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2025・3・21
草津~油日(油日神社・櫟野寺)~石部(長寿寺・常楽寺)~草津



今回の近江旅は琵琶湖から一歩奥へ足を延ばしてみたいと思い、利便性優先で宿泊地とした草津は、
江戸時代には東海道と中山道が合流する宿場町として栄え、大津市に次ぐ滋賀県第2位の人口を有する都市ですが、
交通インフラの要、JR草津線は人口減少、車社会、コロナ禍などの影響を受け、利用者や運行本数の減少など、
利便性の低下が生じ、活性化へ向けた「草津線利用促進プロジェクト」キャンペーンが行われていました。


JR草津線 油日駅

草津駅8時4分発の電車に乗って、三重県との県境に近い油日へ向かいましたが、
通勤者でほとんど空席のない混み具合を見て、始発駅と油断した観光者の読みの浅さを実感しました。
それでも駅が進むにつれて車内は空いて行き、油日駅に到着する頃には乗客はまばらになっていました。

巻物を持った忍者をデザインした駅舎の油日駅に8時44分に降り立ち、
最初に向かった油日神社までは神社公式HPに写真付きアクセスガイドが掲載されていましたので、
迷いようもなく、ストレスなく、40分近くの(ガイドでは所要時間30分)山里歩きを楽しむことが出来ました。
油日神社へのアクセス

油日神社赤鳥居 木内城址
前方に油日岳 献燈

「まわりは見渡すかぎり肥沃な田畑で、鈴鹿の山麓に、こんな豊かな平野が展けているとは、
今まで思ってみもしなかった。南側の、鈴鹿山脈のつづきには、田圃をへだてて油日岳が、堂々とした姿を見せている。
神山というのは、たとえば大和の三輪、近江の三上山といったように、あまり高くはないけれども、
何か共通の美しさと神秘性を備えており、遠くからでもすぐそれとわかる。」(白洲正子「かくれ里」)
「かくれ里」が執筆された昭和40年代半ばとさほど変わっていないと思われるのどかな山里の景色が
油日神社へと続いていました。

     
「飛び出し注意」の「とび太くん」のバリエーション


献燈が立ち並び、参道の様相を見せる県道や重厚な民家の前方に油日神社の鳥居が見えてきました。

「油日神社は南鈴鹿の霊峰油日岳の麓に鎮座する古社で、
古くは油日岳を神体山とし、社伝では頂上に大明神が降臨して、油の火のような光明を発したことから
油日の名が付けられたとされ、山頂には岳大明神が祀られています。
油日大明神を主神とし、罔象女命(みずはのめのみこと=水の神)、猿田彦命を祀り、
「日本三代実録 」によれば、平安時代の877年(元慶1)の条に「油日神」が神階を授かったことがみえます。
室町時代に作成された「油日大明神縁起」には、聖徳太子によって勧請された由来が説かれ、
「聖徳太子絵伝」をはじめ、太子の本地である如意輪観音の懸仏(かけぼとけ)が所蔵されており、
中世には甲賀武士たちが聖徳太子を軍神として崇めるとともに、甲賀の総社として信仰されていました。
1495年(明応4)に建てられた本殿は、近隣の多くの武士たちが力を合わせて寄進したもので、戦国時代には、
油日神社が甲賀衆たちの拠り所となっていたことが分かります。」と入り口に由来案内板が立ち、
約1300か所の城跡がある滋賀県内で、特に甲賀市には約200か所も密集しているという歴史の中で、
油日神社が重要な役割を担っていた様子が窺えました。

    
楼門

鳥居をくぐり、堂々とした風格を見せる楼門と左右へのびる廻廊を目にした時は、
はるばる訪ねて来たかくれ里の魅力を瞬時に感じ、旅の醍醐味を存分に味わったひと時でした。
楼門は1566年(永禄9)年に棟梁・甲良五左衛門尉によって建立、左右に取り付く廻廊も同時代の建立で、
滋賀県内では唯一の中世の神社建築と言われています。

