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2022・11・7 (月)
明日香村
ダイワロイネットホテル奈良 奈良市総合観光案内所

昨夜の早寝が効いて朝早く目が覚めましたので、予定を早めて6時40分ごろホテルを出発し、
徒歩で近鉄奈良駅へ向かいました。
この日から4日間、ツアーは終日自由行動ということで、お天気次第のざっくり計画で奈良へやって来ましたが、
初日のお天気は上々、予定通りに「飛鳥を歩く」一日としました。
昭和9年(1934)建造、近代化産業遺産認定のJR奈良駅旧駅舎(総合観光案内所)が朝日を受けて、
昨夜とは一味違った和洋折衷様式の端正な姿を見せていました。


近鉄特急2階建てビスタカー

近鉄奈良駅から神戸三宮行の奈良線で大和西大寺駅へ行き、駅ホームのコンビニで朝食を調達した後、
ホーム自販機で特急券を購入、大和西大寺駅発7時40分の2階建てビスタカーに乗り込み、
橿原神宮前駅までの20分余りを朝食タイムとしました。
8時6分に橿原神宮駅に到着、8時29分発の吉野行き電車を待っている時、
「飛鳥へいらっしゃるのですか」と飛鳥ボランティアガイドの同年輩男性から声を掛けられ、
その日、グループ・ガイドをするという飛鳥観光ルート・マップをいただいたり、地元情報を得て、
早速、地元好意との出会いがありました。

   
飛鳥観光協会発行: 明日香村 観光マップ

飛鳥駅 飛鳥びとの館

8時33分に飛鳥駅に到着、ガイドさんお勧めの「明日香周遊バス1日フリー乗車券」(お得期間650円→400円)と
有料施設2カ所入れば元を取れるという「飛鳥王国パスポート」(100円)を「飛鳥びとの館」で購入して、
8時40分発の赤かめバスに飛び乗りました。

高松塚古墳 高松塚壁画館

当初は歩く予定だった高松塚までバスで2分で到着、550m徒歩7分ばかりを倹約したスタートとなりました。

江戸時代末に描かれた古墳の絵図に大きな松が描かれていたことによって「高松塚」とよばれた古墳は
周辺に天武天皇ゆかりの深い墓域が広がること、天皇の八角形墳とは違う円墳、壁画や副葬品から、
葬られたのは天武天皇の第9皇子の刑部親王(705年逝去)ではないかという説が有力視されています。
下段直径23m、上段直径18m、高さ5mの築造当初の2段式円墳に復元された古墳を見ることが出来ました。

昭和47年(1972)年に橿原考古学研究所の調査によって古墳壁画が発見された後、
平成19年(2007)に石室を取り出し、国営飛鳥歴史公園に隣接する施設で行われた壁画修理が、
令和2年(2020)に終了し、現在は年数回、修理作業室(ガラス越しの見学)が一般公開されていますが、
高松塚古墳の隣接地に昭和52年(1977)に開館した高松塚壁画館で、
石槨内部の模型や模写・模造壁画の展示を見ることができます。
高松塚壁画館に9時開館の10分ほど前に到着しましたが、快く時間前入館をさせていただきました。


北壁:玄武

     
西壁/東壁:女子群像 

              
西壁:月像                          東壁:日像
     
西壁:白虎                              東壁:青龍
     
西壁/東壁:男子群像

お馴染みの飛鳥美人壁画ですが、発見当初の姿を越前和紙に岩絵の具で忠実に模写した「現状模写」、
絵を見易くするため剥落や汚れを加減して模写した「一部復元模写」(上の掲載写真が該当)、
高松塚古墳石槨と同じ二上山系の凝灰岩に漆喰を塗って再現した「再現模造模写」と
様々に試みられた技術と芸術性の高い展示品は模写とはいえ、充分に見応えがありました。
高い身分を表す緑の傘を持った行列は、朝賀の様子を描いていると言われています。


  
副葬品レプリカ: 左より 海獣葡萄鏡  銀荘唐様大刀関係遺物  棺関係遺物

副葬品の海獣葡萄鏡と同じ文様の鏡が中国西安市に698年に造営された墓から出土していることから、
遣唐使の持ち帰り品とみなし、高松塚古墳が8世紀初頭に造営された根拠のひとつとされています。
盗掘口から内部の壁画が見られる発見当初の石槨の再現もありましたが、撮影は禁止でした。



