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2022・11・8 (火)
西ノ京~平城京跡

奈良3日目は西ノ京と平城京跡周辺を歩きました。
昨夕の食事時間が早かったため、空腹に備えてコンビニで買ってあったサンドイッチを朝食にして、
8時前にJR奈良駅バス乗り場へ行くと、西ノ京方面行きのバスは1時間に2本しかないことが判明、
薬師寺までタクシーで向かうことになりました。


薬師寺南門 休ケ岡八幡宮

8時15分に薬師寺南門前に到着、8時半の拝観受付時間まで近辺を歩くと、
すぐ南側に薬師寺を守護するという休ケ岡八幡宮がありました。
寛平年間(889~898)に栄紹別当が宇佐八幡宮から僧形八幡神、神功皇后、中津姫命を勧請した八幡宮は、
幾度もの天災、兵火で破壊、焼失した後、現在の社殿は慶長8年(1603)に豊臣秀頼の寄進によって造立、
休ケ岡という地名は斎衡2年(855)に大安寺の行教和尚が石清水八幡宮に八幡大神を勧請した時、
大神がこの地で休息をしたことに由来すると伝えられています。
現在も八幡宮での祭礼には薬師寺の僧侶が参列して神前読経を行い、
薬師寺の行事の際には僧侶が参詣して八幡大神に守護を願い、
日本古来の
本地垂迹、神仏習合の信仰を残す歴史的にも重要な建造物のひとつとされています。


南門~白鳳伽藍~玄奘三蔵院伽藍を拝観

   
中門

南門を入ると昭和59年(1984)に再建された回廊と一続きになった山門(中門)があり、
安土桃山時代に焼失した「二天王像」を平成3年(1991)に復元したという二天王が門前を守っていました。
彩色鮮やかな武装の二天王像は、今なお復興を続ける薬師寺のシンボルの一つとなっているようでした。

  
左より: 東塔 金堂 西塔

天武天皇9年(680)に皇后・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)の病気平癒を願って発願、
建立を待たず崩御した天武天皇の意志を継いだ持統天皇によって藤原京に造営された薬師寺は、
和銅3年(710)の平城京遷都の後、養老2年(718)に現在地に移転という歴史を持っていますが、
度重なる災厄で伽藍のほとんどを焼失した中、
東塔(逆光が残念)が天平2年(730)の創建当時から残る建造物として国宝の指定を受けています。

昭和中期から高田好胤管長の「写経勧進」などで再建が図られ、
東西に2基の塔、中央に金堂を配する「薬師寺式伽藍配置」と呼ばれる日本初の伽藍配置方式、
堂塔の各層に裳階(もこし)を付けた「龍宮造り」で、
昭和51年(1976)に金堂、昭和56年(1981)に西塔が復元され、天平の輝きを取り戻しているようでした。
因みに薬師寺の建物や仏像が藤原京からの移建か、平城京に新しく造営したものかは学説が分かれ、
いまだ結論を見ていないようですが、薬師寺では白鳳(=藤原)伽藍と通称していました。

                   *以下の仏像写真は寺社公式HP、「週刊 世界遺産」(講談社)より借用


月光菩薩 薬師如来坐像 日光菩薩

文武天皇元年(697)に持統天皇によって開眼された薬師寺本尊の薬師如来像は、
白鳳時代を代表する像高254.7cmの金銅仏で、
享禄の兵火によって金堂が焼失した時に光背は焼失したものの、本体は当初の造形を残していると言われ、
古代の技術の高さがうかがわれる薬師三尊像のいずれも国宝とされています。
   
大講堂 鐘楼


弥勒三尊像

創建当初の規模で平成15年(2003)に落慶された薬師寺の講堂は薬師寺最大の建物で大講堂と称され、
弥勒三尊像を本尊としています。
国宝の仏足石、仏足石歌碑のほか、落慶時に奉納された中村晋也作(文化勲章受章)の釈迦10大弟子像が
堂内に安置されていました。