拝殿(舞殿) 拝殿と本殿

楼門の先に一直線に並ぶ拝殿・本殿は、楼門・廻廊と共に国の重要文化財指定を受けています。
拝殿を取り囲む回廊が土間ではなく板張であることから拝殿は舞殿で、
回廊はその見所(けんしょ)としての役割を担っていたのではないかとも考えられています。
拝殿の長押(なげし)の上に「三十六歌仙」の額が掲げられていました。

本殿

1493年(明応2)に棟梁・藤原宗弘によって建立された本殿は庇(ひさし)の部分に床を張り、
格子戸で囲って外陣とし、階(きざはし)の上の向拝は庇をもう一段階伸ばした孫庇を持つ珍しい構造で、
神仏混淆によって神像が作られたことと同様の影響があると考えられています。


本殿構造が分かる写真を油日神社HPより借用

甲賀歴史民俗資料館 楼門と西廻廊

神社に到着した時、楼門前でお会いした宮司さんの来客対応が終わられ、
予約の10時より早く、9時40分頃、甲賀歴史民俗資料館へ案内していただきました。

甲賀歴史民俗資料館には甲賀の地ゆかりの甲賀武士(忍者)に関する貴重な資料・文化財、
神社が継承する社宝「聖徳太子絵伝」や懸仏(かけぼとけ)、古来の祭りの祭具などが収められていました。

(資料館内部は撮影不可で、写真はパンフレットやHPから借用)



  
福太夫面                    ずずい子

福太夫面とずずい子は近代まで正月初申の夜の「稲講会」という予祝の神事に使われていたもので、
福太夫の面裏に桜宮聖出雲が1508年(永正5)に寄進と記され、ずずい子も同一人物作と考えられていて、
白洲正子は「かくれ里」で「決して片田舎の農民芸術ではなく、最高の技術を持った名工の作に違いない・・・
民芸であって、民芸を超えている。健康で簡単明瞭で、見ればわかるといった気持ちのいい美しさに
あふれ・・・」と福太夫面の美しさをたたえ、ずずい子の力強さや線彫りの確かさを称賛しています。
私にとっては白洲正子生誕百年特別展以来14年振り、お里帰り作品との2度目の幸いな再会となりました。


梵鐘(市指定有形文化財)
神木のコウヤマキ(市指定天然記念物)
西の鳥居 西参道

樹齢750年超えのコウヤマキや1620年(元和6)に山岡図書の頭景以らが寄進の刻銘がある梵鐘を見ながら、
10時10分過ぎに油日神社を後にして、宮司さんに教えていただいた近道の西の鳥居を抜けて、
櫟野寺(らくやじ)へ向かいました。


櫟野川   観音橋

人や車がほとんど通らない県道131号線で、過疎化を憂う油日神社宮司さんのお話を実感、
目の当たりにしながら、「間違っていない筈だけど・・・」と不安半ばに1.4kmほど、20分余り歩いて、
櫟野川(いちのがわ)沿いに櫟野寺看板が見えた時にはほっと安堵しました。


櫟野寺山門 石仏群

「福生山自性院櫟野寺(いちいの観音)は桓武天皇の延暦11年に比叡山の開祖伝教大師様が
根本中堂の用材を得る為に甲賀郡杣庄に巡錫の折、霊夢を感じて此の地の櫟の生樹に一刀三礼の下、
謹刻安置されました日本最大坐物十一面観音菩薩がご本尊様です。
その後、延暦二十一年鈴鹿山の山賊追討にあたり、杣ケ谷を櫟野まで登られた坂上田村麻呂公は、
当地鎮座の櫟野観音様に祈られ、その御力によって鈴鹿山の群賊を平定することが出来たのであります。
それ故将軍は当寺を祈願寺と定め、大同元年七堂伽藍を建立、永く当山守護の為に自ら等身の毘沙門天の尊像を安置、
そして家来に命じて国技の相撲を奉納、是が現在まで継続している大会式十月十八日の奉納相撲であります。 
当寺は天台宗総本山延暦寺の末寺で、往古は甲賀六大寺(油日寺・河合寺・新宮寺・千光寺・矢川寺・櫟野寺)の筆頭と云われ、
この地方の天台文化の中心寺院であり、広大な境内を有し、その末寺には、阿弥陀寺(現存)、仏生寺(移転現存)、
常楽寺(廃寺)、地蔵寺(廃寺)、成道寺(廃寺)、安国寺(廃寺)、詮住寺(廃寺)など数々の坊がありましたが、
年月不詳荒廃に帰したのであります。」というのが櫟野寺の略縁起です。

