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2024・9・13
松島~石巻~登米~涌谷~松島
                           

朝5時過ぎに目を覚ますと雲間から太陽が顔を出し始めていて、松島湾の日の出をゆっくりと堪能することができました。

  
ヒヨドリジョウゴ                     カリン

  

朝食が始まる6:45より少し早く、昨夜と同じレストランへ行くとまだ受付が始まっていませんでしたので、
庭を散歩し、戻った所で吉川夫妻と落ち合い、窓際の席で和洋中を取り混ぜた朝食をゆっくりといただきました。


ホテル発8:00のシャトルバスで松島海岸駅へ行き、JR仙石線8:14の電車で石巻へ行く予定でしたが、
松島海岸駅へ着いた時、待っていたのは車両故障による遅延というニュースでした。
東日本大震災発生時に野蒜(のびる)駅下り600m地点で緊急停車した列車が元消防団員の乗客の意見を受入れ、
孤立しながらも一晩車内に待機し、乗客乗員全員が無事だったという「奇跡の列車」で有名な仙石線は、
首都圏からの中古車両での運用が多く、遅延が少なくないらしく、クレームをつける怒声が聞こえましたが、
待合い椅子に座っていた2人の女性の話では、その怒声の主は新しく引っ越して来た人で、
松島の人達は思いやり、譲り合いで3.11を乗り越えて来た、とのことでした。

  
ホタテパウダー用貝殻?

防潮堤が設置された湾岸景観や除塩によって復興したと思われる稲田、大量のホタテ貝殻などを車窓に、
35分遅れて、9時半少し前に石巻駅に到着しました。

石巻駅

石巻駅改札口で新妻さんの出迎えを受け、駅前のイオンで飲み物を入手してから、石巻と県北歴史旅がスタート、
ガイド&ドライバーを引き受けて下さった新妻さんに多謝の一語です。
先ず最初にご案内いただいたのは日和山でした。


「江戸期、どの湊にも日和山があった。山頂にのぼり、はるかに海をながめ、また雲の色や風の動きを見たりして、
いわゆる観天望気をするのである。その結果、よいとみれば船を出す。
この日和見こそ、航海の基礎だった。日和見をする専門家が地元にいて、船から金をもらって、天気を教えることもあり、
また船頭自身が登ることも多かった。」 (司馬遼太郎「街道をゆく」)
 

「全国には約80カ所の日和山があり、江戸時代千石船の出航の日和を見る場所や航路目標の重要な山だったと考えられています。
石巻の日和山東南の中腹に「マネキ」(航路を指示する場所)という通称名があったことからも、
江戸時代に栄えた船運と深い関わりがあると推測されます
この日和山は高さ54mの北上川河口に位置する洪積段丘の孤立丘で、
武神を祭る牡鹿十座の一つ鹿嶋御児神社(窪木家・旧県社)がその頂上に建立され、
元来は5月15日が祭礼の日となっています。
社伝によれば、宝亀11年(780)12月陸奥鎮守副将軍・百王俊哲の奏上が鎮座の起源と伝えられ、
中世には奥州総奉行葛西氏の城「石巻城」があったと考えられています。
文禄2年(1593)政宗朝鮮出兵の際、水軍指揮の功績のあった阿部十郎兵衛土佐の奉納した軍配団扇が
現在でも同社に残されています。」  (石巻観光協会HP)


鹿嶋御児神社

日和山山頂に坐する鹿嶋御児神社は武甕槌命(たけみかづち)と鹿島天足別命(あまたりわけ)の親子二柱を武神とし、
「往古関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命をうけて海路奥州へ下向し
東夷の征伐と辺土開拓の経営に当たることになり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着碇舶して錨を操作した際、
石を巻きあげたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。
石巻に上陸された両御子は先住蛮族地帯であった奥州に於ける最初の史跡を印した大和民族の大先達であり、
開拓の先駆者として偉大な勲績を残された地方開発の祖神であります。」と神社創建の由来縁起にありました。

高さ6.2mの大鳥居は、昭和10年に建立されて、戦前の街並み、戦後の復興など石巻の様々な変化を見てきた
以前の大鳥居の老朽化が進んだため、クラウドファンディングなども得て、令和3年(2021)12月に再建されたものです。


