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2022・11・9 (水) |
東大寺~新薬師寺~興福寺~ならまち |
今回の奈良7日間滞在の旅は基本的には食事が付いていなかったのですが、
旅行社から一日分だけ宿泊ホテルの朝食券(@2200円)が配布されました。
そこで早朝に東京を発って9時過ぎに奈良へ到着、2日間私達に合流する次女に合わせて、
朝がゆっくり目の4日目に朝食券を使うことにし、8時頃、レストランへ行きました。
レストラン「あす香」の入り口で食事券と交換のように渡されたのが2枚のビニール手袋でした。
インバウンド観光客が増え、指摘を受けて「Sorry!」とマスクを取りに戻る宿泊客などを見ながら、
ビニール手袋をはめてトングやスプーンを使うというコロナ対応レストランで、
和洋食ビュッフェの中から、茶粥、のっぺ汁など奈良の郷土食をいただきました。
9時半頃にJR奈良駅前で次女と落ち合い、先ず三条通りの「みむろ」へ寄ってお土産の発送を依頼しました。
弘化年間(1844~8)に三輪の大神神社大鳥居前で営業をはじめた「白玉屋榮寿」は、
一子相伝で7代にわたって継いだ最中、大神神社ご神体の三諸(みむろ)山に因んだ「みむろ」で有名で、
漉しあんと粒あんを練り混ぜた餡ともち米の厚めの皮を特徴としていて、
荷崩れを防ぐために店頭販売ではない荷送品は和紙で個別包装したものが届けられます。
その後、近鉄奈良駅へ寄って翌日乗車する近鉄「吉野山・蔵王堂特別拝観券付割引きっぷ」を入手してから、
この日予定の観光エリア、奈良公園方面へ向かいました。
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大宮通り(登大路) |
氷室神社 |
平城京時代は朱雀大路をはさんで西側の右京、東側の左京が都の中心でしたが、
平安京遷都の後、奈良坂が京都との交通路となってからは、
左京の張り出し部分の東大寺、興福寺、春日大社があるかつて外京(げきょう)と呼ばれた東北地域が発展、
現在に至るまで奈良公園を擁する東域一帯が奈良市の中心となっています。
奈良へ来たことを実感させられる人と鹿が共存する風景を見ながら大宮通りを歩いていくと、
春日野の氷池で結氷させた氷を氷室に蓄え、守護神を祀り、
奈良朝7代、平城京へ氷を納めたことを由緒とする氷室神社がありました。
昔は春日大社の別宮、明治以降は氏子と製氷業者たちの奉賛によって維持されているそうですが、
招き鹿?も神社存続に一役買っているようでした。
東大寺境内図
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南大門 |
戻って来た観光客、修学旅行・遠足の生徒たちでにぎわいをみせる東大寺から観光をスタート、
東大寺ミュージアムで大仏殿・東大寺ミュージアムのセット券を入手して、南大門へ向かいました。
南大門
天平時代創建当初の門が平安時代の大風で倒壊し、鎌倉時代に東大寺を復興した重源上人によって、
正治元年(1199)に上棟、宋様式で再建されたのが今に残る南大門です。
21mの大円柱18本で建てられた南大門の堂々たる威容、運慶や快慶ら仏師達によって69日間で造像、
建仁3年(1203)の南大門竣工と同時に奉納された像高8.4mの金剛力士像の迫力ある風格は、
東大寺が国内随一の寺院であることの証しと思えました。
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入江泰吉旧居 |
工事中の戒壇堂 |
中門へ向かう途中「戒壇堂」の矢印標識を見つけ、特別公開がある筈と左折すると特別展の雰囲気はなく、
人通りの少ない道に不安を感じつつ、入江泰吉旧居などを見ながら進むと戒壇堂にぶつかり、
東大寺ミュージアムで開催中の「特別公開 戒壇堂 四天王立像」展が特別展で、
修理・耐震化工事中の戒壇堂の引っ越し展であることが判明しました。
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戒壇院千手堂
鑑真和上坐像 千手観音像・四天王立像 -千手堂パンフレット転載-
それでも令和2年(2020)から3年間、戒壇堂の工事中、
慶長10年(1605)に再建された戒壇院千手堂が特別公開されていることが分かり、
黒漆の春日厨子に安置された本尊の千手観音像や四天王立像(共に鎌倉時代作)、
天平時代に来朝して戒律を伝えた鑑真和上坐像(江戸時代作)を拝観することが出来ました。