東僧房(売店、休憩所)の南にある鐘楼には兵火の跡、移転歴など、様々な歴史を刻んだ梵鐘が釣られていて、
大晦日には申し込み制で「除夜の鐘」を衝くことができるようです。

大講堂内部を拝観した後、平成29年(2017)に再建された食堂で特別公開されていた
田淵俊夫筆による食堂本尊「阿弥陀三尊浄土図」や全長50mの壁画「仏教伝来の道と薬師寺」を鑑賞、
中国から飛鳥、平城京までの仏教伝来の遠い道のりに思いを馳せるひと時を過ごしました。

   

食堂に隣接する西僧房では12年に及ぶ全面解体修理が行われて、令和3年(2021)に竣工した
東塔の水煙も特別公開されていました。
塔を禍から守るという水煙は火炎模様がデザインされることが多い中、
薬師寺東塔の水煙には飛雲の中に笛を吹き、花をまき、衣を翻して舞う24人の飛天が透かし彫りにされ、
高所の細部にまで技巧を施した古代人の感覚、卓越した技術や意匠に深く感じるものがありました。

     
東塔部品 左より: 相輪檫管(さつかん)  相輪  頭貫止め釘 三層の古材「大斗」

総重量2930kg、総高10.3mの相輪(仏塔の最上層の頂部に立つ金属製部分の総称)の他、
再建された東塔の部品の数々が国宝の指定を受けて展示されていました。
相輪檫管には聖武天皇の発願、持統天皇の造営という縁起が檫名として記され、
薬師寺創建に関わる最古の記録の一つとなっています。


東塔と金堂



    
 東:青龍 西:白虎 南:朱雀 北:玄武 

創建当時と同じ壮麗さが蘇った東塔と金堂をもう一度カメラに収めながら立ち寄った東僧房には、
金堂本尊の薬師如来坐像の台座模型が置かれ、
ギリシア、ペルシア、インド、中国由来の文様や彫刻が奈良時代の東西文明交流の証しとなっていました。

玄奘三蔵院 大門 玄奘三蔵院境内から東塔を望む
礼門 玄奘塔

與楽門(よらくもん)から白鳳伽藍を出て、玄奘三蔵院伽藍へ向かいました。
玄奘三蔵伽藍は唐時代に17年間求法の旅をして唯識の教えを究め、
法相宗の始祖とされる玄奘(602?~664)を顕彰するために、平成3年(1991)に建立されたものです。
礼門と回廊で囲まれた中庭に玄奘塔があり、玄奘塔の北側の大唐西域壁画殿で、
平山郁夫が30年の歳月を費やして描いた「大唐西域壁画」が特別公開されていて、
中国とインドを結ぶ玄奘三蔵の求法の旅を偲ぶことができました。


歴史之道: 薬師寺→唐招提寺

唐招提寺 南大門

9時半過ぎに薬師寺を出て、「歴史之道」を北へ10分ほど歩いて、唐招提寺の南大門に到着しました。
南大門は昭和35年(1960)に天平様式で再建された5間3戸の切妻造りの建物で、
正面に孝謙天皇宸筆の扁額(複製)が掲げられていました。


孝謙天皇宸筆の扁額


南大門内側




唐招提寺金堂

南大門を入ると、かつてあったと伝わる中門はなく、堂々とした金堂がまっすぐに視界へ入ってきました。
唐招提寺で唯一、天平の創建時代の遺韻を留めているのが金堂で、
前面1間に立つギリシア神殿を彷彿させる8本のエンタシス円柱列がつとに有名な堂宇です。

