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2025・11・2
桜井(山田寺跡)~長谷寺~宇陀松山~宮滝~上北山

「ホテル奈良さくらいの郷」周辺の景色
「ホテル奈良さくらいの郷」 エントランスホール カフェ・レストラン -ホテルHP写真-

宿泊した「なら食と農の魅力創造国際大学校附属セミナーハウス/ホテル奈良さくらいの郷」は、
新規就農希望者、青年農業者の育成、農業従事者の技術向上を目的に
1971年(昭和46)に開校した奈良県農業大学校を前身として、
高度な農業技術と農業経営を主軸とした「農業の担い手」を育成する「アグリマネジメント学科」と
農業・農産物に関する知識を持った「食の担い手(料理人等)」を育成する「フードクリエイティブ学科」を新設して、
2016年(平成28)に開設された農業及び調理に関する奈良県立大学校(通称:NAFIC)の施設です。
フードクリエイティブ学科には宿泊ができるレストラン・オーベルジュ(オーベルジュ・ド・ぷれざんす 桜井)を設置、
オーベルジュでの実地研修をカリキュラムに組み込んでいることを大きな特徴とし、
運営を民間(株式会社ひらまつ)に指定管理方式で委託していましたが、
奈良県との契約期間満了のため、2025年(令和7)2月10日をもって営業を終了した後、
同年4月24日に「AUBERGE de SENVIE(オーベルジュ・ドゥ・サンヴィ)」としてリニューアルオープンしています。
(エントランスホールから見える左手の黒い建物がオーベルジュ棟)
私達が泊ったのはセミナーハウス内のシェアールーム棟「ホテル奈良さくらいの郷」で、
オーベルジュに比べると簡素ですが、県内木材(スギ・ヒノキ)を使った建物や内装が周りの里山の自然とマッチし、
シンプルで心地のよい時間を過ごすことができました。

朝食時間の少し前にロビーに降り、旅前から朝散歩の候補としていた「山田寺跡」への道を
フロントで聞こうと思ったのですが、スタッフの姿が見えず、I 添乗員さんにGoogle地図を確認していただいた結果、
分かりにくい田舎道を片道25分かけて行くのは無理という結論になり、半ば諦めて、
7時からテーブルに並べられた朝食をいただきました。


大和食材の朝食

7時半に朝食を終えた後、近隣散歩に出かけると、坂を少し降りた所に迎車タクシーが止まっていて、
念のために山田寺跡への道を尋ねた所、ほぼ1本道であることが分かりましたが、
時間的に無理・・・と思っていたら、「往きだけなら送って行ってもいいよ」と有難い申し出を受け、
諦めていた山田寺跡行きを敢行することにしました。
(タクシーはオーベルジュ泊の夏川りみさんのお迎えとのことでした。)


という次第で、「いわれみち」沿いの山田寺跡に7時38分に到着という幸運に恵まれた朝となりました。
いわれ(磐余)は奈良盆地の東南端に位置する奈良県桜井市の西部地域を指した古代の地名で、
「磐余の道」は上ツ道と横大路の交差点から安倍丘陵に沿って南西に斜交し、飛鳥へ至る古代の幹線道路です。
5世紀から6世紀にかけての大和政権の政治の中心地であったこの地には、
履中天皇の磐余稚桜(いわれ わかざくら)宮、清寧天皇の磐余甕栗(いわれ みかくり)宮、
継体天皇の磐余玉穂(いわれ たまほ)宮、用明天皇の磐余池辺双槻(いわれ いけべ なみつき)宮、
四天皇の宮都があったといわれています。