特別展というだけでお得感が得られた千手堂を出て、
金色の鴟尾(しび)を載せた屋根が見える大仏殿方面へ向かい、中門から大仏殿へ入りました。
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東大寺大仏殿
東大寺の大仏殿は奈良時代に創建後、治承4年(1180)の南都焼討と永禄10年(1567)の三好・松永の乱の
2度の兵火で焼失、現在の建物は江戸時代に公慶上人によって再建されたものです。
桁行11間(約88m)あった天平・鎌倉時代の大仏殿は財政理由で7間(57m)に規模縮小されていますが、
高さ(48.7m)や奥行(50.4m)は創建時のままで、世界最大級の木造建造物として国宝指定を受けています。
音声菩薩 八角燈籠 扉
大仏殿の前方に再度の兵火の難を逃れた東大寺創建当初の八角燈籠が残っていて、
火袋の菱格子の透かし地に施された音声菩薩、扉の獅子の見事な浮き彫りが見逃せない逸品でした。
竿の部分には燃燈の功徳を説いた経典(←読解不能)が刻まれているそうです。
虚空蔵菩薩 廬舎那大仏 如意輪観音
聖武天皇の発願で創建された東大寺本尊の大仏は廬舎那(るしゃな)仏または毘盧遮那(びるしゃな)仏と呼ぶ
太陽を意味する仏で、密教の大日如来と同一とされています。
斉衡2年(855)の大地震で頭部が落下、南都焼討の兵火で焼失した大仏殿を俊乗房重源が復興に着手、
源頼朝の協力も得て、文治元年(1185)に後白河法皇を導師として開眼供養が行われた後、
鎌倉時代には教学活動も活発になり、多くの学僧を輩出しましたが、
三好・松永の乱の後、伽藍は僅かな建物を残して灰燼に帰し、約120年の間、雨ざらし状態だったそうです。
その後、貞享元年(1684)に公慶上人が廬舎那仏の修造を江戸幕府に願い出て許可され、
同3年から大仏鋳造に着手、仏頭と蓮弁を補鋳し、元禄5年(1692)に開眼供養を行なうと同時に、
大仏殿の再建も進められ、宝永6年(1709)に落慶供養を行なった後、30年の歳月をかけて、
中門、東西回廊、東西楽門、虚空蔵菩薩・如意輪観音両脇侍も増立され、現在の寺観が整えられていきました。
様々な歴史の波をくぐって安住した大仏様は(像高約15m頭部5.3m目長約1m顔長5.3m台座高3m)
奈良を代表する顔であるといっても過言ではないと思われます。
増長天像頭部 広目天 多聞天 持国天像頭部
諸仏修造の最後に残された四天王立像は寛政11年(1799)の広目天に続いて多聞天も完成しましたが、
素木(しらき)の頭部のみが残された増長天と持国天は異様な姿で堂内に安置されていました。
それでもにらみを効かせた顔で大仏殿の守りの任務を果たしていることは確かなようです。
創建当時の50分の1模型 江戸再建時の50分の1模型
大仏殿の中を1周して、様々な角度から拝観したり、展示物を楽しむことが出来ましたが、
直径120cmの柱に開けられた大仏の鼻の穴とほぼ同じ大きさといわれる縦37cm横30cmの柱穴、
次女が40年前に試みた「柱の穴くぐり」は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため中止となっていました。
大仏殿見学を終えて東側の丘陵を上り、鹿がくつろぐ姿を見ながら林を抜け、上院エリアへ向かいました。
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鹿鳴園
上院エリアの手前に茶屋が並ぶ一角があり、時間的にも疲れも頃合いの昼食タイムとなりました。
外から眺めた三輪そうめんのメニューに惹かれて入った「鹿鳴園」は、
奈良名物の温かい素麺、にゅうめんのやさしい味付けと大盛りのわらび餅に満足!でした。
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法華堂拝観券
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法華堂礼堂(南面) |
法華堂(北面) |
法華堂から午後の観光をスタートしました。
毎年3月に行われた法華会に因み三月堂とも呼ばれる法華堂は、東大寺の前身である金鐘寺の堂とされ、
創建は天平5~19年(730~747)と伝わる東大寺最古の建物です。
拝観券に見られるように後方(左側)の正堂と前方(右側)の礼堂を一体化した双堂形式の建物ですが、
礼堂部分は正治元年(1199)に重源上人によって新造されたものです。
2度の兵火を免れた法華堂も、太平洋戦争の空襲が奈良まで及んだ時に疎開のために解体工事を決定、
