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2025・3・19
品川~京都~石山〈龍王宮秀郷社・建部大社・近江国庁跡〉~草津


春の雪

25年春は神戸でのいとこ会に日程を合わせ、19年晩秋に旅した近江を再訪することにしました。
出発の日は早朝から春の雪が舞う空模様となりましたが、小止みの頃合いを見て8時半過ぎに家を出て、
渋谷経由で品川発9時55分ののぞみ65号に乗車、京都へ向かいました。

小田原付近 浜名湖
伊吹山 伊吹山地
近江盆地 瀬田の唐橋

品川を出た頃は車窓にかなりな降雪が見られましたが、
小田原を過ぎたあたりからトンネルを抜ける毎に、「雪国」とは逆に「青空」が広がって行きました。
しかし、関ケ原から近江へ入った頃にはまた雪景色が広がり、どんよりとした空模様になりましたが、
12時に京都に着き、JR琵琶湖線に乗り換えて瀬田の唐橋がある石山駅に降り立った頃には、
幸いにも雪や雨は上がっていました。


石山

  

    

石山駅のコインロッカーに荷物を入れて唐橋方面へ10分足らず歩き、先ずは腹ごしらえ、
明治初期創業の近江牛の老舗「松喜屋」で「焼肉重」ランチをいただきました。
食後の紅茶には牛の形をしたミルクピッチャーが添えられていました。
松喜屋を出た後、今回は前回訪れた石山寺などがある瀬田川右岸ではなく左岸へ向かいました。

鳥居川水位観測所 唐橋橋脚脇に設置された量水標

1900年(明治33)に観測が開始され、2003年(平成15)まで琵琶湖・淀川の河川事業に活用された
データを記録し続けた自記水位計が残る水位観測所が唐橋の右岸脇(西詰)にあり、
橋脚脇には1874年(明治7)にオランダ人技師エッセルの指導で設置、
1992年(平成4)の琵琶湖開発事業完成まで琵琶湖の代表量水標とされた量水標がありました。
現在は片山、彦根、大溝、堅田、三保ケ崎5カ所の観測所水位の平均が琵琶湖水位とされています。

古代の橋が瀬田に架けられた年代は不詳ですが、大津宮遷都の667年(天智6)頃に架橋されたと推定され、
その後、壬申の乱、源平の戦、応仁の乱、本能寺の変など戦乱の度に焼かれ、
「唐橋を制する者は天下を制す」と称される交通や軍事の重要な要衝としての歴史を紡いで来ました。
現在見られる大橋、小橋の形になったのは信長の架け替え以来で、
全長223.7mの現・鉄筋コンクリート橋は1979年(昭和54)に竣工されたものです。



瀬田の唐橋は939年(天慶2)に平将門の乱を鎮めた藤原秀郷が唐橋の川底にある竜宮の乙姫の願いで、
三上山を七巻半するという大ムカデを退治したという伝説も持ち、
大ムカデ退治に成功した秀郷は龍王より一俵の米と一反の布、立派な釣り鐘を褒美としてもらったと言われ、
それが俵藤太秀郷と呼ばれる所以となっています。
三上山を七巻半という数字と平将門が支配した関東7か国半が符合するという説もありますが、
将門が支配したのは常陸国、下野国、下総国、武蔵国、上野国5か国と一部の地域で、
秀郷が平将門を討伐できたのは瀬田川の龍神のお陰と感謝したことから生れた伝説と考えられています。


雲住寺 龍王宮秀郷社鳥居

唐橋東詰に龍王宮秀郷社があり、秀郷の子孫、蒲生高秀(蒲生郡小御門城主)が1408年(応永15)に建立、
境内にムカデ供養塔が設置されている雲住寺が隣接していました。
唐橋かけ替えの際に水底に住むと言い伝えられる龍王を陸上の社伝に移して工事、
龍王の娘の乙姫を祭神として1441年(永享12)に創建されたのが龍王宮で、
龍王宮の隣に1633年(寛永10)に建てられたのが秀郷社です。
1932年(昭和7)建造の鳥居をくぐると和宮降嫁の折りに急ぎ架け替えられたという神橋がありました。

摂社:金毘羅大権現宮 龍王宮秀郷社神門(龍門)
龍王宮秀郷社拝殿 龍王宮秀郷社本殿

燈籠や石柱が立ち並ぶ境内の奥に鎮座する本殿は向かって左側が秀郷社、右側が龍王社で、
その間に置かれた唐橋古柱は龍王の御霊とされています。
丸木舟を横に並べ、藤の木のつるを絡めた橋を「からみ橋」と称したことが「から橋」に転訛、
架け替えを繰り返す中で中国や朝鮮半島の様式を取り入れて、「唐橋」「韓橋」などと記された瀬田の唐橋、
それにまつわる伝説を持つ龍王宮秀郷社から今回の近江旅が始まりました。

建部大社一之鳥居 建部大社二之鳥居

唐橋から7~8分歩いて、近江国一の宮の建部大社へ行きました。
建部大社は景行天皇46年に近江国神崎郡(現・東近江市)に日本武尊の神霊を祀ったことを草創とし、
674年(天武天皇白鳳4)に近江国府があった現在地に遷し、近江一の宮に定められたと神社由緒が伝えています。