釣鐘堂 土俵

年代物の金剛力士像が守る山門を入ると、境内には手水舎や釣鐘堂(昭和25年10月18日の銘)、
坂上田村麻呂の山賊討伐に起源を持つ奉納相撲が行われる土俵がありました。

櫟野寺本堂 本堂後方に宝物殿(大悲閣)

1968年(昭和43)に漏電失火によって本堂焼失後、鉄筋コンクリート造、三間四方の宝形造、本瓦葺の本堂が
再建され、その後ろ側に宝物殿が連結されていました。
本堂焼失の時には収蔵庫に保管されていたため無事に守られた平安時代の仏像20体は、
本殿・宝物殿の改修工事の折に最初で最後の東京出開帳され、2016年(平成28)秋に東京国立博物館で、
「特別展 平安の秘仏 滋賀櫟野寺の大観音とみほとけたち」展が開催されました。
その展覧を拝観した21万人を超える観覧者の一人となることが出来た私は幸いにも、
ここでもお里帰りの仏像達と再会することができました。
特別展の博物館公式HPから借用して、重要文化財の平安仏の数点をご紹介します。


   
十一面観音菩薩坐像                 薬師如来坐像

最澄が1本の櫟(いちい)の大木で刻んだとされる櫟野寺本尊の十一面観音菩薩坐像は、
平素は厨子に安置され、限定された期間にしか拝観することが出来ない秘仏で、
重要文化財指定の十一面観音菩薩坐像では日本最大の像高3.12m、
台座を含めて5mを超す仏様が国立博物館の展示室中央に鎮座していた姿は圧巻の一語でした。
迫力と穏やかさが共にみられる表現は10世紀の仏像の特徴と言われています。 
今回、宝物殿を案内して下さった住職ご母堂も、正面から拝見したことがなかった秘仏を、
国立博物館で360度、全角度から拝観した時の感動を思い出されるご様子でした。
薬師如来像も像高2.2mの大作で、その穏やかな表現は平安後期の仏師・定朝によって確立された
定朝様(じょうちょうよう)と呼ばれる和様仏です。

            
    地蔵菩薩坐像              観音菩薩立像             毘沙門天立像     

地蔵菩薩は釈尊が入滅したのち、弥勒がこの世にあらわれるまでの56億7千万年という長い間、
人々を救って歩くという役目で古くより信仰されてきた仏様で、像内に1187年(文治3)の作の銘文があり、
仏師・運慶らによって写実的な仏像が造られるようになった時代に、
櫟野寺周辺ではまだこのように平安風で穏やかな姿の像が造られていたことが注目されています。

櫟野寺には10~12世紀にかけて造られた観音菩薩が現在も複数残されていることが、
この地域に観音信仰が深く根ざしていたことを物語っています。
出展された観音菩薩立像はその中でも細身の身体つきが優美な秀作で、
切れ長の目など表情の厳しさはこの甲賀地域の仏像の特徴とも言われています。

坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊の追討を櫟野寺で祈願し、それが叶うと毘沙門天像を造って安置したと伝えられる
毘沙門天立像は10~11世紀頃に造られたもので、
「目をつり上げ、口をへの字に歪める表情にはどこか親しみをおぼえます。
腹部に表された奇妙な顔にも注目してください。」とキャプションに書かれていました。



梅茶

宝物殿の拝観を終え、タクシーの手配をお願いして受付(納経所)で待っている間、
住職ご母堂が梅茶をもてなして下さり、しばし、お寺の来歴、現況などのお話を伺いました。

東門


東門は本堂炎焼の際に焼け残った向拝を移築改装したもので、
「安定のため柱の下部を五十糎縮めてある。この遺構によって焼失した本堂の偉容を偲ぶことができる。」という
説明板が立っていました。
東門に到着したタクシーの運転手さんのお勧めで、写真を撮っていただいた後、
薬を扱うことが多かった甲賀忍者が薬草を栽培していたこと、通院のお年寄りの送迎がタクシーの多忙時間など
地元話題の中、15分ほどタクシーに乗って11時40分頃、甲賀駅に到着しました。