旧北上川河口部に位置する石巻市は東日本大震災被災自治体の中、最も甚大な被害を受け、
市面積の13.2%に相当する7300haが津波で浸水、市の中心部がほぼ全域浸水し、
T.P.(東京湾平均海面)+8.4mの津波痕跡が確認されたそうです。
震災前はほとんど堤防がなかった旧北上川の堤防整備が進み、復旧・復興が進んだ石巻市市街地を、
3.11に多くの市民が避難した「命の山」日和山山頂から展望しました。

震災前の写真と現在の様子

「石巻南浜津波復興祈念公園」

「東日本大震災で犠牲になられたすべての生命(いのち)に対する追悼と鎮魂の場となるとともに、
東日本大震災の記憶と教訓を後世に伝える拠点となり、
さらには、かつて市街地であった場所に公園の整備を通じて人々が係わり、
人と人との絆、つながりを築いていくことにより、東日本大震災からの復興の象徴となるものである。」という理念により、
宮城県と石巻市が整備し、国が国営追悼、祈念施設を設置した石巻南浜津波復興祈念公園も遠望することができました。



中瀬公園遠望

石ノ森萬画館や旧石巻ハリスト正教会教会堂のある中瀬公園を遠望した後、
日和山を下っていくと、著名人銅像や歌人や文学者など多くの歌碑がありました。


川村孫兵衛像                                   芭蕉と曾良像

「奥州の不毛の地を沃野にしたい」という伊達政宗の夢を実現させ、北上川を南流させる新河道をつけ、
城下町の土木、貞山堀の設計と開削、さらには仙台領内に金山、銀山を発見したという川村孫兵衛は
仙台藩史に欠くことのできない重要人物の一人です。
平成元年(1989)に「おくのほそ道紀行三百年記念」に建てられた芭蕉と曾良像もありました。
二人は松島の瑞巌寺に詣でたあと、平泉へ向かおうとして道を間違え、猟師みちに入ってしまい、迷ううちに、
「石の巻といふ湊に出(いず)」でしたが、曾良の旅日記によると石巻行きは予定に入っていたようです。
「雲折々人を休めるつきみかな」 松尾芭蕉

    
木俣修                      石川啄木                      新田次郎

「大漁の旗あぐる船より呼ぶこゑにこたふる如して海鳴りの音」 木俣修
「砕けてはまたかへしくる大波のゆくらゆくらに胸おどる洋」 石川啄木
「北上川の盡きるところのかすみにはなおとまどいの青き波かな」 新田次郎

    
ヒヨドリバナ                     センニンソウ                      ハマナス

歌碑や道路わきの花を見ながら、日和山を下り、市街地の駐車場に車を止めて、
日和山から遠望した中瀬公園の宇宙船を模した白い建物の「石ノ森萬画館」へ入りました。


石ノ森萬画館
 

仮面ライダーやサイボーグ009などで知られる漫画家・石ノ森章太郎の貴重な原画や作品の世界を
立体的に再現した展示やアトラクション、オリジナルアニメなど石ノ森ワールド満喫のミュージアムと謳われる石ノ森萬画館は、
平成10年(1998)に60歳で石ノ森章太郎が逝去された後、平成13年(2001)に開館しています。


そんな石ノ森ワールドですが、あいにく、石ノ森漫画に親しんで来なかった私の目が最も引かれたのは「トキワ荘」の模型で、
昭和な佇まいにそこはかとない郷愁を感じました。

旧石巻ハリスト正教会教会堂

石ノ森萬画館を出て、ほど近くの旧石巻ハリスト正教会教会堂へ行きました。
旧石巻ハリスト正教会教会堂は日本最古の木造教会堂で、明治13年(1880)に現・千石町に建てられましたが、
昭和53年(1978)の宮城県沖地震により大きな被害を受けたため、中瀬公園へ移築、復元された後、
平成23年(2011)の東日本大震災で再び被災、2度も大きな自然災害に遭いながらも、
貴重な建物を後世に伝えたいという市民の声で、再び復元された石巻市指定文化財です。
総瓦葺き2階建て、上空から見ると十字架の形をしたビザンチン様式と和様式をミックスした擬洋風建築で、
正面外壁にハリスト正教会特有の「瓢(ふくべ)十字架」が付設されています。


