ホーム][目次][3日目

2025・3・20
草津~能登川~石馬寺~五個荘~近江八幡~草津
ホテルボストンプラザ草津 DELI CAFE


草津駅コンコース内「DELI CAFE」で朝食

比良山地 石馬禅寺石標

近江2日目は草津8時22分のJR琵琶湖線で能登川駅へ行き、バスに乗り換えて石馬寺へ行きました。
冠雪の比良山地や緑の麦畑を車窓に20分で能登川駅に到着、9時前に降り立った石馬寺バス停から
紡錘形の稜線の繖山(きぬがさやま)が目立つばかりで、石馬寺の姿は見えず、
「国宝 石馬禅寺」の石標がなければ、迷ってしまいそうな田園風景が広がっていました。
石馬寺は1950年(昭和25)の文化財保護法によって、国宝から重要文化財へ移行しています。

太子駒つなぎの松 石馬の池
石馬寺大門址 石馬寺石碑

推古天皇の摂政時代の聖徳太子が近江にあるという霊地を求めて繖山の麓へ来た時、
歩みを止めてしまった馬を松の木につなぎ、山へ登ったところ、瑞雲たなびく風光明媚な風景が広がっていて、
「積年の望みをこの地に得たり」と感動して山を下りると、松の木につないだ馬が池に沈んで石と化していたというのが、
石馬寺創建の縁起とされますが、白洲正子は「かくれ里」に
「水の神に、馬をいけにえに捧げたのが、そういう説話になったのであろう」と書いています。


かんのん坂
始終苦(四十九)坂

古来、僧や行者をはじめ、多くの人々が歩いた乱れ石積みの苔むした石段参道「かんのん坂」は、
自然石を踏む心地よさがありましたが、「始終苦坂」辺りまで上った頃には息切れ気味で、
寺案内に徒歩15分と書かれていた距離に20分近くを要してしまいました。

    
左:本堂  右:宝物殿 行者堂

繖山中腹の森の中に佇む本堂前の由緒案内板に、
「当山は山号を御都繖山(ぎょとさんざん)、寺号を石馬寺とする臨済宗妙心寺派の禅宗寺院です。
開祖は聖徳太子で、594年(推古2)に創建されました。
当初は法相宗で、後に天台宗となり、室町時代には観音寺城の佐々木六角氏の厚い庇護を受けた
菩提寺の一つであったと伝えられています。
また、中世には修験の寺として山岳修行の場であったと伝えられています。
当山は永禄期(16世紀後半)に兵火で焼失し、さらに豊臣秀吉に寺領を没収され、廃寺の時代が続きましたが、
徳川家康の保護を受け、三代将軍家光の命により能登川の御茶屋御殿を移築して大方丈(旧本堂)とし、復興しました。
そして、松島瑞巌寺の雲居(うんご)国師を中興開山として招き、
現在まで禅寺としての歴史を歩んでいます。」とありました。

鐘楼 中村治兵衛供養塔
宝物殿→本堂 本堂入口

行者堂、鐘楼、近江商人家訓「三方よし」(売り手によし、買い手によし、世間によし)の祖の中村治兵衛供養塔など
境内を見て回った後、庫裡の受付へ行き、本堂に安置する重文仏像を拝観させていただきました。
一代の住職が生涯一度だけご開帳するという秘仏「十一面千手観世音菩薩立像」は拝観出来ませんでしたが、
禅寺になる以前、天台宗の寺院として繁栄した時代の阿弥陀如来坐像、大日如来坐像、不動明王立像、
伝・聖徳太子作の聖徳太子合掌像・聖徳太子馬上像などが所狭しと並べられた中に役行者像も安置され、
石馬寺の歴史を語り継いでいるようでした。

    
十一面観世音菩薩立像               阿弥陀如来坐像                役行者大菩薩腰掛像
                              -石馬寺HPより写真借用-


宝物殿 石庭

土日祝のみ可能となっている拝観は、応対の男子小学生の案内不足で?拝観できたかもしれない宝物殿を素通り、
出入口となっている庫裡へ戻る途中、本堂へ向かう時には気が付かなかった石庭に目が留まりました。
石馬寺の顔のひとつとされる石馬の縁起を描く禅風の石庭の斜光をあびた後ろの岩山を
「さながら井戸(茶碗)の名品でもみるようである。」と白洲正子は絶賛しています。

