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11 Oct.2011
Rijeka〜Postojnska Jama〜Ljubljana


イヴァン・ザイツ国立劇場

この日は朝食レストランが6時からオープン、出発が8時15分と少し余裕がありましたので、
早目に食事をした後、7時半にホテルを出て、街へ散歩に出掛けました。




コルゾ通りからの中ほどから南へ折れると、ハプスブルク時代の華麗な建物に囲まれた公園の中に、
クロアチアの国民的作曲家イヴァン・ザイツ(1832-1914)の名前を冠した国立劇場があり、
帽子の上に止まった鳩をどうしたものか思案中の?腰に手を当てたザイツ像も立っていました。



公園に隣接する中央市場は早朝から賑わいを見せ、温州みかんを買ったツアーメイトにも出会いました。
そこから西へ向かうと、クロアチア航空やクロアチア最大の船会社ヤドロリニア本社のビルなどが立ち並ぶ
リエカ港が間もなく見えてきました。
イストラ半島東端のクヴァルネル湾に面したリエカは、その奥まった位置がヴェネツィア航路から外れていたため、
ヴェネツィア共和国には占領されず、ハンガリーやハプスブルクの支配の下、オーストリアの貿易港として発達、
現在は人口16万人を擁するザグレブ、スプリットに次ぐクロアチア3番目の都市で、
トリエステと似通った雰囲気が漂う港街でした。



リエカの現地ガイドさん


トルサット城に展示していた古地図

8時15分にホテルを出発し、現地ガイドさんによる街の徒歩観光からこの日のツアー・メニューが始まりました。
イリリア人が居住していたリュチナ川河口に、ローマ人が築いたタルサティカという街がリエカの起源とされ、
リエカとはクロアチア語で川を意味し、イタリア占領時代にはやはり川を意味するフィウメと呼ばれていたそうです。
古地図にも見られるように、リュチナ川に沿って開けたリエカは、
ムッソリーニ時代直後には西側をイタリア、東側をユーゴ連合が分割、1946年に統合という歴史を持っています。
島が多いクヴァルネル湾は防御に最適で、リエカ港は軍港としての利用価値も高かったようです。







街を東西に通るメインストリート、コルゾ通りは18Cまでの城壁をとり壊して造られ、
市を挙げてのイベント、市民の生き甲斐ともいわれるカーニバルはリオデジャネイロ、ベネツィアに次ぐ規模を誇り、
800mほどの通りは仮装をした人々、国内外の見物客であふれんばかりの賑わいを見せるそうです。
市庁舎やラジオ・リエカを見ながら通りを進むと、中程に海の門を利用して1873年に造られた時計塔があります。
一目でハプスブルクのものだと分かるマリア・テレジア・イエローの建物ですが、
時計盤の下の茶色の双頭の鷲が同じ方向を向いているのを不思議に思い、ガイドさんに尋ねると、
「オーストリア帝国の指示に従うこと」「右へ倣え」という意味を持つとのことでした。
その下の四角い枠は8時20分を表し、あてにならないと言われる海外の時計にしては珍しく、
正確な時刻を表示していました。
その下は18Cに市に紋章を与え、街の権利を擁護したレオポルト1世とその息子カール6世のレリーフです。



時計塔をくぐると、イヴァナ・コブレラ広場にオリーブ・オイルを抽出する石臼を利用した噴水があり、
その先にローマ軍駐屯地の入り口と考えられている4Cの門が両側の建物に取り込まれて残され、
奥には発掘というより、掘ったら出てきた・・・というように放置された遺跡がありました。


聖ヴィート教会 聖母マリア被昇天教会と鐘楼

少し北へ歩き、街の守護聖人が祀られた聖ヴィート教会へ行きました。
ディオクレティアヌス帝時代に殉教したザクセン地方の聖人ヴィートはプラハでも守護聖人とされていましたが、
9C起源の教会を17Cにイエズス会が建て替えたリエカの教会は、荘厳なプラハに比べ、
曲線が優美さを見せるバロック様式で、双頭の鷲が飾られた入り口を入ると、
ヴィートとヴィートの家庭教師像を左右にした「奇跡のキリスト」像の祭壇が正面にありました。