  甲賀駅

甲賀駅は、警戒心を抱かれにくい薬売りに扮して、諸国の情報を収集していたと言われる甲賀流忍者の
「忍びの里」として知名度を上げて行こうという趣きの真新しい駅舎で、
閑散とした周辺を少し散策してみましたが、目ぼしい出会いはなく、12時9分の電車で石部へ向かいました。

 石部駅 「東海道五十三次 石部宿」冠木門

12時35分に石部駅に到着、駅前の「東海道五十三次 石部宿」冠木門が江戸の風情を演出していましたが、
門の内部に特別な施設はなく、循環バスの待機場になっているようでした。
2024年(令和6)7月に完成した石部駅駅舎は、3次元BIMと呼ばれる建築物の3Dモデルを用いて検討・設計し、
立体的で折れ点の多い屋根や天井を実現、鉄道建築技術の向上に貢献した点が認められ、
(社)鉄道建築協会が主催する鉄道建築協会賞「作品賞」に入選しています。



「東海道五拾三次之内 石部」 (歌川広重)

旧東海道 田楽茶屋

東海道51番目の宿場町であった石部は交通の要衝として奈良時代以前から栄え、
江戸時代には京都を朝旅立つと夕暮れに到着したことから「京立ち石部泊り」と言われ、
全盛期には陣屋が2軒、旅籠が62軒連なっていたそうです。

石部では国宝の長寿寺と常楽寺の拝観を計画、1時間に1本の石部循環線のバスを乗り継ぐ都合で、
町歩きは諦めましたが、2002年(平成14)に旧石部町制百周年記念事業として
東海道名所図会で紹介された田楽茶屋を再現した食事処で昼食、
少々の旅人気分を味わいました。
因みに石部町は甲西町と合併し、2004年(平成16)に湖南市となっています。

  
天ぷらそばと豆腐・こんにゃくの田楽

食後、最寄りのバス停から循環線バスに乗るつもりでしたが、田楽茶屋の人に尋ねても、
バス停の場所が判然とせず、結局、石部駅まで戻って、13時45分のバスに乗って、
2時前に長寿寺に到着しました。
バスに乗っていたのはほとんど買物か病院帰りと思しき年配者という地域の社会構造の一端に触れた
コミュニティバス体験となりました。


長寿寺 十王寺

長寿寺は阿星山の北東麓にあり、地域では東寺と呼ばれる天台宗の古刹で、
「聖武天皇の天平年中(729~748)良弁僧正によって建立された勅願寺であり、現在国宝に指定されている。
その昔、聖武天皇が大仏建立のため紫香楽宮に遷都された折、世継ぎの誕生を良弁に祈請せしめたところ、
良弁は阿星山中の瀑布に籠って祈り、間もなく皇女の降誕をみるに至った。
そこで天皇は、皇女の生誕に因む子安地蔵尊を行基菩薩に刻ませて、
紫香楽宮の鬼門に当たる東寺に七堂伽藍廿四坊の寺を建立し本尊とした。
そして皇女の長寿を願い長寿寺という寺号を授けたと伝えられている。
その後、本堂は貞観年中(859~877)に焼失、同年間に復元され現在に至る。
中世には源頼朝、足利氏らの祈願所となったが、戦国期には織田信長の手により三重塔は安土城へ、
楼門は栗東市の蓮台寺へ移築され、主要な建物を失った。
現在、国宝の本堂、重要文化財の弁天堂、同じく重要文化財の丈六阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、
十六羅漢図などが残されている。」と創建由来にありました。

長寿寺山門の真ん中に「拝観希望の方 向かいの十王寺へお知らせ頂くか、左記へ電話下さい」という
立て看板が置いてあり、十王寺へ行くと、事前に2時予約の電話を入れていましたので、
住職さんがすぐに対応して下さいました。
十王寺は「神亀元年(724)行基菩薩が開基。 天慶2年(938)憲際上人が、村中の減罪寺とする。
 寺号が十王寺と称するのは、十王経にのっとって、本尊脇に木造寄木造の十王像がお祀りしてあるところに由来する。」
という瓦葺き屋根、白壁が立派な寺院で、住職さんは兼任のご様子でした。

