|
|
2024.10.22
島後(隠岐の島町)~中ノ島(海士町)~西ノ島(西ノ島町)
|

ホテルの部屋から見た八尾川、西郷港方面

旅の2日目は予報通り、雨模様の一日となりました。
早朝の八尾川や西郷港の景観をカメラに収めた後、7時から10階の「天藍(てんらん)」で、
しまどれ烏賊(いか)お造り、ササカレイ一夜干し、モズク雑炊などホテル名物の「島の朝定食」をいただきました。
7時50分にホテルの送迎バスで西郷港へ向かい、8時半発の隠岐汽船フェリー「しらしま」に乗船、
中ノ島の菱浦港へ向けて出航しました。
隠岐の島4島を合わせた面積は「琵琶湖の半分」、人口は2万人弱とガイドさんから説明を受けましたが、
島後(どうご=隠岐の島)は面積約243km2、人口約13,600人、
島前(どうぜん)の中ノ島は面積約33.5km2、人口約2,300人、西ノ島は面積約56km2、人口約2,500人、
知夫里島は面積約13,7km2、人口約600人という内訳で、
島前3島を合わせた倍以上の面積、人口の7割を擁する隠岐の島が空と海の玄関口となったのは自然の流れのようでした。

フェリー「しらしま」 -隠岐汽船(株)HPより-
西郷港~島前(どうぜん)~境港(鳥取県)~島前~西郷港を結ぶフェリー「しらしま」はかなり混みあっていて、
ジュータン敷き大部屋2等席の昨日のバス・ガイドさんから勧められた進行方向左側窓側は塞がっていましたので、
通路側で足をのばしたり、備え付けのビニール製箱枕でごろ寝で過ごした1時間10分でした。
(総トン数2,343トン、全長約100m、客室定員856名のフェリー「しらしま」は、
隠岐汽船HPの晴れ写真と雨天下では随分と趣きが異なっていましたが、参考掲載ということで。)
|
 |
 |
| 後鳥羽上皇行在所跡地 |
綱掛けの松 |
9時40分過ぎに中ノ島・菱浦港に到着、迎えの観光バスに乗り、後鳥羽上皇行在所跡地へ行きました。
承久の乱で破れた後鳥羽上皇(治承4年/1180-延応元年/1239)が隠岐へ配流されて、
19年を過ごした海士町(あまちょう)の行在所跡地の入り口に「綱掛けの松」がありました。
明治初年まで参道付近一帯は海岸になっていて、随所に立っていた松の巨木に船をつないでいたという歴史があり、
行在所跡が火葬塚域内にあることから上皇の船が係留されていたと思われるというのが命名のいきさつで、
平成3年(1991)に松くい虫によって枯渇、上部が伐られた古株の隣に新たな松が植えられていました。
|
 |
後鳥羽上皇御火葬塚
かつて後鳥羽院神社があった場所に残る山陵が御火葬塚で、当初は遺骨の大部分が納められていましたが、
明治6年(1870)に明治天皇の意向によって大阪の水瀬神宮に合祀され、
翌7年に祠堂が取り壊された後、宮内庁の管理下に置かれ、敷地内に立ち入ることは出来ませんでした。
|
 |
 |
| 後鳥羽上皇行在所跡 |
後鳥羽院は承久3年(1221)に阿摩郡苅田郷(現・隠岐郡海士町)の源福寺境内の行在所へ入られ、
「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」という一句を詠み、「新島守」の生活を始められたと伝えられます。
中世より近世に至るまで隠岐島第一の古刹であった源福寺は、明治2(1869)年の廃仏毀釈によって取り壊され、
今は「後鳥羽院天皇行在所跡」という石標が立つだけの殺風景な一画となっていました。
|
 |
 |
後鳥羽上皇行在所跡のすぐ側の勝田池のほとりに、「蛙鳴く勝田の池の夕たたみ聞かましものは松風の音」
隠岐神社への参道に「いまはとてそむきはてぬる世の中になにとかかたらふ山ほととぎす」という
後鳥羽院御製歌が刻まれた石碑が立っていました。
|
 |
 |
| 隠岐神社 神門廻廊 |
拝殿 |
御火葬塚に隣接して後鳥羽院崩御から700年の昭和14年(1939)に建てられた隠岐神社がありました。
後鳥羽院を祭神とする隠岐神社は開運、縁結び、学業、交通安全、厄除けなど全方位型の町の総氏神様のようです。
|
 |
 |
| 隠岐神社 拝殿と本殿 |
神輿蔵 |
広大な緑豊かな境内で隠岐造り様式で造られた銅板葺きの本殿、拝殿、神門廻廊、校倉造の神輿倉などが、
落ち着きのある壮麗な佇まいを見せていました。
|
 |
 |
| 蹴鞠どころ |
土俵 |