「亡者の辻」 六所神社
六所神社

石馬寺を出て、「亡者の辻」という四辻でかんのん坂方面へ下らず、直進して立ち寄った六所神社では
神事が行われていて、繖山が歴史と信仰の山であることが窺えました。

  
ヤマネコノメソウ                  タチツボスミレ                   ウバユリ

雨宮龍神社鳥居    

再び、「亡者の辻」へ戻り、山の上方の雨宮龍神社を遥拝した後、
坂の両側に残存する石垣に信長の兵火に落ちる前の石馬寺の荘厳さを思い浮かべたり、
小さな野草に目をとめながら、かんのん坂を下りました。


繖山 「豊穣の園」北川弥助書

10時頃、石馬寺を後にして、湖東平野の真ん中に位置する五個荘へ向かいました。
「戦後の滋賀県政の生き字引」と呼ばれた五個荘名誉町民・北川弥助揮毫の「豊穣の園」の石碑が
実りの季節の豊穣を想像させる長閑な田園の中を、ほとんど人に会うこともなく30分程歩いて、
「てんびんの里」と呼ばれる五個荘に到着しました。

五個荘は 「古代条里制地割を基礎に大和郡山藩の陣屋と社寺を中心に形成された湖東平野を代表する農村集落で、
加えて近江商人が築いた意匠の優れた和風建築群の歴史的景観を保存し、価値が高い」という理由によって、
1998年(平成10)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、
2015年(平成27)には歴史的な町並みが残り、美しい水路が流れる文化景観によって、
「琵琶湖とその水辺景観―祈りと暮らしの水遺産」の一つとして、日本遺産の認定を受けています。

五個荘観光センター 「日本遺産・重要伝統的建造物群保存地区」案内

10時半頃到着した五個荘観光センターでお手洗い休憩の後、
センターで入手したパンフレット「-白壁と蔵屋敷まっぷ-」を手に五個荘町歩きをスタートしました。



弘誓寺(ぐぜいじ)

先ず水路を鯉が泳ぐ寺前・鯉通りへ行き、那須与一の孫、愚咄坊(ぐとつぼう)が1692年(元禄5)に開基したと伝わる
真宗大谷派寺院の弘誓寺へ行ったところ、立派な門構えを見せる正門は閉じられていたため、
てんびん通りの裏門へ回ってみましたが、本堂への入り方が分からないまま、あきんど通りへ出て、
勝徳寺の前を通り、近江商人屋敷が連なる花筏通りへ入りました。

中江準五郎邸


五個荘の近江商人屋敷は3館ほど解放されていて、入館見学をすることが出来ますが、
今回は内部見学はせず、町散策だけをすることにしました。
中江準五郎は朝鮮半島や中国に三中井百貨店を20余店舗経営、戦前「百貨店王」と呼ばれた中江四兄弟の末子で、
1933年(昭和8)築の屋敷内の蔵2棟に郷土玩具小幡人形や全国の土人形が展示・紹介されています。

  外村繁(とのむらしげる)邸 浄栄寺

外村繁(本名:茂)は明治時代に東京に呉服木綿問屋を開いた外村吉太郎の三男で家業を弟に託し、
「草筏」「筏」「花筏」など近江商人を題材にした小説や自らの人生をつづった作品を残した小説家で、
司馬遼太郎「街道をゆく 近江散歩」に登場しています。


浄栄寺は聖徳太子が不動坊という僧と共に大きな金堂を建て、村の名前を金堂としたという寺伝を持ち、
荒廃した寺院を1247年(宝治1)に浄栄法師が再興、「清光山不動院浄栄寺」を号する浄土宗寺院です。

