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2022・11・10 (木) |
吉野 |
十七夜の月
奈良滞在5日目は吉野まで遠出をしました。
朝6時25分頃にホテルを出発すると、西の空に十七夜の月が残っているのが見られました。
JR奈良駅前の別ホテルに宿泊した次女と約束の6時40分の少し前に落ち合い、
近鉄奈良駅までバスで行き、駅構内のコンビニで朝食を調達しても予定の7時8分の電車より1本早く、
6時54分発の大阪難波行快速急行に乗ることができました。
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大極殿・大極門 |
朱雀門 |
平城京跡の真中を6時58分に横断、北に大極殿・大極門、南に朱雀門を見ることが出来ました。
大和西大寺で橿原線、橿原から吉野線に乗り換えるコースは2度目でスムースに進みましたが、
7時~8時半の通勤、通学時間帯の急行電車は座席に空きがなく、吉野近くなってようやく座ることが出来ました。
奈良駅から1時間42分、吉野駅に8時36分に降り立ち、当初の予定より15分余り早く到着した時間を利用して、
少し寒い駅のベンチで、リュックサックから取り出したダウンジャケットを着込んで朝食を取りました。
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近鉄吉野駅 |
吉野山ロープウェイ 千本口駅 |
近鉄吉野線の前身である吉野鉄道が昭和3年(1928)に橿原と吉野を結ぶ吉野線を開業した翌年、
地元有志が吉野大峯ケーブル自動車を設立して千本口と吉野山間を結んだのが、
吉野ケーブルと通称される吉野ロープウェイです。
大きな切り妻屋根、木の柱、白い漆喰壁の駅舎が景観に馴染んでいる吉野駅を出て、
9時に吉野ロープウェイ乗り場へ向かいました。
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吉野山ロープウェイ |
吉野山駅 |
レトロな駅舎が昭和な存在感を見せる吉野ロープウェイは現存する国内最古のロープウェイとして、
日本機械学会によって平成24年(2012)に「機械遺産」に登録されています。
9時20分発のロープウェイに乗って、3分ほどで吉野山駅に到着しました。
吉野観光地図:吉野山観光協会発行
奈良県中央部を流れる吉野川(紀の川)の南岸から大峯山脈へ南北に続く約8kmの山稜、
又は金峯山寺(きんぷせんじ)を中心とした社寺が点在する地域を吉野山と総称し、
大正13年(1924)に国の名勝・史跡、昭和11年(1936)に吉野熊野国立公園に指定されています。
吉野行きを決めた時、吉野ビジターズビューローWEBサイトでボランティアガイドの情報を得た次女が、
2週間前までに申し込みという時期は逸していましたが、ダメ元で問い合わせた結果、
幸いにも密井さんがボランティアガイドを引き受けてくださることになりました。
奥千本~西行庵~金峯山寺~ケーブル山上駅というコースをご案内いただけることになった密井さんと
ロープウェイ吉野山駅で落ち合い、9時48分のバスに乗って奥千本口まで行きました。
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修行門 |
金峯神社方面上り道 |
20分程バスに乗って、終点の奥千本口で下車すると、すぐに目に入ったのが「修行門」・・・
3日連続で2万5千歩以上歩き、重くなった身体に、「修行」の文字と少し急な上り坂がこたえそうでしたが、
乗りかかった舟から下りる訳にはいきませんし、楽しみにしていた吉野山ですから頑張る、のみでした。
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金峯神社 |
修行門から200mほど坂を上り、金峯(きんぷ)神社で、とりわけ、この日の安全祈願をしておきました。
金峯はこの神社あたりから大峯山にかけて、平安時代に金鉱脈があると信じられていた地域の総称で、
金鉱の守護神として吉野山の総地主の金山昆古命(かなやまひこのみこと)が祀られています。
大峯山(山上ケ岳)を経て、最高峰・八経ヶ岳(1915m)の大峰山脈を縦走し、
吉野山と熊野三山を結ぶ約80kmに渡る大峯奥駆道(おおみねおくがけみち)と呼ばれる古道は
8世紀初頭に役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれた修験道で、
平成14年(2002)に国の史跡、平成16年(2004)に「紀伊山地の霊場と参詣道」として
ユネスコ世界遺産に登録されています。
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金峯神社本殿 |
西行庵方面へ |
金峯神社の左坂下の大峯修行場の一つ、文治元年(1185)に義経が隠れ、
屋根を蹴破って追手から逃れて、「義経の隠れ塔 蹴破りの塔」とよばれる隠れ塔には立ち寄らず、
金峯神社本殿を見ながら右手の坂を上り、この日の目的地の西行庵を目指しました。
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奥千本の紅葉
役行者〔舒明天皇6年(634)伝-大宝元年(701)伝 本名:役小角(えんのおづの)〕が感得した蔵王権現を
桜の木に彫って本尊とし、金峯山寺を開いたことによって桜がご神木として保護され、相次ぐ寄進によって、
現在の吉野山にはシロヤマザクラを中心に約200種、3万本の桜があり、
下千本、中千本、上千本、奥千本と時期をずらして開花する見事な景観が国内有数の桜の名所となっています。
そんな中、奥千本は戦前の一時期に杉や桧へ配置植林されたり、自然災害のためにすっかり寂びれてしまい、