祈願したにもかかわらず賭け事に負けたことに腹を立てたロンチリッチという男が石を投げつけたら、
木彫りのキリスト像から血が流れ、大地が裂けて男を呑み込んだという伝説によって、
「1292年この石で十字架像が打たれる」と書かれた石がキリスト像と一緒に飾られた主祭壇でした。
小瓶に入れられた血も保管されているそうですが、大地を切り裂いた地震が、
このような奇跡譚として伝えられたのではないかという説もあるようです。

坂を下った先にはローマの浴場跡に建てられたリエカ最古の教会、聖母マリア被昇天教会がありましたが、
鐘楼は少し傾き、「リエカの斜塔」と呼ばれているそうです。


マルトヴィ運河に面したイエラチッチ広場には姉妹都市である川崎市から寄贈された
「友情」と名付けられたブロンズ像と噴水があり、
トルサットへ向かうため運河を渡り、駐車場へ行く途中には1990年代の内戦の慰霊モニュメントがありました。



トルサット城に展示していたトルサットと旧市街の絵

新石器時代の定住跡も見つかっているというトルサット(=川の上)は、
ローマ時代に防衛用の砦が築かれ、東ローマ帝国、フランク王国、15C後半以降のハプスブルグ支配下で、
城、教会、廟などが造られていった街の北東に位置する城塞の丘です。



バスに乗って15分ほどでトルサットの丘に到着し、最初に聖母マリア教会を見学しました。
教会の正面には2003年6月8日にヨハネ・パウロ2世が巡礼者としてこの教会を訪れた記念像がありました。
2005年5月に建立されています。


聖母マリア教会主祭壇 フランシスコ派修道院

この教会にも、天使たちによって1291年5月10日にこの地に運ばれて3年半留まったナザレの聖母の家が、
忽然と消えてしまった後、1294年12月10日にイタリアのロレートに現れたという伝説があり、
その両方の教会にカトリックの巡礼者が訪れるようになったそうです。
日にちまで確定されている所にリアリティ過多を感じますが、十字軍が運んだ品々を奉納したことが
この教会の起源というあたりに伝説の謎が秘められているのかもしれません。



祭壇近くに飾られていた聖母家お引越しの絵

教会に隣接して、聖母マリア関連のフレスコ画が描かれた回廊を持つフランシスコ派修道院があり、
ローマ法王ウルバヌス5世が1367年に教会に贈ったと伝えられる聖母マリアのイコンや、
トルコから守るためにプリトヴィッツェから移した教会至宝のマリア像が飾られたチャペル、
信者から奉納された宗教画、装飾品など様々なものが飾られた部屋や屋外チャペルもありました。



足の病の治癒お礼として奉納された杖


聖母マリア教会を出て、トルサット城へ行くと最後の城主ヌーゲント伯爵が持ち込んだといわれる
ヴェネツィア・ライオン(聖マルコのシンボル)が出迎えてくれました。
ベェネツィアやトルコに狙われた時代もあったようですが、概ねハプスブルクの支配下にあったトルサット城は、
ナポレオン軍が駐屯したり、刑務所として使われた時代を経て、19Cに今ある形に改造されて、
現在はギャラリー、コンサートや演劇などのイベント会場として使われているそうです。



 トルサット城のシンボル
          

「MIR JUNAKA」(Haven for Heroes)と刻まれたギリシア神殿様式の家族廟や、
リュチナ川へ抜ける秘密の道があった地下牢を利用したギャラリーでリエカの歴史を辿る展示品を見学した後、
円塔に上って、クヴァルネル湾やリュチナ川河口に広がるリエカの街の美しい眺望を楽しみました。