「特別史跡 山田寺跡」

「山田寺は、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が発願した、飛鳥時代を代表する寺院の一つです。
記録によれば、六四一年に着工し、二年後には金堂が完成したものの、
六四九年に石川麻呂が政争で自殺したため造営は中断しました。
その後、本格的に造営が再開され、六七六年に塔が完成、六八五年には、
現在、興福寺に仏頭が残る講堂の本尊丈六仏の開眼供養が行われました。
一九七六~九六年の発掘調査では、東西一一八m、南北一八五mの寺域に、南門・中門・塔・金堂・講堂が
南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置であることが明らかになりました。
また、東面回廊が倒壊したままの状態で見つかるなど、飛鳥時代の建築様式を知る上で貴重な発見が相次ぎました。」
という文化庁の大きな説明石板が史跡入口に建っていました。
伽藍配置や、遺物、礎石、出土品などにみられる高度な技術は、大陸及び朝鮮半島からの影響が見られ、
当時の海外交流を考える上でも重要な史跡とされています。

    
宝蔵                        東面回廊                      金堂と礼拝石

「四個四列に並んだ礎石、高床の蔵、経軸や仏具などが出土した宝蔵」、
「建物全体が屋根瓦もろとも西向きに倒れた状態で発掘され、
蓮弁を彫刻した礎石や基壇の縁石がほぼ完全に残り、南北二十三間八十六.九m、基壇軸六.四mの規模で、
柱や連子窓など多くの建築部材の表面に白土を塗った壁土も残り、
保存処理をほどこしたうえ元のかたちに組み上げられた東面回廊は飛鳥資料館に展示され、
現存最古の木造建築物とされる法隆寺よりも約50年遡る古代の建築技術を知る重要な資料となっています。」
「発掘調査をする前から塔の北にあったと考えられていた金堂は建物の基壇や礎石が地上に残っており、
発掘の結果、基壇は、東西二十一・六m、南北十八・四m、高さ約二mの規模で、
周囲には板石を敷き詰めた犬走がめぐっていたことがわかり、さらに、塔と金堂を結ぶ参道の中ほどで
石灯篭の台石、南面中央の犬走に接して東西二・四m南北一・二mの礼拝石と考えられる板石も見つかった」、
といった発掘現場に設置された古寂びた石造りが史蹟にマッチした説明と写真を見ながら、
一族8名が自害したとはいえ、後に持統、元明、元正と女帝を輩出した蘇我倉山田の家系に思いを馳せました。


石碑 「史蹟山田寺阯」 現在の山田寺観音堂

塔があった場所に立てられた石碑「史蹟山田寺阯」、1892年(明治25)に建造された山田寺観音堂脇の
石川麻呂の末裔とされる山田重貞によって1841年(天保11)に建立された「雪冤(せつえん)の碑」、
きれいに草刈り整備された広い史蹟に残る回廊礎石、基壇などを、急ぎ足で見て回りました。


2024年(令和6)9月9日に国の文化審議会世界文化遺産部会において「飛鳥・藤原の宮都」が
ユネスコ世界文化遺産推薦候補に正式決定、今年度、正式な推薦書をユネスコ世界遺産委員会へ提出し、
来年2026年に世界遺産に登録されることを目標としていますが、
明日香村と隣接した桜井市から唯一構成資産の一つとされている山田寺史跡の
これからの決定のゆくえを見守りたいと思います。


7時55分頃、山田寺史跡を出て、県道15号桜井明日香吉野線へ戻り、
「ホテル奈良さくらいの郷 0.7km」と標識が出てきた所で右折、前方にNAFICの建物群が見えて来た時は、
「大丈夫、間に合う!」と心からほっとした思いでした。

    
ムラサキエノコログサ              ヤノネボンテンカ                 セイタカアワダチソウ

車道脇に様々な外来植物が見られましたが、昨夜、部屋の浴室に置かれていた「奥大和薬草入浴剤」の原材料の
「奈良の薬草4種類:大和当帰・レモングラス・アップルミント・セイタカアワダチソウ」という表記に驚きました。
都内で在来植物の保全に関わっている者にとって違和感があっても、
古来、「外来文化」に馴染んで来た土地柄の寛容さ、大らかさというものでしょうか・・・?