長寿寺山門 前方に鐘楼と本殿

改めて、山門脇の受付所で拝観料を支払い、境内に入ると、
前方にひっそりと佇む檜皮葺の本堂が見え、期待感が一気に高まって行きました。

多宝塔 手水舎

参道の右手に聖武天皇の菩提を弔うために鎌倉時代に建立された多宝塔がありました。
相輪が欠けているために重要文化財の指定は逃し、市指定文化財とされていますが、
石造多宝塔の遺例は少なく、全国に10基程度が残るのみと言われています。

弁天堂 収蔵庫

小さな放生池の中之島に1484年(文明16)に建てられた弁天堂は、
桁行一間、梁間一間、屋根一重入母屋造、唐破風付檜皮葺のほぼ真四角の小さな堂ですが、
本格的な構造によって、重要文化財の指定を受けています。

本堂から少し登った所の収蔵庫に、丈六阿弥陀如来坐像(重文)が安置されていました。
丈六(1丈6尺 =約 4.85m)の坐像で約3m、定朝様の檜寄木造、皆金色の迫力ある仏様でした。

長寿寺本堂

桁行(正面)五間、梁間(側面)五間、屋根一重寄棟造、向拝三間、檜皮葺、四面廻廊の本堂は
天台伽藍には珍しい建築で、左右に連子窓がある中央三間の桟唐戸の入口を入ると、
内部は正堂(内陣)と礼堂(外陣)に分かれ、それぞれが切妻型・寄棟型の船底天井の別棟の双堂形式を継承、
国内に数例しか現存しない貴重な構造を持っていますが、正確な建立年は不明とされています。

奥深い神秘的な雰囲気の本堂内には内陣と外陣を区切る格子の結界があり、
秘仏の子安地蔵菩薩が納められた春日厨子(本堂附指定の国宝・1480年(文明12)建立)の前に、
修復された地蔵曼荼羅や脇侍の聖観音像(菩薩形立像)が置かれ、
須弥壇の左右には四天王に守られた釈迦如来(像高1.8m)と阿弥陀如来(像高1.41m)が安置されていました。
                    (写真は長寿寺HPより借用)

       
 多聞天              釈迦如来                   阿弥陀如来             増長天

元は別の堂舎の主尊ではなかったかと推測される平安仏を数躯所有する所に、
平安末期の長寿寺の繁栄が窺えると言われています。

白山神社鳥居 白山神社拝殿


平安時代以降進んだ神仏習合として、寺院境内に鎮守社が設けられることが常となり、
延暦寺の影響下にある白山勢力の白山社が天台寺院の鎮守社とされることが多く、
長寿寺にも白山比咩(しらやまひめ)を祭神とする白山神社がありました。
長寿寺の白山神社は1287年(弘安10)の語が残り、鎌倉時代には社殿があったと推測されていますが、
四面に格子戸を備えた拝殿の建築様式が室町時代の手法を伝え、創建は不明とされる国の重要文化財です。
白山神社を遥拝した後、2時半過ぎに長寿寺を出て、常楽寺へ向かいました。


常楽寺三重塔遠望 常楽寺入口

コミュニティバス利用も考えましたが、待ち時間に歩けると見込み、徒歩25分程で常楽寺に到着しました。
2004年に湖南市が誕生した翌年、常楽寺、長寿寺、善水寺(甲西市)の国宝古刹三か寺で「湖南三山」を立ち上げ、
一斉公開「湖南三山めぐり」を開催したそうですが、20年経った今は観光客も稀なようで、
長寿寺、常楽寺ともに敷地前に設けられた広いバス駐車場が寒々しく感じられました。
特に常楽寺は予約のない時は閉門されていて、紅葉まつりの時期以外は事前予約が必須となっています。
予約の3時少し前に到着すると、受付で住職さんが待っていて下さいました。