高松塚古墳を出ると、飛鳥の代名詞「日本人の心のふるさと」に相応しい里山風景が広がっていました。
「アスカ」の由来は古朝鮮語の「アンスク(安宿)」、鳥名の「イスカ」、「ア(接頭語)+スカ(州処)」など諸説あり、
定説はみられませんが、「飛ぶ鳥の明日香」の枕詞としての「飛鳥」が独立して、
「あすか」と読まれるようになって、定着したことは確かなようです。

現在の明日香村は戸数2200戸、人口約5400人(令和3年4月現在)の農業を主な生業とする村で、
総面積2400ha全域が明日香村特別措置法に基づく歴史的風土保存地区、都市計画法に基づく風致地区、
景観法に基づく景観計画区域に指定され、1400年前の遺跡の宝庫として、
「日本国誕生」の記憶をとどめた類例のない歴史的風土が維持されている様子が窺えました。

天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)

高松塚古墳から15分余り歩いて、天武・持統天皇陵に到着しました。
古代律令国家の基礎を築いた天武天皇と、その志を継いだ皇后で皇位を継承し、
天皇として初めて火葬された人物と言われる持統天皇の合葬墳墓は、飛鳥に400基以上ある古墳の中、
鎌倉時代の盗掘の記録により被葬者が特定できる数少ない陵墓と言われています。
舒明天皇に始まった八角形の天皇墳墓は、生前の八角形の高御座と同様、死後の君臨を表しているそうですが、
直径50m高さ9m余りの天武・持統天皇陵は木が生い繁り、形状を確認することは出来ませんでした。

亀石 川原寺跡/弘福寺

観光マップでは道の細部が分からず、地元の方に尋ねながら、集落の一画に鎮座する亀石を探し当てました。
すぐ側にあった農産物無人販売所で買った100円の早生みかんで一服いれていると、
天武・持統天皇陵で出会った観光のシニア夫妻が前を通って行きましたから、
場所が分かりにくかったのはご同様だったと思われます。

奥行4m幅2m高さ2m、前方に顔のような彫刻が施された亀石と呼ばれる花崗岩の石は、
川原寺の境界を示す標石という説がありますが、
大和が湖であった時代、湖の対岸の当麻と川原で喧嘩が起き、当麻に水をとられて多くの亀が死んでしまったため、
川原の村人が亀の供養のために石を彫ったという伝説や、
当初は北向きだったものが現在は南西向き、これが西を向いて当麻を睨みつけた時には、
大和盆地が泥沼になるという言い伝えも持っています。
亀石から15分ほど歩いた所に川原寺跡と弘福寺がありました。

橘寺を遠望 橘寺入口の「聖徳皇太子御誕生所」石碑

厩戸皇子(うまやどのみこ)の幼名を持つ聖徳太子は祖父の欽明天皇の離宮の橘宮があったこの地で、
橘豊日命(後の用明天皇)と穴穂部間人皇女の元に敏達天皇3年(574)に誕生したと伝えられています。
垂仁天皇の勅命を受けて常世の国(中国雲南省?)へ不老長寿の薬を求めに行った
田道間守(たじまもり)が持ち帰ったトキジクノカグノコノミ(非時香菓)と呼ばれたタチバナが、
この地で芽吹いたことが橘という地名や寺名の由来と言われています。

本堂 本尊:聖徳太子像

推古天皇14年(606)に天皇の発願によって離宮を改造して造られた橘樹寺を始まりとする橘寺は
火災や戦禍による消失を重ね、江戸時代末期の元治元年(1864)に、
創建時に講堂があった場所に現在の本堂が建てられました。
この地で「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を講讃した35歳の木造聖徳太子坐像が本堂の本尊とされています。


二面石 三光石・阿字池

右の「善面」と左の「悪面」が人の心の善悪2相を表しているという二面石、
聖徳太子が勝鬘経を読んだ時、日月星の光を放ったと言い伝えのある三光石、
聖徳太子作と伝わる梵字を形どった小さな阿字池が境内にありました。

往生院 天井画

太子の念仏精神を生かすために平成9年(1997)に再建された念仏写経研修道場の往生院は、
格天井を著名な画家による260点の花の天井画が飾り、花の浄土を表していました。


橘寺東門(正門)

寺院としては異例の東面で建てられた橘寺へは西門から入って、正門の東門から出るという格好になりました。
外へ出ると、天武・持統天皇陵から抜きつ抜かれつ、同じルートを辿っていたシニア夫妻が走る姿が見え、
バス時間?と思いながら、私達も足を早めたお陰で、彼等より一停留所先の岡橋本から2停留所バスに乗り、
石舞台まで3分、徒歩10数分を倹約することが出来ました。