升壇とイコノスタシス(聖障)

平成29年(2017)に復元工事着工、翌年竣工した教会堂は、現在は信仰の場として使われていませんので、
普通には入ることが出来ないイコノスタシス(聖障)で仕切られた至聖所を見学することもできました。
写真複製のイコンが聖障に飾られていました。

    
堂内に展示されていた被災当時の写真

大津波にも耐え、辛うじて躯体を残した教会堂の姿は、復興のシンボルとして市民の心の支えになったと言われます。


 
中瀬公園を出て、西中瀬橋を渡り、令和3年(2021)に完成した旧北上川の堤防景観を眺めながら駐車場へ戻りました。
復興を機に産業利用から市民の憩いの場へと変化した水辺の新たな公共空間「かわまちオープンパー ク」は、
水防災だけではなく、市民の集いの場として、様々に利用されているようです。


北上川・運河交流館

石巻を離れる前に、もう一か所、北上川・運河交流館と石井閘門(こうもん)に立ち寄りました。
北上川と北北上運河の接点近くの隈研吾設計「水の洞窟」の愛称を持つ運河交流館は、
1999年7月にオープン、地階に展示スペース、1階に展望・交流スペースを持つ半地下式2階建ての施設で、
 東日本大震災で建物や設備が損壊した後、休館が続いていましたが、
北上川の堤防整備のめどがつき、隣接する石井閘門の補修、石井水門の整備が終了したことから、
展示施設やトイレなど一部施設をリニューアルして、平成4年(2022)4月に11年振りに再開、
運河と生活の関りなどを学んだり、市民の交流の場とする施設です。

  
石井閘門


石井閘門は北上川と野蒜築港を結ぶ北上運河の入口に明治11年から13年(1878~1880)の工期で造られた
日本最古のレンガ造り西洋式閘門で、可動ゲートを持つ閘門としても日本最古のものです。
もとは木製であったゲートは昭和41年(1966)鋼製に更新されましたが、閘門本体は建造当時のままに、
北上川、北上運河のシンボルとして保存され、平成14年(2002)に近代土木遺産として国重要文化財の指定を受けています。

北北上運河                                      旧北上川 

石巻の次に向かったのは、「おくのほそ道」と同じく、宮城県北東部の登米市登米町(とめし・とよままち)で、
町の中央を北上川が流れ、東に北上山地、西に田園地帯が広がる「みやぎの明治村」と称される歴史の町です。
「仙台伊達藩の一門として、13代約300年にわたり、2万1千石の城下町であった歴代の当主は、
北上川の川筋を変えるなど数多くの事業を興し、民生の安定に努め、
明治維新後は北上川を利用した舟運による米穀の集散地として繁栄。
廃藩置県により登米県・水沢県の県庁所在地になったが、その後宮城県に統合された。
明治6年、寺池村・日野渡村・日根牛村を合わせて登米村が構成され、
また明治22年町制施行によって登米町が発足。」と「とよま振興公社」HPに町史の説明がありました。


とよま観光物産センター「遠山之里」

  
「あぶらふ丼」                       油麩  

12時40分頃、登米に到着、「遠山之里」のお食事処「蔵・ら~」で郷土料理の「油麩(あぶらふ)丼」の昼食をいただきました。
油麩は宮城県北部と岩手県南部で食されてきた油で揚げた麩のことで、肉が苦手な人のために考案されたメニューですが、
精進料理にルーツをもつ高タンパクな食材で、近年、ベジタリアン料理、マクロビオティック食で注目されているそうです。
だし汁を吸った油麩とねぎに半熟の卵がからんだ味わいは、かつ丼に引けを取らない美味しさでした。

教育資料館

昼食後は隣接する「教育資料館」見学に行きました。
教育資料館は明治21年(1888)10月に建てられた旧登米高等尋常小学校の校舎で、
当時の洋風学校建築を代表する建物として、昭和56年(1981)に国の重要文化財の指定を受けています。