10時半にリエカを出発して、一路北上、50分ほどでスロヴェニア国境を越えて、
12時15分にポストイナ鍾乳洞に到着しました。



路上に書かれたウエルカム・マーク


ランチ・レストラン
鍾乳洞入り口

駐車場から公園を抜けた所にお土産物店が立ち並び、その先に鍾乳洞入り口が見えましたが、
先ずはレストランでランチ・タイムとなりました。




野菜スープ、サラダ、ポーク・グリル、アップル・ストルーデルというこの日のメニューは、
観光地レストランとしては先ず先ず・・・といった所でした。
鍾乳洞見学の2時までのフリータイムは、プロポリスやナッツ入り蜂蜜などを試食したり、
ツアーメイトの買物を横から眺めたり、お土産物屋さんウォッチングで過ごしました。



7000万年前の海で出来た石灰岩が海の後退と共にカルスト地形となり、300万年前からピフカ川が石灰岩を侵食、
トリエステからスロヴェニア西南部地域に多くの鍾乳洞が形成されたと言われますが、
その中の一つが今回訪れた世界第3位の規模を誇るポストイナ鍾乳洞です。
石灰岩の台地「カルスト」はこのあたりをクラス地方と呼ぶスロヴェニアの地名を語源としているそうです。

全長21kmの中、観光用に公開されているのは5.2kmで、片道2kmをトロッコで往復、1km余りを徒歩見学、
所要時間1時間半というのが決められた見学コースとなっています。
原始時代から人が住んだ形跡が残る洞内で、
現在公開されている部分は、偶然穴に落ちた男性が1818年に発見したもので、
その後、調査が進み、1872年には最初の洞窟鉄道が敷設され、
1884年には松明、ろうそく、オイルランプ、アセチレンランプに代わり、電気照明が使われるようになったそうです。

ぶつかることはないことが分かっていても、思わず首をすくめてしまいながら、狭い鍾乳洞の中をトロッコで進み、
トロッコを降りた場所から言語別に分かれた専門ガイドについて、高低差40mの見学コースを歩きました。
白や赤の石筍が並んだ「白のホール」「赤のホール」、細長い鍾乳石がぶら下がった「スパゲッティ・ホール」、
第一次世界大戦時に捕虜のロシア兵が造った「ロシア橋」、白く輝く鍾乳洞シンボル「ブリリアント」などを見た後、
洞内最大の空間、実際にコンサートも開催されるという広さ300uの「コンサート・ホール」で見学が終了、
再びトロッコに乗って出口へ向かいました。

10年かかって最大1mmほどしか成長しないという鍾乳石や石筍が50万年かかって造り上げたポストイナ鍾乳洞は、
早くから人の手が入り、観光化されてしまったために、世界遺産に登録されるのは難しいと言われていますが、
驚異的な自然遺産であることは間違いない所でした。

  


「FOLLOW ME」と入り口で出迎えたくれた黄色のマスコットの正体は、洞内に生息する生物の中で最も有名な
イモリに似た類人魚(学名:Proteus Anguinus)で、目は退化、エラと肺の呼吸を使い分け、
1年近く何も食べなくても生きていけるというディナール山脈のカルストの地下水のみに生息している両生類です。
コンサート・ホール手前の水槽に展示されていましたが、撮影禁止でしたので写真はポスターから取りました。


前方にユリアン・アルプス コゾレッツ

3時50分にポストイナ鍾乳洞を出発して、バスはリュブリャーナへ向かいました。
四国ほどの面積を持つスロヴェニアは、緑豊かな車窓風景が示す通り、自給率100%の農業国で、
質素、勤勉な国民性を持ち、生まれ育った土地で家庭を守って暮らすことを好む人が多いそうです。
コーカサス由来のブドウ、桃、梨などの果物も豊富で、BC6Cから造っているワインはほとんどを国内で消費、
海外に流通しないこともあり、「ワイン大国の小国」と呼ばれています。
ハプスブルク家の軍用馬リピッツァナーの生産地や羊や牛の牧場なども車窓にしながら20分余り走ると、
前方にユリアン・アルプスが見えてきました。
山裾に広がる丘陵地帯にはコゾレッツと呼ばれる干し草掛けの棚が点在し、
国の重要文化財として取り壊しの許可が下りないものは看板として利用されていました。