 安福寺 五輪塔

天台宗に始まり、現在は浄土宗の安福寺は慈覚大師作の阿弥陀如来坐像を本尊とし、
六幅の地獄絵の寺宝を蔵する金堂始まりの寺と伝えられますが、創立、開基共に不明とされています。
敷地の隅に残る七尺塔(197cm)の五輪塔は、世界を構成する空・風・火・水・地を造形したもので、
四方に四門の梵字を配し、地輪に正安二年(1300年)と刻まれ、在銘塔としては県下最古の五輪塔です。
五輪塔は平安時代後期から密教の塔として作られ、後に宗派を超えて用いられるようになったと言われます。

大城神社

 大城神社は聖徳太子の創建と伝えられる金堂の産土神で、もとは大宮神社、天満宮と称していましたが、
1830年(明治3)に現在の呼称となり、翌年、郷社に列せられました。
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・菅原道真公を御祭神、伊邪那岐神・天兒屋根命・武内宿彌大神を配祀神とし、
 近江の守護職佐々木氏の観音寺城の丑寅の位置(鬼門)にあたるため、城郭守護神としても崇敬を受けた神社です。

五個荘小学校
金堂地区遠望 観峰館

大城神社の前を通る祭・馬場通りを東へ抜けると、
故郷を離れることなく、社寺や公共のために出資したといわれる近江商人たちが受け継いで来た
白壁、舟板張りの金堂の屋敷町が終わり、田や畑が広がる田園風景が広がっていて、

町並みに合わせてデザインされた五個荘小学校や書道文化にふれる博物館「観峰館」などを見ながら、
五個荘散策のゴールとした五箇荘駅を目指しました。

五箇荘駅 近江鉄道本線

11時50分頃、五箇荘駅に到着し、駅舎内のベンチでひと休みした後、
12時20分の近江鉄道本線に乗車、八日市で八日市線に乗り換えて、12時57分に近江八幡駅に降り立ちました。




ひさご寿し

  
鯖寿し定食

上の地図、駅から三つ目の信号近くの「ひさご寿し」で鯖寿し定食ランチをいただきました。
冷たい風が吹き抜ける広く閑散とした小幡町通りを10分近く歩き、心細さもありましたが、
豊かな近江文化が窺われる食事でエネルギーチャージ、午後の町歩きの期待が高まっていきました。


京街道門前通り 朝鮮人街道

琵琶湖東岸に位置し、湖東平野の一角をしめる近江八幡市は、
本能寺の変で主なき城下町となった安土の町を豊臣秀次が移し、1585年(天正13)に八幡山頂に築城、
翌年、八幡山下町掟書を公布、縦十二通り、横四筋の整然とした区画によって誕生した城下町ですが、
開町から十年後に秀吉から謀反の嫌疑をかけられて悲運の最期をとげた秀次と共に廃城、
その後は商業都市として発展した近江商人発祥の地の一つです。
その近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並及び日牟禮八幡宮境内地が
1991年(平成3)に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けています。

ひさご寿しから小幡町通りを北へ25分程歩くと、保存地区へ入る交差点左に京街道門前通りという道標が見え、
右折すると朝鮮人街道(=京街道)という石標が建っていました。
江戸時代には将軍が交代する度に朝鮮国より国王の親書をもった役人や知識人、芸術家など、
多い時には500人規模で組織された「朝鮮通信使」が来日、
ソウルから江戸までの約2千キロの行程を約1年の歳月を費やして往復したと言われ、
今も彦根から野洲までの一部の地域に「朝鮮人街道」と呼ばれる街道が残っています。
近江八幡では本願寺八幡別院に正使、京街道が随員の昼食や休憩場所として使われ、
当時の町人は町を挙げて朝鮮通信使を歓迎し、文化交流がさかんに行われたと伝えられています。