神門 三本杉

燈籠が立ち並ぶ松並木の参道を進んだ先に大社らしい風格を持つ神門があり、
755年(天平勝宝7)に大和の大神神社から大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)を勧請して権殿に祀った時、
一夜にして生れたと伝承される三本杉がご神木として拝殿前に祀られていました。



三本杉の神紋
建部大社本殿・権殿

左側本殿に日本武尊、右側権殿に大己貴命が祀られた一間社流造の社殿を持つ建部大社は、
全国屈指の古社として、朝廷から民衆まで広く崇敬を受けて来たと伝えられています。


摂社・末社 上座4社
石灯篭

本殿・権殿の左右に八つの社があり、上座4社には日本武尊の父母である景行天皇と皇后、御妃と御子、
下座4社には日本武尊の遠征につき従った家臣が祀られていました。
古色をみせる石灯篭は1270年(文永7)の在銘があり、国指定の重要文化財となっています。

  
菊花石                         さざれ石

本殿の裏面に神霊が宿り、繁栄の象徴、縁起物として天然石の「菊花石」と「さざれ石」も祀られていました。

 
宝物殿

1週間ほど前に社務所へ電話を入れ、2時に予約していた宝物殿の扉の鍵を開けていただき、
神職の方に見守られ(見張られ?)ながら、他に見学者のいない宝物殿で、
大社の歴史を綴る宝物をゆっくりと拝観させていただきました。


女神像 男神像

建部大社の社宝とされる重文の女神像は白洲正子生誕百年特別展「神と仏、自然への祈り」の折に、
世田谷美術館展に出展されていて、私にとっては14年ぶりの再会となりました。
12世紀作の像高41cmの女神像主神は右袖で口元を隠す仕草が愛らしく、
その穏やかな表現が平安後期の作という根拠にされています。
神仏混淆の思想から生まれたと言われ、一木作りが原則とされる神像ですが、
この像は両肩先が別材製となっていて、具像として造られていない両側の半分ほどの大きさの二体の女神も
ほぼ同時期の作と考えられています。

源為朝 真筆額
江戸時代の神領寄進状 昭和天皇大嘗祭に奉納された農神像
大神輿・女性神輿・子供神輿 日本武尊神棚



幻の千円券

日本武尊と建部大社が図柄に使われた昭和20年8月発行の当時の最高額である千円札(複製)が
日本武尊像神棚の横に展示されていました。
これは金と交換できる「日本銀行兌換券」として発行されましたが、終戦直後の急激なインフレに対処する
緊急金融措置によって21年3月に使用停止となり、幻の千円と呼ばれる7カ月の短命の紙幣です。



源頼朝公 出世水

宝物殿を出て、次に行く近江国庁跡への行き方を社務所の方に尋ねるとGoogle地図をプリントアウトして下さり、
頼朝が源氏再興祈願したことに因む出世水のことを教えて下さいましたので、
お勧め通りに出世水をいただいてから、建部大社を後にしました。



少し迷い、道行く人に尋ねたりしながら14~5分歩いて、3時過ぎに近江国府跡に到着しました。


国庁は中国に倣い、律令制国家を作ろうとした時代に全国60か所ほどに置かれていた役所で、
近江国庁は奈良時代中頃から平安時代前期(8世紀中頃~10世紀後半)まで存続したと考えられています。
正殿・後殿、東西の脇殿を中心に東西二町(約216m)南北三町(約324m)の区画が国庁で、
その外側に九町(約972m)四方の広がりを持つ規格化された街路が国府と呼ばれました。
近江国庁は60年程前の神領団地建設工事中に発見され、1975年(昭和48)に史跡指定を受けています。
その後、簡単な整備を行い、地域の人々の憩いの場となったという経緯を持つ国庁跡には
スマホを見る数人の男子高校生の姿があるばかりでした。


国庁北側を流れる高橋川が谷を形成、緩斜面の瀬田丘陵から昔は琵琶湖まで見渡せたことと思いますが、
周りを住宅に囲まれた現在は比良・比叡の美しい山並みを遠望する場所となっているようでした。
国庁を一回りした後、神領団地まで降りるとバスが出たばかりでしたので、石山駅まで歩いて戻ることにして、
国庁跡へ無事に行けたお礼を伝えに建部大社へ寄ったりしながら、4時過ぎに石山駅へ戻りました。

石山駅4時13分発のJR琵琶湖線に3駅乗って、4時20分に草津駅に到着、
駅前のホテルボストンプラザ草津にチェックインして、4時半に部屋に入ることができました。

  
駅から至近であること、バス・トイレに窓があることを選択ポイントとして3泊した部屋



朝のスタートが早く、移動の疲れがありましたので、この日は外出をせず、
ホテル・レストランのテイクアウト・ローストビーフ・サラダやコンビニおつまみという簡易夕食で、
MLB東京シリーズ・カブス×ドジャーズ第2戦をTV観戦しながら、早寝をしました。

                           *1日目歩数(スマホ計測):16132歩


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