聖武天皇が天平13年(741)に国分寺建立の詔を発令するとともに、「授戒伝律」の師を招聘するために、
栄叡、普照を唐へ派遣、その要請を受けて、高僧鑑真が6度目の渡海で天平勝宝5年(753)に来朝を果たし、
東大寺大仏殿前の戒壇で聖武天皇をはじめとして、400人余りの僧俗に戒律を授けた後、
天平宝字2年(758)に右京5条2坊の新田部親王の旧宅が下賜され、
翌年、律宗の根本道場である戒院を設けたことが唐招提寺の始まりとされています。
鑑真没後に唐から随行して来た如宝が金堂、その弟子の豊安が五重塔を建立、
9世紀の初頭まで堂宇の整備が続けられ、13世紀に覚盛上人が寺域を整えた後、兵火や災害で荒廃した寺は
徳川5代将軍綱吉と母の桂昌院らの帰依によって大規模な修理が施されたと伝えられます。

   
左より: 千手観音立像    廬舎那仏坐像    薬師如来立像

金堂内は中央に本尊廬舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像、
脇を四天王立像、梵天・帝釈天立像が守り、筆舌に尽くせない厳かな空間となっていました。
これら重量感あふれる木彫像は鑑真と共に渡来した仏師達が日本の木材に着目して生まれたと言われます。

礼堂 鼓楼

金堂の北に鎌倉時代に建てられた礼堂と鼓楼が並び立っていました。
鑑真和上将来の仏舎利が金亀舎利塔に収められて厨子に安置された鼓楼は舎利殿とも呼ばれ、
仏舎利を礼拝する礼堂には釈迦如来立像と日々の勤行礼拝用の日供(にく)舎利塔が安置されています。


講堂

平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築、現存する唯一の奈良時代の宮殿建築の講堂は、
鎌倉時代に切妻造りから入母屋造りへ、扉と連子窓を開けて仏堂らしく改築されたと考えられています。

   
左より: 持国天立像   弥勒如来坐像   増長天立像

講堂の内部には本尊の弥勒如来坐像や持国天、増長天立像のほか、多くの像が安置されています。


宝蔵(左)と経蔵(右)

礼堂の東に校倉造りの宝蔵と経蔵が並んでいました。
経蔵は新田部親王邸の米倉を改造したもので、唐招提寺最古の建造物であると共に日本最古の校倉です。
唐招提寺創建に合わせて建立されたと伝わる宝蔵とともに国宝の指定を受けています。

鑑真和上御廟 入口門
御廟参道

境内の北東端に、来日して10年目、天平宝字7年(763)に亡くなった鑑真和上の廟所がありました。
杉木立の参道の林床は見事な美しい苔庭になっていました。




廟所南側に礼拝台があり、石段上に宝篋(ほうきょう)印塔が置かれていました。
昭和38年(1963)に鑑真和上遷化1200年の記念事業として、和上の故郷・揚州から贈られた瓊花(けいか)が
春の終わりごろ、御廟前で香り高い白い小花を咲かせるそうです。

御影堂入口 開山堂

御廟前から西へ土塀が続く中に、御影堂や開山堂がありました。
御影堂は興福寺の別当坊、一乗院宸殿の遺構を昭和39年(1964)に移築復元した建物で、
鑑真和上坐像(国宝)が安置されていますが、通常は非公開とされています。
開山堂は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立、明治14年(1881)に現在地へ移転して、
鑑真和上尊像を安置していましたが、和上像が御影堂へ移された後、
覚盛上人、聖武天皇、徳川家康の坐像を本願殿とし、御堂の老朽化で改修工事を行った後、
平成25年(2013)に和上の姿を写した「御身代わり像」を作製し、再び開山堂として落慶しました。
その鑑真和上御身代わり像は栃木県立博物館に貸出中の貼り紙があり、お留守となっていました。


「若葉して御目の雫拭はばや」-開山堂前の芭蕉句碑-

中興堂 訶梨帝母社(かりていもしゃ)