木造二階建て、素木造、正面に向かってコの字型に建てられ、正面校舎中央に突き出すバルコニー式の玄関、
両翼校舎の先端に平屋造り半六角形の昇降口があり、教室の前面には欄干をもつ吹抜けの廊下という
明治の学校建築の特色を残した建築面積841.7㎡の校舎は、
日本の建築関係者の中で最初にヨーロッパへ渡り、洋風建築を学んだ宮城県技手、山添喜三郎の設計・監督によるものです。
堂々とした大きな木造建築は、歴史の重みを伝えるに充分な風格と存在感を見せていました。



館内には明治以後の教育史、各時代の教科書・教材・器具の展示、昭和48年まで使用された教室の再現教室などがあり、
明治へタイムスリップし、昭和を懐かしんだひと時を過ごしました。


旧水沢県庁庁舎

    

教育資料館を出て次に立ち寄った旧水沢県庁庁舎は、明治4年(1871)に建てられた県内の官公所建築を代表する建物で、
小学校や裁判所としても使われたことのある市指定重要文化財です。


「戊辰戦争(明治元年1868-1869)で政府軍に敗れた仙台藩は領地を没収され、
更に明治2年(1869)に版籍奉還の命令が出され、仙台藩は分割になり、藩から返還された地域は「県」と呼ばれることになった。
更に明治4年(1871)に廃藩置県が布告され、明治9年(1876)に現在の宮城県の県域が成立するまで
何度も県の整理統合が行われ、県域が変更された。
その中で現在の宮城県の北部と岩手県の南部を管轄する地域を「登米県」と称した明治4年(1871)、
本町に登米県庁舎が設置されることになり、7月に上棟式が行われた。
そして、翌明治5年(1872)水沢県庁舎として落成し、明治8年(1875)まで使用された。
建物の玄関は堂々たる入母屋造の屋根をかけ、破風には狐格子を付した純粋な日本建築となっているが、
本棟は、洋風な木造平屋建てとなっており、県内官公衙建築を代表する貴重な日本独自の洋風建築と言える。
平成元年からの保存修理では、建設当時の資料が不足していたため、
登米区裁判所の前身である「石巻治安裁判所登米出張所」として使用された明治22年(1889)当時の資料を元に復元され、
平成3年(1991)に宮城県の誕生経緯や裁判所当時の資料を展示した「水沢県庁記念館」として一般に公開されている。」
                     「とよま振興公社」HPより

冠木門をはじめ、藩政時代の雰囲気のある佇まいは印象に残っていますが、
ほとんど来場者がなく、暇そうだった受付おじさんの延々と続いた説明は、多分、上記のようなものだったと思われます。
その時は耳を素通りしたお詫びに?記録を残しておくことにしました。


武家屋敷通り

水沢県庁記念館を出て、風情ある武家屋敷通りを南へ行った所に登米懐古館がありました。

登米懐古館

昭和36年(1961)に開館した登米懐古館は、令和元年(2019)9月に隈研吾設計で現在地に移転新築、
街並みと調和した登米町産天然スレート葺きの屋根と日本庭園がマッチして、落ち着いた佇まいを見せていました。
武家文化を伝える武具や刀剣、資料を数多く保存する資料館で、
登米伊達家ゆかりの甲冑「鉄黒漆塗五枚胴具足」、伊達政宗筆古歌「咲く時ハ」、「登米城下絵図」など常設展示を観覧しました。

警察資料館

登米の最後に立ち寄った警察資料館(旧登米警察署庁舎)は、明治20年(1887)に佐沼警察署登米分署から
登米警察署に昇格したことに伴って、明治22年(1889)に建設された新庁舎で、
設計監督は旧登米高等尋常小学校(現:教育資料館)と同じく山添喜三郎によるものです。
昭和63年(1988)に県指定重要文化財に指定されています。


留置場

昭和43年(1968)に登米警察署新庁舎の落成に伴い警察署庁舎としての役割を終えた後、商工会が使用、
昭和61年(1986)に商工会が移転し、開始された復元工事工事途中に建設当時の留置場の基礎が発見され、
本庁舎と併せて全国でも珍しい明治の留置場が付設され、
署長室、取調室や試乗できるパトカーなど日本唯一の警察関係資料を展示した「警察資料館」は
昭和62年(1987)に公開、昭和63年(1988)に県指定重要文化財に指定されています。