常楽寺本堂
常楽寺三重塔

拝観パンフレットには「常楽寺は和銅年間中(708~715)元明天皇の勅命を受けた良弁僧正が開基した
阿星寺(あせいじ)五千坊の一つであります。
阿星山(あほしやま)焼失のとき阿星寺本尊千手観音像が享楽時に飛翔して常楽寺の本尊となりました。
また、聖武天皇が離宮を造営した紫香楽宮(742~745)の鬼門鎮護として、
鎌倉時代には亀山天皇の勅命による雨乞秘法を行うなど、天皇の帰依を受け鎮護国家の道場とされたと伝えられています。
延暦年間(782~805)天台宗に改められました。
延文5年(1360)神火(落雷)により堂舎は全て焼失してしまいました。
そして同年僧侶観慶らによって建立され、その後三重塔、山門が建立されました。
しかし、文禄元年(1592)には、豊臣秀吉が伏見城を築いた時、城門の一つとして山門は移築されてしまい、
後に徳川家康によってその山門は解体されて三井寺園城寺に寄進されております。
現在常楽寺には国宝の本堂と国宝の三重塔が現存しております。
御本尊、千手観世音菩薩は災難をのがれ、寿命を延ばし、病気を治す御利益がございます。
江戸時代には庶民観音巡礼の札所として、近江西国観音霊場一番となり庶民信仰されてきました。」と
常楽寺縁起が記されていました。

三重塔は仏舎利を収める仏塔の形式の一種ですが、天台宗では法舎利(釈迦の根本経典の法華経)を安置して、
法華経の功徳による国家安穏、護国豊穣を願って建立、
常楽寺の三重塔は1400年(応永7)再建され、四方三間、瓦葺き、高さ22.8mで、
初層内側の後方に来迎壁を背にした須弥壇が置かれ、木造釈迦如来坐像が安置されていますが、
内部は非公開となっています。

延文5年(1360)3月の全焼後、再建された桁行七間(19.74m)、梁間六間(17.17m)、
入母屋造り、向拝三間、檜皮葺の本堂は幾度か修理を重ね、
近年では1972年(昭和47)に屋根の葺き替えが行われています。

石灯篭(重文)  西国三十三観音霊場石仏観音

室町時代の石灯篭の近くに、本堂、三重塔を右回りで一周するように番号をふった石仏観音が祀られていました。
ここまで散策路を整えられた住職さんのご苦労、ご奮闘は以下のサイトをご覧ください。
住職奮闘ビフォーアフター | 常楽寺

常楽寺本堂

  
木造釈迦如来坐像                木造二十八部衆立像

本堂内は外陣、内陣、後陣からなり、内陣の両側に堂蔵がありました。
内陣の須弥壇中央に御本尊の千手観世音菩薩(33年に一度開帳される秘仏・次回は2036年春を予定)が
収められた厨子が安置され、その前に木造釈迦如来坐像(像高139.1cm)、
左右に木造二十八部衆立像(鎌倉時代制作)が並び、荘厳な空気に包まれた圧巻の堂内でした。
ただ残念なことに、1981年(昭和56)に摩睺羅伽王(まごらかおう)と阿修羅王が盗難に遭い、
見つかった阿修羅像は1986年(昭和61)に元の台座に戻されていますが、
摩睺羅伽王と左上段の風神は盗まれたままとなっていました。


 
鐘楼 普賢堂

本堂を出て、境内の建築物を見ながら受付所(出口)へ寄り、
待機して下さっていたご住職に挨拶をして、常楽寺を後にしました。


三聖神社

常楽寺と隣接して、元は常楽寺の鎮守社かと思われる三聖神社がありましたが、
敷地はしっかりと塀で区切られ、仏像盗難の影響があるのかもしれないと思われました。
西寺(常楽寺)バス停から16時2分のコミュニティバス(石部循環線)に乗り、16時20分に石部駅へ戻り、
16時49分のJR草津線で17時3分に草津駅へ帰着しました。
少しのロスタイムはありましたが、予約していた寺社へほぼ予定時刻に到着し、全て拝観させていただけて、
満足な一日となりました。



ALLDAY DINING LIBERTY

    

夕食は3泊お世話になったホテルのレストランで、宿泊者限定ディナーセット(3400円→2750円)のサービスメニュー、
ハンバーグ・コースをいただきました。


                     *3日目歩数(スマホ計測):19953歩


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