中興堂は鑑真和上の再来と謳われた覚盛上人(1193~1249)没後750年忌を記念して、
平成11年(1999)に建てられた祖師堂で、覚盛上人坐像と共に、
昭和の中興と言われる第81世森本孝順長老坐像も安置されている非公開御堂です。
中興堂の向かい側には鬼子母神と同神といわれる訶梨帝母を祀る小さな社がありました。

社寺林の小径 醍醐井戸

社寺林の気持ちの良い小径を進むと、境内北西端に鑑真和上が自ら掘ったと伝わる醍醐井戸がありました。
その前には蓮池が広がり、夏の華やかな景観が想像されます。

戒壇

境内南端に創建時に築かれた後、中世に廃され、再興後に火災で建物が失われ、
石壇だけが残った鎌倉時代の戒壇があり、
インド・サンチーの古塔を模して昭和53年(1978)に造られた宝塔が載せられていました。


平城京時代の奈良

唐招提寺を10時45分頃に後にして、秋篠川沿いのサイクリングロードを歩き、大宮通りを経由し、
11時35分に復元遣唐使船が置かれた朱雀門近くの平城宮跡歴史公園入口に到着しました。


秋篠川サイクリングロード
復元遣唐使船
  

復元遣唐使船に面した天平うまし館のカフェ「IRACA COFFEE」で少し早めのランチタイムとし、
奈良の定番食材らしいヤマト豚のカツカレーと古代米のシルクロードカリー(単なるイメージ?)を選びました。


午後コース:朱雀門→東院庭園→法華寺→海龍王寺→第一次大極殿→平城宮跡資料館


朱雀門

大極門を遠望 オギ群落

和銅3年(710)に藤原京から遷都、奈良盆地の北端に唐の長安をモデルにして設計された
南北約5km、東西約6kmの平城京の中央北端に政治の中心として造られたのが約1km四方の平城宮です。
平城宮の正門である朱雀門は平成10年(1998)に復元されたもので、
その北側の大極門(南門)や工事シートに覆われた建築中の東楼の間を近鉄の電車が通過する光景や
見事なオギ群落をカメラに収めた後、東院庭園へ向かいました。

建部門 (東院南門) 西建物

朱雀門から整備された二条大路を東へ歩き、東院南門から東院へ入りました。
昭和42年(1967)に東院南東隅に大きな庭園遺跡が発見され、
平成7年(1995)から平成10年(1998)にかけて復原されたのが平城宮東院庭園です。

この古代宮城には他に例をみない東の張り出し部分は東院、東宮と呼ばれ、
南半に神護景雲元年(767)に称徳天皇(在位764-770)が迎賓館として東院玉殿を建築しましたが、
最近の研究では同地に光仁天皇の楊梅宮はもとより、聖武天皇の南苑(南樹苑)もあったと考えられています。

            
             
西建物展示物

西建物の内部はガイダンス部屋となっていて、三彩の丸瓦や緑釉の平瓦、軒瓦、面取りした八角柱などの
出土品の数々、復原に関する歴史、手法、方針などを説明したパネル展示がありました。

中央建物 露台と平橋

「控えの間」と位置づけられた西建物を出て、その前に巡らされた板塀を抜けると、
予期以上の美しい、優美な景色が目前に現われ、天平時代にタイムスリップした気分を堪能できました。
敷地の中央に複雑な形の汀線を持つ州浜式の池を設け、周囲にいくつもの建物を配した庭園は、
大陸式庭園から平安時代以降に発展した日本式庭園への変化が見られ、
日本庭園のルーツといえる古代庭園として、平成22年(2010)に国の特別名勝に指定されています。

   
左より: シャシャンボ  ミツバツツジ(ピンぼけ・・・)  シャリンバイ

園内の池の堆積土から採取した植物遺体(枝葉、種子、花粉)を分析した結果、奈良時代後半には
アカマツ、ヒノキ、ウメ、モモ、センダン、アラカシ、イチイカシ、シラカシ、ヤナギ、サクラ、ツバキ、ツツジなどが
植えられていたと推定、万葉集や懐風録などの庭園描写も参考にして樹木を選定、
樹高、太さ、植栽位置にも配慮された復原が見られる庭園となっていました。