まもなく解体が始まろうとした昭和20年(1945)8月9日に東大寺管長の元を訪れた新聞記者から
「解体の1週間延期を知事に要請するのがよい」という示唆を受け、
知事に要請したことによって、解体することなく終戦を迎えることができたそうです。
法華堂内陣の仏像配置図
不空羂索観音 金剛力士(吽形) 梵天 持国天 -法華堂パンフレット転載-
不空羂索(ふくうけんさく)観音を本尊とする法華堂は古くは羂索堂とよばれ、
不空羂索観音を中心に須弥壇上に梵天、帝釈天、四天王、金剛力士の九体が安置されていました。
巨大な仏像群が圧巻の迫力で迫って来つつ不思議な調和を見せて、静謐さすら感じられる堂内でした。
不空羂索観音像の背後の厨子に納められている秘仏の執金剛神像は12月16日だけ特別開扉されます。
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良弁杉と二月堂 |
二月堂からの眺望 |
法華堂を出て左手に四月堂を見ながら、二月堂の石段を登っていきました。
良弁(ろうべん)僧正の高弟子実忠によって天平勝宝4年(752)に創建されたと伝わる二月堂(上院観音堂)は、
2度の兵火は免れながら、寛文7年(1667)の修二会中に堂内からの出火によって焼失し、
現在の建物は2年後に徳川家綱によって再建されたもので、時代を経るにつれ、修二会の行法に合わせて増築され、
現在の堂々とした懸崖造の建物へと造り替えられていったそうです。
張り出した舞台から眼下に上院諸堂の屋根、鴟尾を載せた大仏殿の大屋根、その先に奈良市街、平城京跡、
さらに大阪方面の山稜まで素晴らしい眺望に出会うことができました。
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二月堂拝殿 |
欄干の凹凸にご注目!
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二月堂本尊の大観音、小観音の二体は絶対秘仏とされ、東大寺の僧侶さえ見ることができないと言われています。
右写真の欄干の凹凸は修二会の時、練行衆を先導した童子が火のついた松明を舞台から突き出して、
ぐるぐると回転させる時の摩擦によってできたもので、3月の「お水取り」の豪壮な光景を彷彿させるものでした。
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二月堂裏参道 |
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持寶院 |
講堂跡 |
二月堂北面から登廊を下り、塔頭寺院の築地塀や石畳が風情を見せる二月堂裏参道を抜け、
持寶院がお祀りしているらしい素朴な石仏や礎石だけを残す講堂跡を見ながら正倉院を目指しました。
広大な東大寺山内の北に東向きで立つ正倉院(正面33m側面9.4m高さ14m)は、
順光で全景を撮ることが難しく、寄棟本瓦葺き、高床式校倉造の雰囲気だけの写真しか残せませんが、
端正な姿を見ると懲りずにシャッターを押してしまいます。
北倉に聖武天皇遺愛の品々、中・南倉に東大寺の年中行事用の仏具などを納め、
かつて三ツ倉と称されていた正倉院は明治以降は東大寺を離れ、宮内庁の管轄下に置かれています。
今回の旅は幸いにも「正倉院展」の時期と重なり、展覧する機会を得ましたので、
様子は最終日レポートで報告させていただきます。
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中門 |
東大寺ミュージアム |
広い東大寺の境内をほぼ1周して南大門近くまで戻り、東大寺ミュージアムへ寄りました。
ミュージアムのさわりをパンフレット写真でご覧ください。
誕生釈迦立像 月光菩薩立像 日光菩薩立像 千手観音菩薩立像
誕生釈迦立像は釈迦が生まれてすぐ7歩歩み、天と地を指さして「天上天下唯我独尊」と言ったという
伝説に因んで造られた銅造誕生仏(像高47.5cm)で、
多くの寺院で祀られている誕生仏のモデルとされている国宝仏です。
制作年は大仏開眼会が行われた天平勝宝4年(752)、聖武天皇の一周忌以降など諸説あるようです。
日光・月光菩薩立像はかつては法華堂の本尊不空羂索観音の脇侍とされていましたが、
地震対策として平成23年(2011)に東大寺ミュージアムが開館した時に移転、
千手観音菩薩立像も同様に三昧堂(四月堂)から移された平安時代の重要文化財です。
四天王立像開眼法要 -デジタル奈良新聞より転載-