文化伝承館・左義長資料館 左義長まつりのダシ

左義長は平安時代に行われた毬杖・毬打(ぎっちょう・ぎちょう)と呼ばれる道具を使用して行う打毬(だきゅう)という
小正月の遊戯に因む火祭り行事で、打毬で破壊した毬杖を清涼殿の東庭で青竹を束ねたものに結び、
扇子や短冊などを吊るし、陰陽師が謳いはやしながら焼く行事が起源とされ、
毬杖を3つ結んだことから三毬杖、三毬打などと記され、次第に左義長と呼ばれるようになったと考えられています。
近江八幡の左義長のルーツは安土にあり、安土城下では左義長まつりが毎年正月に盛大に繰り広げられ、
信長自身も異粧華美な姿で踊り出たと「信長公記」に記されています。
左義長は正月15日前後に行われることが多い松飾りや注連縄を焼く火祭り行事ですが、
近江八幡では明治時代の太陽暦採用に伴い3月に変更、昭和40年代から3月半ばの土日曜日に開催し、
担ぎ棒を通した大松明の正面に「ダシ」と呼ぶ穀物や海産物などを使った干支の作り物を付けることが特徴で、
祭礼初日に奉納町13基が競う「ダシコンクール」、左義長がぶつかり合う祭礼二日目の「ケンカ」など、
町を上げての盛大なお祭りは「天下の奇祭」「湖国に春を告げるお祭り」と呼ばれています。

八幡尋常小学校校舎・旧伴家住宅
新町通り

朝鮮通信使、左義長まつりなど、馴染みの少なかった歴史に触れながら、
重要伝統的建造物群保存地区へ入ると、江戸末期から明治にかけて建築された商家が整然と残り、
往時の繁栄を彷彿させる風情豊かな新町通りは古い時代へタイムスリップするようでした。

近江八幡市立資料館 近江八幡教会

近江八幡市立資料館は1886年(明治19)に八幡警察署として建設、1953年(昭和28)年に大幅に改築され、
1974年(昭和49)より資料館として開設された旧西村太郎衛門邸跡で、
近江八幡教会は1905年(明治38)に滋賀県立商業学校(現・八幡商業高等学校)の英語教師として来幡した
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)が1907年(明治40)に建造、1981年(昭和56)に失火により全焼、
1983年(昭和58)に一粒社ヴォーリズ建築事務所設計により再建された教会です。

旧近江兄弟社地塩寮  アンドリュース記念館

 「あなたがたは地の塩である」という聖書の言葉に由来する旧近江兄弟社地塩寮は、
1940年(昭和15)に近江兄弟社の独身青年社員宿舎としてヴォーリズよって建てられた後、
 1984年(昭和59)に近江八幡教会が取得、翌年、外観は建築当時のままに改築されて、
1階は集会所、2階は牧師家族の住居として今も使用されている建物です。

アンドリュース記念館はヴォーリズの親友ハーバート・アンドリュー家より送られた資金をもとに、
ヴォーリズ自らが設計、1907年(明治40)に竣工したヴォーリズ建築第1号の建物で、
ハーバート・アンドリュース記念近江八幡基督教青年会館として献堂され、
1935年(昭和10)に現在地に改築、財団法人兄弟社によって2007年(平成19)に保存再生された建物です。

ヴォーリズ記念館

ヴォーリズ記念館は近江兄弟社を創設し、県内を始め、関西地方を中心に、教会や学校、病院、住宅、商業建築など
一千棟を超える建物を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの後半生の自邸で、
「外観は質素であるが下見板張り、両開きの窓、暖炉の煙突などに洋風を感じさせる。
内部は即立した洋室の間取りや数多く設けられた収納空間、さらに夫人のために日本の生活様式に合わせて和室を
取り入れるなど生活面での配慮と機能性を重視したヴェ―リズの設計態度がよく表れている。」という
滋賀県教育委員会の説明プレートが外塀に掲げられていました。
祝日休館で内部見学は出来ませんでしたので、外観をカメラに収めた後、鶴翼山(通称:八幡山)へ向かいました。


 
八幡山ロープウェー
安土城跡・観音寺城跡・近江八幡市街 繖山遠望

3時30分頃、八幡山山麓から山頂までを約4分で結ぶ八幡山ロープウェーに乗り、
八幡城址駅の展望館から安土城跡、観音寺城跡や近江八幡駅からまっすぐ延びる小幡町通り、
右(南)へ少し視線を移した先に広がる繖山や湖東平野の美しい眺望を楽しみました