石舞台古墳
石舞台古墳玄室

石舞台古墳は東西55m南北52m、大小30個の花崗岩を積み上げて築かれた横穴式石室を持つ方形墳です。
築造は7世紀初めと推定され、被葬者は6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子という説が有力で、
古墳上部の封土が失われ、巨大な天井石が露出した独特の形を舞台に見立てたことが名前の由来となっています。
総重量約2300トンの重量感は長さ7.7m幅3.5m高さ4.7mの玄室の中で体感することができます。

  

11時過ぎに石舞台古墳近くの「農村レストラン 夢市茶屋(ゆめいちちゃや)」へ入り、
「古代米御膳」(1250円)を早めの昼食とし、
赤米ご飯、吉野葛と豆乳で作られた呉豆腐、大和真菜のお浸しなど、地元の味を楽しみました。


飛鳥宮跡 (旧称:伝飛鳥板蓋宮跡)

崇峻天皇5年(592)に推古天皇が豊浦宮で即位した後、舒明天皇以降の天皇たちが飛鳥地域に宮を置き、
政治文化の中心を担った平城京遷都までの約120年間が飛鳥時代と呼ばれています。

ヤマト王権の大王たちが巨大な古墳で権勢を誇示した古墳時代前半の古墳は飛鳥では未発見だそうですが、
古墳時代中頃から朝鮮半島から新しい技術を携えた渡来人が日本へやって来て歴史の表舞台に登場、
飛鳥でも渡来文化の影響を受けると共に、王権をめぐる激しい争い、豪族間の対立が深刻化し、
皇極天皇4年(645)の乙巳の変とそれに続く大化の改新、天智2年(663)の白村江の戦、
弘文元年(672)の壬申の乱など、歴史的な重大事件が相次いで起こりました。

その歴史の舞台となったのが、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、
天武天皇の飛鳥浄御原宮と先代の天皇の宮に重ねるように造られた飛鳥宮跡で、
伝飛鳥板蓋宮跡という呼称は現在は飛鳥宮跡に変更され、斉明・天武期の石敷き大井戸の復元が見られました。

そういう時代の流れの中で天武天皇の意志を継いだ持統天皇が飛鳥浄御原令を完成させ、
持統8年(694)に藤原京へ遷都、大宝元年(701)に大宝律令を完了し、律令国家を誕生させました。


日本という国家の原型を造り、現在も奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査が続けられている飛鳥宮跡から、
飛鳥寺へ向かう途中、観光マップのルートより西側の農道を歩いたことに気付き、逆戻りすることにもなりましたが、
飛鳥歩きには車が通る県道より農村風景の方が相応しいと言い訳できるロスタイムでした。


飛鳥寺

蘇我馬子が崇仏の拠点として崇峻天皇元年(588)に建立を計画、推古4年(596)に完成した日本初の仏教寺院が
創建当時は法興寺、後に元興寺、現在は「安居院」を正式の寺名とする飛鳥寺です。
鎌倉時代に寺社のほとんどが焼失し、現在の本堂は文政9年(1826)に再建されたものです。

建立計画から完成までの間に馬子が渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇を殺害、
蘇我氏が渡来人という結論を見ない説もあるようですが、飛鳥寺創建に百済系の工人が関わっていることから、
蘇我氏と百済の関係が親密であったことは間違いないと考えられています。

    
左より: 聖徳太子孝養像(室町時代)  飛鳥大仏(飛鳥時代)  阿弥陀如来(藤原時代)

本尊の釈迦如来坐像(通称:飛鳥大仏)は、推古13年(605)に推古天皇、聖徳太子、諸王、大臣(蘇我馬子)らが
誓いを立てて発願し、鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像で、
銅15t、黄金30kgを用いて造られた高さ約3mの大仏は、平安・鎌倉時代の火災で全身罹災、後補を受けながらも、
飛鳥様式をよく留め、右に少し振れたアルカイック・スマイルの顔は橘寺を向いているとも言われています。