法華寺 南大門  赤門 (拝観入口)

東院庭園から人通りのない住宅地を抜け、地元の方に道を教わりながら、10分程で法華寺に到着しました。
法華寺は聖武天皇皇后の光明皇后が父の藤原不比等から譲り受けた広大な地を皇后宮とし、
天平13年(741)の国分寺、国分尼寺の詔の発令を受け、「法華滅罪之寺」を建立したことに始まり、
娘の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)に引き継がれて総国分尼寺として隆盛した大寺で、
5本の横線が刻まれた筋塀が門跡寺院の寺格を今に伝えていました。

本堂 浴室(からふろ)

平城京が廃された後、衰退の一途を辿る法華寺に吉野行幸の途中に立ち寄った宇多上皇が嘆いたと伝わり、
南都焼討ち後に一層荒廃した寺院は、鎌倉時代に西大寺の叡尊、江戸時代に豊臣秀頼と淀君によって
復興が図られ、今見られる建物のほとんどは慶長6年(1601)から7年かけて再建されたものと伝わります。

寺域が興隆期の3分の1程度に縮小されたと考えられている境内には、
正面の一間を開き、その左右二間に白障子を配して尼寺らしい温和な趣きを見せる本堂、
施薬院や悲田院をおいて貧民救済をした光明皇后が寺内に設け、千人の垢を流したと伝わる
平成15年(2003)に半解体修理が行われた蒸し風呂「からふろ」のほか、
近年の建築と思われる寺宝を収めた慈光堂、鐘楼堂、護摩堂などがありました。

  
一面観音菩薩立像               絹本着色阿弥陀三尊

幸いにも国宝の十一面観音菩薩立像、絹本着色阿弥陀三尊および童子像の特別公開に出会えました。
カヤ材の一本彫で造られた十一面観音は光明皇后が蓮池を歩く姿を写したとされる法華寺の本尊で、
造形の見事さ、蓮の花や葉を茎の先に飾った珍しい光背は唯一無比のものと思われました。
絹本着色阿弥陀三尊は平安時代~鎌倉時代初期のものと考えられている仏画です。

海龍王寺

法華寺から北東へ歩いて5~6分に位置する海龍王寺は平城京遷都の時、
付近を治めていた土師氏から土地を譲り受けた藤原不比等が土師氏ゆかりの寺を残したことが起源で、
光明皇后が遣唐使の無事帰還を祈願して天平3年(731)に寺域を整備拡大したことを寺の創建とし、
敷地の北東隅にあったことから隅寺とも呼ばれています。
伽藍が整った天平6年(734)に玄昉が荒れる海で海龍王経を唱えながら約20年振りに唐から帰国、
聖武天皇から海龍王寺の寺名を与えられた隅寺に住持して、天皇夫妻に最新の仏教・仏法や
鎮護国家の基礎とした仏教政策を伝え、天皇家の私寺院、宮廷寺院として天皇家を支えていきました。

本堂 西金堂

都が平安京へ移ってからは、法華寺と同じく衰退、鎌倉時代に叡尊の滞在をきっかけに伽藍の復興が進められ、
貞治4年(1365)から明和3年(1766)まで、5名の西大寺長老を輩出し、真言律宗の筆頭格寺院となりましたが、
時代と共に衰退、特に明治の廃仏毀釈で大きな打撃を受け、昭和28年(1953)まで荒廃にまかされた後、
昭和40年(1965)から2年かけて西金堂、経蔵の解体修理が行われたそうです。