  

セミナーハウス棟の下へ到着した時に確認した時刻は8時15分、部屋へ戻りゆっくりと出発支度をして、
9時にロビーに集合し、国道165号線を長谷寺へ向かったバスは30分ほどで長谷寺駐車場に到着しました。

    
1889年(明治12)に再建された三間一戸入母屋造本瓦葺の楼門(仁王門)

登廊(のぼりろう)

仁王門をくぐった先には1039年(長暦3)に春日大社の社司・中臣信清が子の病気平癒のお礼に造ったと伝わる
百八間、三九九段の登廊が続いていました。
長谷型燈籠が吊るされ、上中下の三廊に分かれている登廊の下・中廊は1889年(明治22)に再建されたものです。
左写真右手に見えるのは、現在五重塔が建ち、本長谷寺と呼ぶ初瀬山の西の岡に、686年(朱鳥元年)に
天武天皇のために「銅板法華説相図」を安置し、長谷寺開基の一人とされる飛鳥川原寺の道明上人の御廟塔です。


昨日から「399段」と脅されていた階段は蹴上の高さが低めでしたし、
途中で長谷寺六坊の一つ、清浄院跡地に建つ宗宝蔵(しゅうほうどう)で春と秋に公開される
国宝・重要文化財などの宝物を拝観する寄り道がありましたので、難なく上りきることができました。

菊回廊 紀貫之 故里の梅

菊回廊や幼少期に長谷寺で暮らしたことがあるという紀貫之が
「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける」と詠った「故里の梅」と伝承される古木が、
「花の御寺(みてら)」と称される所以を語っているようでした。


懸造(舞台造)の本堂南面
鐘楼(尾上の鐘)

小初瀬山中腹の断崖絶壁に懸造りされた本堂の南面や、
明け(午前6時)の鐘に始まり、12時には鐘とほら貝、夜8時のほら貝で今も時を知らせる鐘楼を見た後、
「大観音特別拝観」期間の本堂内に入り、本尊十一面観世音菩薩立像と対面することができました。

  
本尊十一面観世音菩薩立像(長谷寺HP、由緒より写真借用)

727年(神亀4)に聖武天皇の勅願により僧徳道が現在本堂がある東の岡に十一面観音を祀って寺観を整え、
この頃より観音信仰が高まり、特に女人たちの初瀬詣がさかんになり、
また伊勢路への参詣路に位置するため、伊勢参りの前に長谷寺を訪れる旅人が多くなったと言われています。
左脇侍に雨宝童子立像、右脇侍に難陀龍王立像を従えた現在の三丈三尺(約10m)を超える本尊は
1538年(天文7)に再興された8代目で、国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大、
右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に華瓶(けびょう)を持つ観音は長谷寺式十一面観音と呼ばれています。
真下に立つと巨大さに圧倒される観音様の右脚に触れ、翌日の大台ケ原ハイキングの無事を祈りました。

本堂「大悲閣」 懸造舞台

小初瀬山中腹の断崖絶壁に懸造りされた本堂の正面(内陣)は桁行(間口)九間、梁間(奥行)五間、
入母屋造本瓦葺で、礼堂(外陣)は正堂よりやや低く、桁行九間、梁間四間、正面入母屋造本瓦葺、
正堂(内陣)と礼堂(外陣)をひとつにした双堂と呼ぶ様式で、間に石敷の土間(拝所)が設けられています。
現在の本堂は1650年(慶安3)に徳川家光の寄進によって再建されたもので、
徳川幕府による代表的な寺院本堂、観音信仰の中心的な役割を果たした重要な建築として、
2004年(平成16)12月に国宝の指定を受けています。

創建当時の長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺でしたが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となった後、
1588年(天正16)に豊臣秀吉により根来寺を追われた新義真言宗門徒が入山し、
同派の僧正専誉によって真言宗豊山派が成立、真言宗豊山派の総本山となり、
西国三十三カ所観音霊場第八番札所としても親しまれてきました。

