのチェックインを済ませて荷物を預けた後、1時に松島観光へ向かいました。
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松島湾に面した高台に位置するホテルから坂を下り、国道45号線まで降りると、
「大津波がたどり着いた果て、波来(はらい)の地、犠牲者への鎮魂と慰霊の思いを込め、災いをはらい、
復興支援者への敬意をはらい、永久に注意をはらい続けることを願ってここに刻む」という「波来の地」石碑や、
「東日本大震災伝承板」など、震災伝承・減災プロジェクトの設置物が3.11を語り継いでいました。
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海岸まで降りて、ホテル・サービスの遊覧船チケットを丸文松島汽船の窓口で3時の乗船券に代えてから、
地元の方に教えていただいた「さんとり茶屋」で1時半から遅めの昼食を取り、新鮮な海鮮料理を堪能しました。

三陸めかぶ丼 お刺身膳 松島あなご丼
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昼食後は先ず、近くの五大堂に立ち寄りました。
「政宗が育んだ‘伊達’な文化 瑞巌寺五大堂」と入口案内板に書かれた五大堂は、
最澄の弟子の慈覚大師円仁(794−864)が延福寺を開創した際、坂上田村麻呂に由来する毘沙門堂に、
瑞巌寺守護のために自ら彫った五大明王像を安置したことから五大堂と呼ばれるようになり、
現在の建物は伊達政宗が慶長9年(1604)に建立、宝形造、本瓦葺、十二支彫刻が施された軒周りの蟇股、
堂内に設えられた宮殿型の厨子等に‘伊達’な文化が色濃く表れている東北現存の最古の桃山建築で、
厨子内の五大明王像は33年に一度(次回は2039年)開帳されるそうです。

すかし橋 −「るるぶ」より転載
「すかし橋」は江戸時代中期の記録に見られ、透かしの構造は五大堂への参詣には
「身も心も乱れのないように脚下(あしもと)をよく照顧(みつめる)して気を引き締めさせるための配慮」だそうですが、
最近は縁結びスポットとしても評判を呼び、島内は国内外の観光客で混みあっていました。
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瑞巌寺総門 参道
3時からの松島湾クルーズまでに時間がありましたので、瑞巌寺へ行き、総門から参道へ入ると、
気持ちの良い杉並木が続いていましたが、かつてはうっそうと繁っていた樹齢100〜400年の杉並木が
3.11の震災で起きた54cmの地盤沈下による生理障害によって立ち枯れ、約300本が伐採されたそうです。
補植された杉が根付き、育っている様子を見て、過去から未来へ数百年の景観が目に浮かぶようでした。
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瑞巌寺洞窟遺跡群 西国三十三観音巡拝所
参道の東側に200mほど続く洞窟遺跡群があり、司馬遼太郎は(「街道をゆく 仙台・石巻」)
「洞窟は山の水で濡れ、黄ばんで人肌に似ている。その数が多く、しかも人工を施した跡もある。
古代の風葬の地−死体置場−でなかったかと想像したが、それらしい説明はない。」と記していますが、
瑞巌寺HPには「参道の右側にある洞窟の壁面には供養塔や五輪塔、戒名等が無数に刻まれており、
供養場として使用されていたことが窺えます。松島は古来より「奥州の高野」と呼ばれていて、
亡き人の供養が営まれた場所でもありました。現在残る最も古い供養塔は、寛永13年(1636)、
政宗公に殉死した佐藤吉信(法得紹隆禅定門)のもので、他に残る供養塔もそれ以降のものであることから、
現状となったのは江戸後期のことと推測されています。」と説明されていました。
西国三十三観音巡拝所の脇には「西国三十三観音霊場は三十三に変化し救済する観音の働きに因んで、
平安時代中期、花山院が始めたと伝えられている。
和歌山県那智の青岸渡寺を第一番、岐阜県谷汲の華厳寺を結願とする。
後、坂東及び秩父に、また、奥州・宮城・仙台など、各地に霊場が定められた。松島でも江戸時代後期に設置された。
ここに安置の石像は、昭和9年(1934)仙台の名工月田文二翁の手になるもので、
仙台・石巻・塩釜の観音講員の寄捨によって境内に安置されていた仏像である。」という案内板が立っていました。
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延命地蔵 法身(ほっしん)窟
瑞巌寺本堂がある有料区域受付所の脇に鎮座する右手に錫杖、左手に宝珠を持ったブロンズの延命地蔵像は、
飢饉時に幼児保護などに勤めた当山117世中方明哉和尚の業績や長命にあやかったと伝えられています。
近隣にはまれな巨像は文久3年(1863)に塩釜や石巻の有志によって鋳造されたそうです。
受付所左方の岩窟は鎌倉時代半ばに宋より帰国した法身性西禅師と諸国行脚中の鎌倉幕府執権・北条時頼公が
出会った場所といわれ、この出会いの後、時頼公は伽藍を整備、法身禅師を開山に迎えて臨済宗円福寺を開創し、
現在まで続く臨済宗寺院としての始まりの地となったと伝えられています。