    
藤原時代の仏像や各種瓦の発掘品


飛鳥寺西門
蘇我入鹿首塚

飛鳥寺の西門を出た先に、乙巳の変の折に中大兄皇子と中臣鎌足に殺害された蘇我入鹿の首が
飛鳥板蓋宮から飛んできたという伝説をもつ五輪塔「入鹿首塚」がありました。

亀形石造物・小判型石造物

首塚を見た後、有名な石造物を見るために、飛鳥寺から県道を少し南へ戻りました。

亀形石造物・小判型石造物は平成12年(2000)に発見され、「ミレニアムに出現した亀仙」と称される遺構で、
斉明期に造営、改修を重ねながら平安時代まで250年存続したことが分かっている導水施設です。
長さ2.4m幅2mほどの石造物は現地にそのまま残され、チケット売り場の関所はありますが、
周辺400㎡部分を自由に見学することが出来ます。

天理砂岩の石垣(レプリカ) 酒船石

亀形石造物から、小高い丘を登っていくと、平成4年(1992)に発見された天理砂岩の石垣があり、
さらに登ったところに松本清張「火の路」を読んで以来、是非見たいと思っていた「酒船石」がいともあっさりと、
長さ5.5m幅2.3m高さ1mの姿を見せてくれました。
これらの石造物がある丘は盛土された人工の丘陵で、斉明天皇の「両槻宮(ふたつきのみや)」とも推定され、
このあたり一帯を「酒船石遺跡」と名づけ、飛鳥宮跡と合わせた今後の調査、解明が待たれています。

飛鳥坐神社

酒船石遺跡を出て県道を北へ向かうと飛鳥坐神社があり、鳥居先の見上げる程長い石段に躊躇しましたが、
由緒のありそうな佇まいを見て、頑張って、立ち寄ることにしました。
大国主の国譲りの折、相談を受けた大国主長男の事代主を主祭神とする飛鳥坐神社の創建は明らかではありませんが、
80万の神を統率し、高市(小高い所にあるまつりの庭)に集まり、天高市(飛鳥)に鎮まったと社伝にあり、
「結びの神」「創造・創作の導き神」として信仰を受ける神社であると案内板に書かれていました。
様々な場所で出会う出雲には興味惹かれるものがあります。



飛鳥坐神社を出ると、かつての参道でしょうか、奈良県道124号橿原神宮東口停車場飛鳥線という
無粋な名前が似つかわしくない趣きある民家が並ぶ一画がありました。

飛鳥水落遺跡(複製模型)

次に立ち寄った飛鳥水落遺跡は、斉明天皇6年(660)に中大兄皇子が造ったとみられる漏刻(=水時計)で、
最新、最高の科学技術を駆使した国家事業ともいえる時計装置の製作と運用は、
律令国家確立の記念碑であると評価されている遺跡です。

水落遺跡見学後、隣接の「あすか夢の楽市」のベンチ席で楽市のお茶と焼き菓子で一服入れた後、
最後の見学地、甘樫丘へ向かいました。

甘樫丘展望台から東方を望む (大きな屋根が飛鳥寺)
    
大和三山 左より: 畝傍山 耳成山 香具山 

豪族から大王へ、さらに天皇による律令国家へと移っていった古代日本の痕跡を辿る「飛鳥を歩く」一日の終わりを、
蘇我蝦夷・入鹿親子が居を構え、飛鳥宮を見下ろしていたと伝わる標高148mの甘樫丘の丘で迎え、
双眼鏡を取り出して飛鳥一望を堪能した後、徒歩で体感した飛鳥の広さと狭さを記憶にとどめ、
小雨がパラつき始めた中、丘を下りました。

甘樫丘 豊浦休憩所 甘樫丘バス停

甘樫丘から樫原神宮駅までの徒歩45分の区間はこれといった見どころもなさそうでしたので、
計画当初から「赤かめ」周遊バスに乗ることを決めていて、
甘樫丘15時28分のバスに乗って、15時37分に樫原神宮駅へ戻りました。
余力があればと考えていた樫原神宮、藤原京跡、今井町などの観光は今回は割愛し、
樫原神宮駅15時56分発の特急に乗り、大和西大寺を経由して、近鉄奈良駅へ戻りました。



    

近鉄奈良駅からホテルへ帰る途中、昨夜入った三条通り「やまと庵」の隣の「はなれ」店へ5時に入店、
お店の看板となっている焼き鳥や釜めしで、早めの夕食としました。

甘樫丘で天気予報になかった予想外の小雨にあいましたが、それもさしたる支障とならず、
ほぼ予定通りに飛鳥を歩くことが出来たことに充足を感じながら、自由行動の初日が暮れました。
   
                  *2日目歩数(スマホ計測):26429歩

          参考: (財)古都飛鳥保存財団HP 「古代飛鳥を歩く」(中央公論新社 千田稔 著)ほか 


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