戒壇堂の修理・耐震化工事の期間中、18年振りに堂外に出た四天王立像の公開日の前日、
2020年7月22日に行われた開眼法要の様子がWEBサイトに残っていました。
左より: 広目天 増長天 持国天 多聞天 -東大寺公式HPより写真転載-
「四天王の美は戒壇院を頂点とする」と亀井勝次郎が評し、天平彫刻の最高峰とされる戒壇堂四天王立像は、
8世紀中頃に制作された像高160cmの塑像です。
平成22年から25年(2010~2013)に法華堂の須弥壇や諸像修理事業が行われた時、
本尊の不空羂索観音が立つ八角二重壇の下段に八角形の台座や厨子などの痕跡が見出され、
法華堂創建当初には日光・月光菩薩、戒壇堂四天王像、執金剛神の7体の塑像が二重壇の下段に安置され、
巨像の梵天・帝釈天、四天王、金剛力士の8体は遅れて法華堂に安置されたと考えられているそうです。
初見の法華堂に感動したばかりで、研究成果による諸仏の配置換えは望まない所ですが、
創建時の堂内をバーチャル画像で見てみたいと思われました。
奈良時代の重要文化財の如来坐像や伎楽面なども観覧して、2時過ぎに東大寺を後にしました。
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鹿だまり |
浮雲園地 |
南大門外側の土産物店が並ぶ一画は鹿せんべいをもらえる確率が高いようで鹿だまりが出来ていました。
新型コロナウイルス感染症が発生した2020年は鹿の出産数が例年の200頭から80頭に激減、
原因はまだ解明されていないそうですが、訪れた人間の減少と無関係ではないのかもしれません。
若草山の麓に広がる広大な奈良公園の景観を楽しみながら、春日大社表参道へ入っていきました。
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中の禰宜道 |
高畑町の家並み |
春日大社表参道をしばらく進んだ後、二之鳥居の手前を右折して、
かつて禰宜(ねぎ)達が高畑の社家(しゃけ)から春日大社へ通ったという「中の禰宜道」を南下し、
住宅地に入ると「山の辺の道」の石標がありました。
日本最古の道といわれる山の辺の道は春日山麓のこのあたりから南へ26km、
桜井市の海石榴市(つばいち)まで続き、人気のハイキングコースのひとつとなっています。
春日大社の社家屋敷に由来する土塀が続く趣きある高畑町の一画を抜け、新薬師寺へ行きました。
新薬師寺は聖武天皇が近江国信楽宮に天平15年(743)に造立着手した大仏が山火事や地震の頻発で
天平17年(745)に工事中断に至り、平城宮へ戻った後に体調を崩したため、
天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后が天平19年(747)に創建したと伝えられます。
新薬師寺境内図
新薬師寺本堂
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南門 |
地蔵堂 |
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竜王社 |
鐘楼 |
創建当時に七仏薬師が祀られていた金堂ほか多くの建物が宝亀11年(780)の落雷による火災や、
応和2年(962)の大風雨による倒壊で失われ、鎌倉時代に東門、南門、地蔵堂、鐘楼などが建てられ、
奈良時代に修法を行った堂宇を本堂として、現在見られる伽藍へ整備したというのが寺伝とされています。
天皇家の大寺院の面影を留めない境内でしたが、
むしろ簡素ともいえる古雅で人気を保ち、四季折々の参拝者を集めている寺院のようです。
本堂内 -新薬師寺公式HPより転載-
本堂には高さ90cm直径9mの円形の土壇が築かれ、
中央に奈良時代~平安初期に造られた榧(かや)材一本造の本尊薬師如来坐像が安置され、
その周りを天平時代の十二神将立像塑像が取り囲んでいました。
天井を張らず、化粧屋根裏を見せた建築様式と仏像配置が劇場的な演出効果を生み、
東大寺法華寺とは一味違った優しい、魅力的な空間となっていました。
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入江泰吉記念奈良市写真美術館 |
ならまちセンター |
新薬師寺から興福寺へ向かう途中、奈良市立中央図書館「ならまちセンター」のカフェで、
父娘はビール、私はスィーツで一息いれ、30分ほど休憩した後、4時過ぎに興福寺へ向かいました。
アイスマロンラテ
五重塔と猿沢池
中金堂