懸造舞台の右上に見える素屋根に覆われた建物は1954年(昭和29)に建立された五重塔で、
来年開山1300年を迎える記念事業の一環として、大修復が行われています。
檜皮葺の五重宝塔は長谷寺を含め、現存するのは4塔のみ、完成予定の令和10年が待たれます。

舞台から見た愛宕山の雄大な景色と長谷寺の建物群
階段下に開山堂 大黒堂


本堂を遠望するビューポイントで、長谷寺勝尾庵で崩御した北朝・光明法王に因む御所桜(見事な枝垂桜!)の話を
ボランティアガイドさんから聞いた後、11時10分頃長谷寺を後にして、
20分ほどバスに乗り、11時半に到着した宇陀松山の今阪屋で「薬草御膳」の昼食をいただきました。

    

自家製梅酒の食前酒に始まり、胡麻豆腐、大和当帰、さんざし、きゃら蕗、長芋などの前菜、炊き合わせ、
吉野本葛刺身など続いた薬草料理に唯一、動物性食材としてブリの香草焼きが供されました。
銀杏ご飯、ジュンサイと松茸のお吸い物も結構でしたが、分量は身体に優しいというより、重めの感もありました。


1時前にまち歩きへ出発しようとした時、ぽつぽつと雨が落ち、ほとんどの人は傘をバスへ置いてきていた為、
今阪屋でビニール傘を借りた後、ボランティアガイドさんの案内で、
重伝建(重要伝統的建造物保存地区)の宇陀松山まち歩きに向かいました。

宇陀松山地区は戦国期に在地領主であった秋山氏の居城と城下集落として誕生、
織豊期から江戸時代初頭にかけて、豊臣家配下の大名によって大規模に整備された後、
宇陀松山城破却後も、織田家松山藩の治世を経て幕府領へと移り変わっていく中で、
商家町として「松山千軒」「宇陀千軒」と称される繁栄をみせ、
また、薬の町としての側面も持ち、江戸時代後期には50軒を超える薬種問屋があり、
そのような歴史を紡いで来た町並みを残すことから2006年(平成18)に重伝建地区の選定を受けています。


「袖うだつ」 万法寺

妻壁を屋根より高く突き出し小屋根をつけた一般的な「本うだつ」と違い、庇の両脇に袖壁をつけた「袖うだつ」、
「台格子」「千本格子」などと呼ばれる多様で繊細な格子、虫籠(むしこ)窓とよばれる2階の漆喰窓など、
町屋を象徴する意匠の数々について説明を受けましたが、
建物の間口の広さによって課される税を免除して、有力な商人を誘致したため、
間口も奥行きも広いこの地区独特の町家が生れたと言う説も納得の町並みでした。

大宇陀町歴史文化館「薬の館」

そのような町屋を代表するのが唐破風付き「天壽丸」の看板が目立つ江戸末期に建てられた薬問屋の細川家で、
現在は改修されて歴史文化館として公開されています。



細川家は藤沢薬品工業を創業した藤澤友吉の母方の実家で、藤沢薬品の史料や東京支店に掲げていた鍾馗の大看板、
その他、町の薬にまつわる文化や歴史を紹介する資料、薬業関連の看板や道具が数多く展示されていました。


薬草が収められた薬箱の前で文化館職員の方から説明を受けていた1時15分過ぎにスマホの着信音が2つ、3つ、
こっそりとライン確認をして、説明が終わった頃合いに、「ドジャースが優勝、山本が勝利投手になったそうです。」と
アナウンスすると、驚くほどの大歓声が湧き上がりました。

吉野葛製造本舗 「きもごろも本舗 松月堂」


吉野葛製造本舗、奈良漬などの老舗がしっくりと馴染む町の「きもごろも本舗 松月堂」という和菓子屋で、
ご両親と参加のSI 君が「きみごろも」を購入、お相伴に預かることができました。