村上家展示の鞠と鞠靴
境内の一画には蹴鞠を好んだと言われる後鳥羽院に因んで造られた「蹴鞠どころ」や
古典相撲の歴史を持つ地域らしく、毎年10月に行われるというこどもの相撲大会で有名な土俵もありました。

隠岐神社 一の鳥居

狛犬は鳥居に付設されていたものではなく、参道途中の階段下に設置されていたものですが、
右の狛犬は子を連れた出雲型と呼ばれる珍しいものでした。

隠岐神社を出て、道路向かい側の海士町後鳥羽院資料館へ行きました。
銅板葺き屋根や白壁が周りの景観とマッチした昭和55年(1980)建築の資料館の館内には、
後鳥羽院にちなむ品々や隠岐神社の宝物が陳列されていました。
|
 |

御手印御置文 |
| 後鳥羽院御影 |
|
「後鳥羽院御影」は隠岐への配流が決まった院が母の七条院(藤原殖子)への形見として藤原信実に描かせたもので、
置文の手印は「割と小さい手」という感想がもれ聞こえていました。
(「後鳥羽院御影」「御手印御置文」はいずれも水無瀬神宮蔵の国宝複製で、写真は資料館パンフレットから転写)
後白河法皇の院宣を受ける形で践祚(せんそ)した後鳥羽天皇は、兄帝の安徳天皇が剣璽と共に壇ノ浦に沈んだため、
後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として、剣璽なきままに天皇即位式を行ない、
神器が揃っていないひけめを克服するために強硬的な政治姿勢をとったことが承久の乱の遠因となり、
自ら作刀をしたり、御番鍛冶制を設けたと言われています。

資料館隣接のお店に、「ここでしか買えません」と案内された和菓子「白浪 しらなみ」がありました。
「承久のむかし、遠流の身となられた貴人たちをお慰めしようと餅米を入り粉とし、小豆をたいてお菓子とし、
献上したのがこのお菓子のはじまりとか・・・」
海や山の幸に恵まれた地で町の人々の好意に包まれて、後鳥羽院は案外居心地良く過ごされたのかもしれません。
|
 |
 |
「村上家資料館」
「後鳥羽院資料館」から少しバスに乗って、海士町指定文化財「村上家資料館」へ行きました。
「村上家は、中世以来、海士地域の有力者としての活動が古文書からも確認でき、
当地に配流された後鳥羽上皇の世話をしたという由緒を持つ隠岐を代表する旧家の一つです。
江戸時代には、飢饉の際に地域の救民活動をするような公的な貢献を行ったほか、
京都から配流されて来た公家飛鳥井雅賢と親密に交流したり、後鳥羽院陵の整備に伴って、
京都の公家、水無瀬家との交流を盛んに行ったりすることで、
海士地域と京都との文化的なパイプ役を担っていたことでも特筆されます。
江戸時代後期には大坂や京都、江戸などで出版された長者番付の上位にながらく名前を連ねるなど、
全国に広く知られる存在でもありました。
江戸時代、日本海から瀬戸内海をまわる西廻り行路がひらかれ、隠岐も中継点や風待港として重視されるようになりました。
そのような交通の発達のなかで、隠岐の村上家の名前が知れ渡ることになったと考えられます。」
-館内案内-
明治33年(1900)に火災により焼失、同年に現在の姿に再建された村上家の建造物が海士町の所有になった後、
大切に伝えられてきた1600点以上の古文書が第48代村上助九郎氏から寄贈され、
村上家の歴史のみならず、海士、島前、隠岐の歴史、さらには隠岐と各地との交流の歴史などを伝える
貴重な文化遺産を展示する資料館として、5年の歳月をかけて建造物と庭園の改修工事と古文書調査が行なわれた後、
平成26年(2014)に開館されたのが「村上家資料館」です。


古文書の他、後鳥羽上皇ゆかりの品、後鳥羽上皇に仕えていた公家・水無瀬家との交流を示す品、
飛鳥井雅賢との交流を偲ばせる蹴鞠関連の品などを見学させていただきました。
因みに同敷地内の洋館にお住まいの第48代村上助九郎氏(84歳)は私達が到着した時、
庭木手入れの業者と一緒に庭にいらしたそうですが、その後、お見かけする機会はありませんでした。