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東金堂 |
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五重塔 |
猿沢池からの五重塔、興福寺境内へ入って見た中金堂、東金堂、五重塔は夕陽を受けて、
美しさを一段と際立たせていました。
興福寺の五重塔は天平2年(730)に光明皇后の発願で建立、5度の被災と再建を経て、
現在の塔は応永33年(1426)頃に再建され、奈良時代の特徴を残した力強さで存在感を示していますが、
来年1月から2030年まで120年振りの修理が行われ、7年もの間、素屋根に覆われるそうで、
奈良市のランドマークの一つが当分見られなくなり、寂しくなりそうです。
前回、平成30年(2018)9月に訪れた時は落慶直前だった中金堂は、
平城遷都1300年記念の古都奈良の新しい象徴として、
藤原不比等が創建した当時の規模、様式で復原された姿が人気の写真スポットとなっていました。
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南円堂 |
北円堂 |
藤原冬嗣が父内麻呂追善のため弘仁4年(813)に創建し、寛政元年(1789)に4度目の再建が行われた南円堂、
養老5年(721)の藤原不比等の1周忌に創建、承元4年(1210)に再建され、
現存する日本の八角円堂で最も美しいとされる北円堂など、特徴的な外観を持つ堂宇を見て回りました。
南円堂前でたわわに実る右近橘
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西金堂跡から五重塔を望む |
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三重塔 |
北円堂近くの西金堂跡から五重塔を見納め、康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子が建立、
治承4年(1180)に焼失後、再建され、北円堂とともに寺内最古の建物である三重塔を見て、
この日の観光を終えて、「ならまち」へ向かいました。
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道祖神(猿田彦神社) |
西寺林商店街 |
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下御門商店街 |
旬彩 「ひより」 |
奈良時代の元興寺や興福寺の旧境内地に中世以降多くの人が住み始め、
社寺とともに発展したのが「ならまち」で、近世以降は奈良を代表する商業地となり、
1980年代に江戸時代から昭和初期の風情ある町並みの保存機運が高まり、
古い歴史や伝統を感じられる町並みとして人気のエリアとなっています。
5時頃ならまちに入り、6時半の夕食予約時間の変更の可否を「天仁」で尋ねましたが不発に終わり、
翌日の夕食レストラン「ひより」の場所確認をしたり、元興寺の門前まで行ったり、
暮れていく町をぶらぶらと歩きましたが、時間が余ってしまいましたので、
次女は朝、荷物を預けたままのホテルへチェックインに行き、私達は再びならまちセンターへ戻り、
地元の情報パンフレットを眺めたりしながら時間を潰しました。
「天仁」
「天仁」に6時半前に入り、カウンター席で14~5品、目の前で次々と揚げられる天ぷらを堪能しました。
ここは4年前にも来たお店で、次女の希望で今回も予約を取ったのですが、
コロナ禍の影響もほとんどなく営業を続けられていると聞いて、ほっとする一幕もありました。
この店の名物のひとつが1時間かけて揚げるさつまいも(鳴門金時)で、
その時間配分があるために急な時間変更を受けることが出来なかったとのことでした。
8時過ぎに天仁を出て三条通りを歩いてホテルへ戻る途中、
ブルーにライトアップされた旧奈良駅舎を見て、観光案内所へ入って尋ねると、
11月14日の国連公式認定「世界糖尿病デー」の疾患啓発キャンペーンとのことでした。
「不摂生の報い」などいわれのない差別を避けるために病名改名運動も起きているそうで、
闘病の人達には切実な問題があり、世界的な運動になっているのだろうと思われます。
8時半にホテルへ戻り、明朝の早い出発に備えて早寝、せっせと歩く旅の4日目が暮れました。
*4日目歩数(スマホ計測):26239歩
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