   
十一面観音菩薩立像             五重小塔    

ここでも運よく、光明皇后が自ら刻んだ十一面観音像をもとに慶派の仏師によって鎌倉時代に造られた
海龍王寺本尊の十一面観音菩薩立像の特別開帳に出会うことが出来ました。
創建当時の西金堂内に安置されている五重小塔は、天平時代の建築技法を伝え、
建築様式の発展がたどれる重要な建造物として、国宝の指定を受けています。

推定宮内省
礎石 柱跡を表すツゲ植栽
    
国道24号線を西へ向かい、再び、平城宮跡へ戻りました。

時代を経て、すっかり田畑と化してしまった平城宮跡に江戸時代末から関心を寄せる人が現れ、
明治33年(1900)に奈良県技師の関野貞が遺跡の重要性を新聞紙上で訴えたことを契機に、
棚田嘉十郎や溝辺文四郎など地元住民を中心に「平城宮址保存会」「奈良大極殿址保存会」が設立され、
保存活動の機運が高まり、調査が進められて、大正11年(1922)に第二次大極殿と東区朝堂院跡が
国の史蹟の指定を受けたというのが平城宮跡のざっくり歴史です。
その後、昭和34年(1959)から本格的に始められた奈良文化財研究所による調査によって、
平城宮跡は世界に類をみない地下遺構、歴史の宝庫であることが明らかにされましたが、
対象面積123.6haの中、発掘が終わっているのはいまだ4割ほど、
研究成果に基づく復原された建物群や礎石、柱跡を表すツゲ植栽などを見て歩きながら、
いつか又、ゆっくりとこの地を訪れて、天平時代に思いを巡らせてみたいと思いました。


第一次大極殿

大極殿は元日朝賀や天皇即位など国家儀式の際に天皇が出御する古代宮都の中心施設です。
遷都1300年に合わせて平成22年(2010)に復原された第一次大極殿の中へ入って、
高御座の模型や上村淳之による四神十二支の壁画などを見学しました。


建築中の東楼と大極門北面 大極門の南正面

大極殿の南に国史蹟指定から100年を迎えた今年の春に復原が完成した大極門がありました。
隣の素屋根の中は3年後に完成予定の東楼で、その後、西楼も建造される予定です。

  

   
平城宮跡資料館

平城宮跡を後にして大和西大寺駅へ向かう前に平城宮跡資料館に立ち寄りました。
宮殿復原、遺物展示、官衙復原、考古化学科学などを惜しげなく(しかも無料!)展示した館内で、
設立70周年を迎えた奈良文化財研究所の研究成果を見学させていただきました。
保管する約30万点の出土木簡は、毎年秋に「地下の正倉院展」として特別展示が行われています。

西大寺東門 四王堂
本堂 愛染堂

4時半頃に大和西大寺駅に到着、歩き疲れた夕刻でしたが、
称徳天皇、道鏡、藤原仲麻呂ゆかりの西大寺の外観だけでも見ておきたいと思い、
一足延ばして、写真を撮って帰りました。
東の東大寺と並ぶ大寺として栄華を極めた西大寺も平安京遷都と共に衰退していきましたが、
叡尊(1201~90)が嘉禎元年(1235)に真言律宗の根本道場として再建、
現在見られるのは江戸初期以来に整備された伽藍配置です。


  
「The Olive Dining」

   

5時過ぎに近鉄奈良駅へ戻り、小西さくら商店街のレストランで久し振りの洋食とワインで疲れを癒しました。
時間が早く、お店に入った時は他の来客がなく、広い店内に心細さを感じましたが、
やがて2~3組が入り、気分もお腹も落ち着いて来ました。


皆既月食

ホテルへの帰路、三条通りで見る間に欠けていく442年振りの皆既月食をみることが出来ました。
JR奈良駅前「スーパーホテルLohas」18時45分の写真です。
この日の歩数(スマホ計測)は28187歩、今回の旅の最高記録となりました。


                 参考: 「奈良の寺社150を歩く」(PHP新書 槇野 修 著)ほか 



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