わくや万葉の里 天平ろまん館

2時40分に登米を出発して、3時20分頃、涌谷に到着しました。
天平21年(749)春、東大寺の大仏鋳造の完成が近付いた頃、銅造の仏体を鍍金する金が足りず、
「黄金はこの国にはないものと思っていたところ、陸奥国の国守である百済王慶敬福(くだらのこにきし)が、
管内の小田郡に黄金が出ましたと申し献上してきました」と平安初期の続日本紀に記され、
届いた黄金900両(推定13kg)を国内最初の産金として喜び、祝福した聖武天皇は、
年号を天平感宝と改め、大赦や叙位、税の免除など矢継ぎばやに宣命を発したと伝えられます。

その後、砂金の産地は宮城から岩手に広がる北上山地へ移り、平泉に奥州藤原氏による黄金文化が花開き、
(マルコポーロが13C末に「東方見聞録」に著した黄金の国ジパングの「黄金宮殿」は平泉の金色堂とされます。)
始まりの地の涌谷は忘れ去られていましたが、江戸時代の国学者・沖安海(やすみ)が黄金山神社を発見、
その後の調査や研究で国内最初の産金地と認められ、
昭和42年(1967)に黄金山産金遺跡として、涌谷町は国史跡の指定を受けました。

涌谷町をはじめ、平泉町、陸前高田市、気仙沼市、南三陸町の5市町は、
「みちのくGOLD浪漫-黄金の国ジパング、産金はじまりの地をたどる」の取組みが2019年に日本遺産に認定され、
2022年には金華山を有する石巻市も追加認定を受けています。

    


大仏開眼供養記図 -平山郁夫(陶板画)

  

    

今年、開館30周年を迎えるという「天平ろまん館」の歴史館で、産金の歴史を伝える展示品を見学しました。
昭和32年(1957)の発掘調査で、黄金山神社社殿および後方の玉垣附近から土を版築した基壇跡や根石群、
社東脇の斜面から古代の瓦や土器が数多く発見され、これによって黄金山神社のある場所は、
天平産金に深く関連した古代の仏堂が一棟建てられていたことが明確となったと言われ、
発掘された六葉重弁蓮華文軒丸瓦や偏行唐草文軒平瓦が多賀城や陸奥国分寺に用いられた瓦と良く似ていることから、
産金遺跡の建物は古代陸奥国が建てたものと考えられています。


天平ろまん館を出て、整備された黄金山産金遺跡の参道を黄金山神社へ進む途中に、越中国守の大伴家持が
聖武天皇の詔に応じて詠んだ「天皇の御代をたたえ産金を祝う歌」(万葉集 巻18)の歌碑がありました。
「すめろきの みよさかえむとあずまなる みちのくやまに くがねはなさく」

延喜式内 黄金山神社

黄金山神社の名前の初出は「小田郡一座」の官社として10C初めの「延喜式」に載せられたものですが、
天平の産金当時に既に神社は存在し、産金の功労者として「金を出せる山」の神を祀る神主も叙位されたそうです。
現在の黄金山神社の拝殿は奈良時代の仏堂前方に天保8年(1837)に建てられたものです。


黄金山神社境内には山田孝雄揮毫による日本北限の万葉文字の古色を帯びた万葉歌碑もありました。
「須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知能久夜麻爾 金花佐久」
(すめろきの みよさかえむとあずまなる みちのくやまに くがねはなさく)


4時過ぎに涌谷を出発し、新妻さんに松島まで送っていただいて、5時にホテル松島大観荘に帰着しました。
部屋に入ると、松島湾の素晴らしい夕映え景色の出迎えがありました。

  

遠出の一日で夕食は7時半に予約していましたので、ゆっくりと部屋で休憩(吉川夫妻は大浴場を満喫)し、
この夜も和洋中バイキングをいただきましたが、和洋中てんこ盛りのデザートが旅のハイテンションを表しているようです。


                        *2日目歩数(スマホ計測):12294歩

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