八幡山城石垣 瑞龍寺門跡村雲御所山門

展望館から散策路を上って二の丸跡へ出ると、瑞龍寺門跡村雲御所の山門がありました。
村雲御所は豊臣秀次の生母(秀吉の姉)瑞龍寺殿日秀尼が非業の最期を遂げた秀次の菩提を弔うために
1596年(文録5)に創建、1961年(昭和36)に京都から八幡山城跡へ移築したものです。

村雲瑞龍寺 開山塔


日蓮宗唯一の門跡寺院である村雲瑞龍寺へ参拝し、境内の開山塔、金生稲荷社などを見た後、
北の丸跡、西の丸跡のビューポイントに立ち寄りました。


山頂(標高358.7m)からの眺望 安土城址方面をズーム
西の丸跡の眺望 長命寺港

西の丸跡からは田園風景の先に広がる琵琶湖や比良山系の眺望や長命時港を見渡すことができました。
西の丸跡写真の中央、紡錘形の山は水茎岡山城跡で、
自然景観の中にこれ程までに歴史を残す近江の奥深さに、改めて触れた思いでした。


日牟禮八幡宮楼門 日牟禮八幡宮本殿
日牟禮八幡宮拝殿 日牟禮八幡宮本殿

下りロープウェーに乗って、4時20分頃下山し、日牟禮八幡宮へ立ち寄りました。
日牟禮八幡宮の由緒は「第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位された131年に武内宿禰に銘じて、
当地の地主神である大嶋大神を祀ったのが鎮座の始めとされ、
275年に応神天皇が行幸され、神社近くに御座所を設けて休憩された時、この仮屋跡で日輪の形を二つ見る奇瑞があり、
祠を建てて日群之社八幡宮と名付くとあります。」とあり、応神天皇と神功皇后を御祭神としています。
691年(持統天皇5)に藤原不比等が参拝して
「天降りの神の誕生(みあれ)の八幡かもひむれの杜になびく白雲」と詠んだことに因み、
名称を「比牟礼社」と改めたとも伝えられ、八幡山城の廃城後は近江商人の守護神として崇敬を集め、
 1867年(明治6)に郷社、1916年(大正5)に県社に列せられ、1966年(昭和41)に神社本庁別表神社に加列し、
神社名を日牟禮八幡宮と改称、今日に至るまで皇室や将軍家からの崇敬を受けながら、
厄除開運、商売繁盛などの御利益がある近江の守護神として、広く信仰を集めている神社です。


八幡堀


日牟禮八幡宮を出て、八幡山城の築城に際し、琵琶湖からの運河として建設された約4.7kmの八幡堀を歩きました。 
江戸時代は水運の流通拠点として全国へ商いを展開した八幡堀も、
昭和の経済成長期になると運河としての利用価値は失われ、埋め立て計画が持ち上がる程に荒廃し、
その後、市民有志の保全再生運動が展開されて、かつての姿を取り戻し、近江八幡の顔とも言える景観が残されて、
2006年(平成18)には八幡掘・長命寺川・西の湖一帯が全国で初めて重要文化的景観に選定されています。


  ヴォーリズ像     近江兄弟社本社 メンターム資料館

八幡堀を出て駅へ向かう帰路、近江八幡市の名誉市民となったヴォーリズ像や近江兄弟社がありました。
ヴォーリズについては玉岡かおる「負けんとき ヴォーリズ満喜子の種まく日々」がお勧めの一冊です。


旧西川家住宅 寶積寺
 
旧西川家住宅や朝鮮通信使往還の折には長老衆の宿となったという寶積寺の前を通り、
小幡町通りへ出た所で、折よく、八幡市内循環バスが来て、4~5分で近江八幡駅へ戻ることが出来ました。
近江八幡駅17時6分のJR琵琶湖線に乗って、17時20分に草津駅到着、
五個荘と近江八幡町、二つの町歩きを堪能した一日が暮れました。

      

夕食はホテル・レセプションに置いてあったチラシを見て、イタリアンレストラン「Trattoria DELLA MELA」へ、
イラスト地図に悩みながら、Google地図に助けられながら、やっとこさたどり着いたのですが、
サービス・メニューにはチラシではなく、クーポンが必要と分かり、恩恵なしとなり、残念感が否めない夕食となりました。


                       *2日目歩数(スマホ計測):28090歩


目次][3日目