 
くさ餅                 きみごろも

左は長谷寺門前で I 添乗員さんが入手して配って下さった「長谷名物 くさ餅」、
右は1902年(明治35)に松月堂初代の堀井松太郎が創業時に作った卵の和菓子で、
口どけの良い食感が人気の宇陀名物となっています。
旅の途中で名物菓子2種に出会え(恵まれ)ました。


住宅の間に残る宇陀松山城の石垣


結局、雨は降ることはなく、「今阪屋」でビニール傘を返却して続けられた町散策の終わりに
「史蹟 森野旧薬園」に立ち寄りました。
白洲正子「かくれ里」の「薬草のふる里」に出てくる「森野旧薬園」は
1792年(享保14)に開設された小石川植物園と並ぶ日本最古の薬草園で、休園日ではありましたが、
場所を確認できただけでうれしい出会いとなりました。

 
テンダイウヤク(天台烏薬)              ヤマトトウキ(大和当帰)

「森野旧薬園」門前に植えられていたテンダイウヤクは中国原産のクスノキ科クロモジ属の1種で、
消化不良などの改善に健胃薬として使われ、
道の駅で苗を売っていたトウキはセリ科の多年生草本で、歴代の本草書に収載されている著名な生薬です。

2時15分頃、「道の駅 宇陀路大宇陀」へ到着、今回の旅でまとまった買物が出来る唯一の店と聞いて、
奈良のお土産菓子を入手しました。

稲の収穫を終えた棚田 梅谷味噌醤油(株)

「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」と柿本人麻呂が詠った
阿騎野(現・大宇陀)を出発して、国道370号線を南下、宿泊地の上北上村へ向かいましたが、
途中、事前に「写真ストップだけでも取ってほしい」と伝えていた吉野町宮滝で、
20分程の見学時間を取っていただきました。
梅谷味噌醤油(株)の駐車場でバスを降りて、多くの旅仲間が味噌醤油店内に向かった中、
私は宮滝遺跡へ直行しました。



縄文時代早期の土器をはじめ、近世にいたる様々な遺物が発見されている吉野川流域最大の遺跡の宮滝遺跡は、
応神・雄略・斉明・持統・文武・元正・聖武天皇らが行幸した離宮があったと日本書紀に記されています。
大津京から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が過ごし、壬申の乱(672年)を挙兵したのもこの離宮と言われ、
天武天皇亡き後、持統天皇は31回も吉野宮へ行幸したと伝えられています。


現在、吉野町によって史蹟公園化に向けた発掘調査や整備が進められている遺跡は造成工事中で、
何もない野原が広がっているばかりでしたが、宮滝の地に立てたことが旅のうれしい記憶になりました。
遺跡下を流れる吉野川は、写真でよく見る「巨岩奇石でおおわれた」眺望ではなさそうでしたので、
帰りに寄った梅谷味噌醤油店で尋ねると、それはもっと上流の「柴橋の峡谷」の景観で、
「バスの運転手さんに寄るように言ってあげようか?」と申し出を受けましたが、それは辞退し、
惹かれる調味料もありましたが、瓶の重たさに躊躇し、「食べる飴 醤油」という飴を買ってバスへ戻りました。


3時半に宮滝を出発、村の面積の97%が森林という山の中を走る国道169号線の車窓は
山また山でしたが、標高を上げていくと共に鮮やかになっていく紅葉の色が印象的でした。


フォレストかみきた

世界遺産・大峯奥駈道、ユネスコエコパーク・大台ケ原の登山口に位置するベースキャンプとして、
2020年にリニューアルオープンした「フォレストかみきた」に4時半過ぎに到着しました。
広々とした部屋でひと休みした後、6時半から夕食をいただきました。

   
  
レストラン「森人(モリート)」で鴨やアマゴなど地元産(多分)食材の「山のごちそう会席」をいただき、
大台ケ原ハイキングのエネルギーをチャージした後、部屋に戻って、
TVでドジャース優勝の歓喜の様子を見ながら、翌日の好天と9km完歩を祈った夜となりました。

                       *2日目歩数(スマホ計測):13952歩


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