瑞巌寺を出て、門前の土産処でずんだソフトクリームで一服した後、
3時に「あおば」号に乗船し、「松島湾内一周遊覧 島めぐり政宗コース」が出航しました。
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あおば号 五大堂
天橋立と宮島と共に日本三景の一つに数えられる松島は、
新生代第四紀最後の氷期と呼ばれる約1万9千年前には現在より100m程下に海水面がありましたが、
その後の地球温暖化で氷が溶け、約6千年前に海水面の高さが現在とほぼ同じになると共に、
地殻変動による丘陵の一部沈下によって、現在の約260の島が浮かぶ景観が誕生したと言われています。
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双子島 鐘島
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小藻根島 仁王島
2300万年前から260万年前の新生代第三紀の地層である火山灰が固まった凝灰岩と、
海底の砂がたまってできたシルト岩・砂岩でできている松島湾の島はやわらかく削られやすい特徴があり、
海水によって少しずつ削られた海食崖が湾内のほとんどの島にみられます。
そういう奇岩とマツの緑が美しい景観を造り出していますが、
松島には天然のアカマツと防災林として江戸時代から地域の人々によって植林されたクロマツの2種があり、
東日本大震災の津波によって多くのマツが流された後、防災林として新たにクロマツが植えられているそうです。
「抑(そもそも)ことふりにたれど」(松島の美は言いふるされたことだが)と、
塩釜から小舟に乗って島々をめぐった芭蕉は島々や松の姿や緑の濃さに感動し、
「あまりの心の昂ぶりのために、句も出来ねば、眠れもしなかった」と「おくのほそ道」に書き、
司馬遼太郎は「松島や ああ松島や 松島や」などという「落語の大家さんが、熊公を前にして作りそうな句」を
芭蕉作とされてはたまったものではないと「街道をゆく」で苦言を呈すると共に、
「古きよき松島よ、たじろぐな」と観光について論じています。
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海苔・ワカメの養殖 ホテル松島大観荘遠望
「名勝の多くは進行方向右側に位置する。早めに列に並び、観光船の右側の席を取ろう」と観光情報誌にありましたが、
湾内最大の旅客定員400名の「あおば」号は船内移動も自在に左右両側の景色を堪能することが出来ました。
それでも敵わなかったのは逆光という写真撮影コンディションでした。
東日本大震災の時に松島に押し寄せた10m近い津波は島々によって威力がそがれ、
町に到達した時には2mになっていて災害が軽減されたこと、寒流海苔、ワカメの養殖が盛んなことなど、
船内ガイドに耳を傾けた50分の遊覧を終えて下船した後、再び瑞巌寺へ向かいました。
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総門方面 中門方面
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中門 本堂
正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」とし、臨済宗妙心寺派に属する瑞巌寺の縁起は
入口の案内板が以下のように紹介していました。
「元禄2年5月9日(1689)塩釜から舟で松島に着いた芭蕉は、小憩ののち、瑞巌寺に参詣した。
・・・瑞巌寺に詣、当時32世の昔、真壁の平四郎出家して入党帰朝の後開山す。
其後に、雲居禅師の徳化に依て七堂甍改りて、金壁荘厳を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。
彼見仏聖の寺はいつくにやとしたはる。
「おくのほそ道」行文は簡潔に寺伝を述べ、「金壁荘厳」の大伽藍の光景を印象的に写し出している。
瑞巌寺は9世紀、慈覚大師を開基とする天台宗寺院、青竜山延福寺(松島寺)として創建され、
13世紀中葉、改めて法身を開山とし、臨済宗(建長寺派)の青竜山円福寺となったと伝えられる。
法身は、常陸国真壁郡の俗名平四郎で、卑賎の身で発憤して仏門に入り、入宋して修業し、高僧になったといわれる。
円福寺はその後妙心寺派となった。慶長10年(1605)、伊達政宗は、衰微していた円福寺の再建に着手し、
寺号を松島青竜山瑞巌円福禅寺(松島山瑞巌寺とも)と改め、4年を費して大伽藍を完成した。
建築は全体として禅刹の風格を保ち、内部に極彩色の彫刻や金碧画の襖などを収め、桃山芸術の粋をつくしている。
本堂・庫裡・回廊は、国宝に指定されている。
雲居は瑞巌寺中興と言われる高僧で、正宗の招請を受け、伊達忠宗のとき、同寺94世を嗣いだ、
芭蕉参禅の仏頂の師でもある。」
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庫裡
庫裡は寺院で主として台所の役割を担い、「庫裏」とも表記される実用本位の建物であるため、
装飾が施される例は余りありませんが、正面13.8m、奥行23.6m、堂々とした外観を持つ瑞巌寺の庫裡は、
切妻造の本瓦葺、大屋根の上の入母屋造の煙出し、正面上部の複雑に組み上げられた梁と束、
漆喰上の妻飾の豪壮な唐草彫刻など類をみない美しさによって、昭和34年(1959)に国宝に指定されています。
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本堂 御成玄関