11時45分頃、港近くのレストランで隠岐牛の焼肉ランチをいただきました。
隠岐牛は比較的新しいブランド牛ですが、「島生まれ島育ち」の希少性で幻の黒毛和牛と呼ばれています。
肉料理はあまり得意ではないというツアーメイトのお皿の半分ほどは隣席とシェアされて完食されました。
|
|
 |
| Entô |
内航船「いそかぜ」 |
昼食後、海士町観光案内所へ預けていたキャリーバッグを受取り、1時21分発の「いそかぜ」を待つ菱浦港で、
ひときわ目を引いていたのがジオパークの拠点施設「Entô(エントウ)」で、
再び、隠岐の島を訪れることが出来たら、是非、ゆっくりと滞在したみたいと思わせる佇まいでした。
内航船「いそかぜ」は7分で西ノ島・別府港に到着、待機のジャンボタクシーに乗り換えて西ノ島観光へ出発しました。

由良比女神社 随身門
|
 |
 |
| 由良比女神社 拝殿 |
本殿 |
先ず案内された由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)は平安朝末期に隠岐国一の宮とされた延喜式神名帳に載る古社で、
地元では由良比女大神とよぶ須勢理姫命(スセリビメノミコト=須佐之男命の娘、大国主命の妻)を主祭神とし、
漁業神、海上守護神として島内の信仰を集めています。
その昔、須勢理姫命が芋桶(おぼけ)に乗って海を渡っているとき、海に浸した手をイカが噛み付いたお詫びとして、
社前の由良の浜に毎年イカが押し寄せるようになったという伝説があり、
出雲の神在祭に神送りされた神が帰って来る神帰祭、地元では「烏賊寄せ祭」と称するお祭りが毎年10月29日夜に行われ、
その頃から翌年2月にかけてイカが押し寄せる由良の浜は「いか寄せの浜」とも呼ばれ、
かつては家族総出でイカをすくい取ったと言われますが、現在はむかし程の大群は見られないようです。

拝殿の長押や境内の石灯篭にイカの彫刻が施され、烏賊神社という趣きが随所に見られました。
2時に由良姫神社を出発、タクシー運転手さんのガイドを聞きながら、摩天崖へ向かいました。
海士町観光の午前中は時折の小雨程度でしたが、段々と雨脚が強くなり、風も出て来て、
残念な空気が流れる10分余りのドライブで、海抜257mの絶壁、摩天崖に到着しました。

車道の途中に隠岐でテキサスゲートと呼ぶ、牛が放牧地から出ないためのグレーチングが設置されていて、
スピードを落としてガタガタと振動を受けながら通り抜けた先は牛と車の共用道路となっていました。
(写真は「隠岐の島旅」サイトより借用)
|
 |
 |
|
 |
 |
隠岐ジオパークを代表する絶景は雨減点はありながらも、充分見事な景観で迎えてくれた中、
風雨と足元の牛や馬の糞に負けずに展望台まで歩きました。

「一瞬だけ傘を閉じて~」と頑張った集合写真
|
 |
 |
摩天崖から国賀浜まで90分ほど予定されていた遊歩道トレッキングは断念せざるを得ず、
20分程のウォーキングで駐車場へ戻りました。

途中、通天橋を遠望する赤尾展望所で写真ストップを取っていただきました。
この日の残念は、翌日、リカバリー・チャンスに恵まれましたので、「続く」としておきましょう。
|
 |
 |
当初の予定より1時間余り早く、3時半にホテル「リゾ隠岐ロザージュ」に到着、夕食まで部屋でゆっくり過ごしました。
その時、コーヒーを飲みながら広げた旅行パンフレットでホテルが焼火山(たくひやま)の麓にあることを確認、
焼火山中腹にある焼火山神社の写真を見つけて、近くまででも行けたかも、と予習不足を悔やむことになりました。

一階のレストランで6時から、「隠岐でとれた新鮮なお魚をメインにした素朴な郷土料理」夕食をいただきました。
岩ガキの大きさに驚いたり、カンパチやハマチ、さざえの刺身、煮魚などに舌鼓を打ちながら、
ツアーメイト達との会話も和やかに弾んだひと時でした。
*2日目歩数(スマホ計測):6217歩
|