4時半過ぎにリュブリャーナに到着後、現地ガイドさんと落ち合い、徒歩で街観光をしました。


先ず街の中心のプレシェーレン広場へ行き、広場の名前の由来となっているスロヴェニアの国民的詩人、
フランツェ・プレシェーレン(1800−1849)像を見ました。
「陽が昇る所、戦いはこの夜から消え、誰もが自由な同胞となり、境を共にする者は、鬼ではなく、隣人となる。
その日を待つ民、すべて久しかれ」という彼の詩は1991年の独立後に国歌とされたそうです。

右写真はその広場の一角ですが、左端の黄色い建物の2階左端に薄茶の構造物があるのがお分かりでしょうか。
それを拡大したものが、下の彫像ですが・・・




これはプレシェーレンが思いを寄せていた女性像だそうです。
いつまでも遠くから視線を投げかけているばかり、というのはちょっと切ない趣向ですね。


フランシスコ教会 三本橋

中央の1本が車道、両脇の2本が歩道という珍しい構造の三本橋は、ヨジェ・プレチニック(1872−1957年)が設計、
既存の木造橋を取り壊して、1930年代に造られた新・旧市街を結ぶ橋で、街のシンボルとなっています。
三本橋と西日を受けたフランシスコ教会が不思議なハーモニーを見せている広場でした。



龍の橋

ケーブルカー

リュブリャニツァ川沿いに肉屋橋を経て、龍の橋まで歩き、そこから右折して、リュブリャーナ城へ向かいました。


アイロン・ビル

ケーブルカー乗り場へ向かう途中に、アイロン・ビルと呼ばれるプレチニック設計の建物がありました。
ウィーンでオットー・ワーグナーに師事、プラハ城の修復にも活躍したプレチニックは、
リュブリャーナの都市計画に取組み、三本橋、龍の橋を始め、多くの作品を国内に残していますが、
特異な作風のために生前は冷遇され、1980年代になって再評価された建築家だそうです。

リュブリャーナ城の急勾配の斜面には5年前に開通したケーブルカーがあり、訳もなく、
70mほど上まで運んでくれました。



ローマ時代の城塞跡に1144年に封建領主スパンハイムによって創建されたリュブリャーナ城は、
1335年からハプスブルク家が支配を継承、ナポレオン軍兵舎や刑務所として使われた時代を経て、
1905年に市が買収し、修復を行って、今に至っているそうです。

旧ユーゴスラビアの中では経済的に恵まれ、人口の90%がスロヴェニア人のため、
セルビア人問題をほとんど持たなかったスロヴェニアは、10日間の軍事介入だけで1991年に独立、
2004年に旧ユーゴ連邦共和国の中で最初にEU加盟を果たしています。
そのスロヴェニアの首都リュブリャーナは、一国の首都としては小規模ながら、
ユリアン・アルプスに包まれ、落ち着きのある美しさを見せて、城内の塔の眼下に広がっていました。

現在では評価の分かれるチトー大統領は、右写真の黄色い建物の病院で1980年5月に亡くなったそうです。



地元の人を真似て階段途中のベンチ?で一休み


再び街へ降りて、12Cの木造教会を18Cに改築した聖ニコラス大聖堂へ行き、
1996年のヨハネ・パウロ2世の訪問を記念して造られた新しい青銅の扉を見ました。
最上段に法王像、その下に十字軍やオスマン・トルコの戦いなどの歴史物語がレリーフになっています。


ロパの噴水 市庁舎

ロパの噴水前でリュブリャーナ観光を終え、5時45分から25分程のフリータイムが取られました。



夫は市庁舎見物に、私はY添乗員さんお勧めのスロヴェニアの塩や塩チョコレートの買物をした後、
集合場所の三本橋へ戻り、夕暮れの街のひと時を楽しみました。



街の中心から少し外れた新市街に位置するトレンド・リュブリャーナ・ホテルに6時半に到着し、
7時15分からトマト・スープ、七面鳥ロール、フルーツ・サラダの夕食をスロヴェニア産ワインと共にいただきました。




お天気に恵まれ、目いっぱい詰まった日程を順調に消化した一日でしたが、
今なお惜しまれるのは、リュブリャーナ滞在時間の短さです。
ゆっくり街歩きをして、もっと魅力に触れてみたかったという思いを残した街でした。


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