室中(孔雀の間) −瑞巌寺HPより借用
政宗創建の本堂は5年の歳月をかけて慶長14年(1609)に完成、昭和28年(1953)に国宝指定を受けています。
正面38m、奥行24.2m、棟高17.3m、入母屋造の本瓦葺で、室中(孔雀の間)・仏間・文王の間・
上段の間・上々段の間・鷹の間・松の間・菊の間・墨絵の間・羅漢の間の10室から成る大規模な建物で、
各室は部屋の使用目的にふさわしいテーマに沿って描かれた絵画や彫刻で装飾されています。
墨絵の間以外の障壁画は昭和60年(1985)から制作が開始された精巧な復元模写の建て込みですが、
豪華絢爛な装飾が端正な外観と違和感なく並立している所に、「一見にしかず」を実感させられたひと時でした。
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非公開区域の茶室や書院
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円通院 水主町(かこまち)の民家
4時半過ぎに瑞巌寺を出て向かった伊達政宗の孫・光宗の霊廟「円通院」は拝観時間が終了していたため、
そのまま帰路に着くことにして、松島海岸駅へ向かいましたが、
実は瑞巌寺の庫裡でスリッパから靴に履き替えようとした時、靴に付けていたプラスチック・ナンバー札の
片割れが見つからず、係員のおじさんからお目こぼしをいただいたのですが、
円通院を過ぎた頃、ズボン・ポケットの底に札を発見し、一人で走って、瑞巌寺受付所まで返却に戻りました。
その帰り道の拾い物が、「水主町の民家」でした。
瑞巌寺東側に隣接した水主町は仙台藩主などが松島遊覧する際の御座船を操った水主衆が集団で住んでいた町で、
瑞巌寺造営当時は地元や和歌山・静岡・愛媛などから雇用された人々の住居が最大48軒立ち並んだそうです。
茅葺・寄棟造りの屋根、表通りに面して出格子と蔀戸(しとみど)、天井板は貼らない、敷地出入口には冠木門など、
住居の様式や建て方に藩の規定があった民家の最後に残った1棟が昭和51年に移築・復元されていました。
先を行く3人に追いつき、松島海岸駅まで歩き、17:10のシャトルバスでホテルへ戻りました。
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17:15にホテルに着き、案内された4階の部屋は素晴らしいオーシャンビューでした。

部屋でシャワーを浴びたり、ひと休みしてから、チェックイン時に予約しておいた6時半から、
1階のレストラン「ラ・セレーヌ」で和洋中バイキングの夕食を取りました。
*1日目歩数(スマホ計測):13306歩
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