平成23年(2011)から桜再生の植樹が行われ、平成26年(2014)には「千本桜」(平成の献木)が蘇り、
今年度からは西行庵・金峰神社周辺への献木プロジェクト、「令和の献木」が始まっているそうです。
そのような植林の変遷を垣間見ながら、25分ほどで(ガイドブックのコースタイムは20分)西行庵へ到着しました。
西行物語絵巻断簡 -五島美術館「西行展」-
「木の本(もと)に旅寝をすれば吉野山 花のふすまを着する春風」
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西行庵 |
西行〔元永元年(1118)-文治6年(1190) 俗名:佐藤義清〕は鳥羽院に仕える北面武士でしたが、
23歳の時に突然出家、奥駆修行を志して2度満行し、吉野の草庵で3年ほど過ごしたと伝えられています。
西行坐像
昭和62年(1987)に復原された草庵の中には西行坐像がひっそりと安置されていました。
同年生まれの平清盛の死、源平合戦、平家滅亡、義経の自害、頼朝の奥州平定などを見届け、
72歳で「花の下で」生涯を閉じた西行の生涯は、社会からの孤絶ではなく、
しがらみから解き放たれた意識的、積極的な「遁世」生活だったとして鴨長明、兼好法師、芭蕉等に影響を与え、
現代人の心をも捉えて、白洲正子「西行」や辻邦生「西行花伝」などの文学作品も生み出されています。
吉野の歌、とりわけ桜の歌を数多く残して、吉野と桜を結びつけることに貢献した西行の生誕900年を記念し、
吉野町観光ボランティアガイドの会によって再建、建立された西行木柱歌碑が要所に建っていました。
・・・
「吉野山去年(こぞ)の枝折(しおり)の道かへて まだ見ぬかたの花を尋ねん」
「吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添はず成にき」
「春は猶吉野の奥へ入りにけり 散りめる花ぞ根にぞ帰れる」
「花の色の雪の深山に通へばや 深き吉野の奥へ入らるる」
・・・
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苔清水 |
四方正面堂跡 |
西行庵から100mほどの所に、「とくとくと落つる雫の苔清水 汲み干すまでもなき住処かな」と西行が詠み、
「露とくとく試みに浮世すすがばや」と西行を偲んで芭蕉が詠んだ苔清水があり、更に進むと、
「四方正面堂跡」「安禅寺蔵王堂跡」「宝塔院跡」など廃仏毀釈の前まで存在した寺院の案内板がありました。
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修行門出口 |
高城山展望台入口 |
予想よりアップダウンが多かった西行庵ルートを1時間15分で歩き、無事に修行門まで戻ってきました。
修行門から10分程下ると、見事に紅葉したモミジの写真スポットがあり、
後醍醐天皇の皇子大塔宮(護良親王)が吉野城の砦として築き、北条軍との戦いの最前線となった
高城城があった高城山展望台への入口となっていましたが、私達は直進し、
「正須行人 閼伽乃井」「牛頭天王社(=素戔嗚尊)跡」「丈之橋跡」などの石碑が建つ杉木立の中を下り、
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)へ立ち寄りました。
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吉野水分神社 鳥居と楼門 |
吉野水分神社 本殿と紫神社 |
水を配る天乃水分神(あめのみくまりのかみ)を祀る吉野水分神社は、
万葉の時代に水分山(みくまりやま)と呼ばれた青根ケ峰の山頂に鎮座、
大同元年(806)に現在地へ遷座したと伝えられます。
鳥居の先の石段を上り、朱塗りの入母屋造の楼門をくぐると、
右手(南)に本殿、左手(北)に拝殿、正面(東)に幣殿と珍しいコの字型配置の社殿が見られました。
桃山時代の特色を伝える三殿一棟造りの本殿は、
この社の霊験によって誕生したとされる豊臣秀頼によって慶長9年(1604)に再建されたもので、
豊臣家の経済力を削ぐための家康の思惑があったとも言われています。
右写真の手前は建物は境内社の紫神社です。
平安時代中期頃から、「みくまり」が「みこもり」と訛り、「御子守り」として「子守明神」と呼ばれるようになり、
藤原道長「御堂関白記」や清少納言「枕草子」に子守明神として登場、
12世紀頃には神仏習合によって水分神は地蔵菩薩の垂迹(子守権現)とされ、
金峯山寺に属する神社として、修験道の行場の一つとなった水分神社は、
明治の神仏分離によって金峯山寺より独立し、村社へ列格されたという歴史を持っています。
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吉野水分神社 拝殿 |
西行法師坐像 |
社務所も兼ねているという小部屋に分かれた拝殿の中に、
西行庵伝来という天明5年(1785)増田慶運作の檜一本造りの西行法師座像が安置されていました。
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吉野水分神社幣殿 子守大明神 |
神輿 |
幣殿中央には子守大明神の神棚が置かれ、民間信仰が窺われる奉納品の数々の中に、
慶長9年(1604)に秀頼が寄進した八角八塔造りの神輿(奈良県指定文化財)もありました。
拝殿、幣殿ともに簡素な素木造りで、屋根も檜皮葺きの本殿と違い、杮(こけら)葺きや栩(とち)葺きなど、
工法の違いも合わせた古色で、静かに山の中に佇む姿が魅力的な古社でした。
花矢倉展望台から金峯山寺を望む
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金峯山寺 蔵王堂 |
花矢倉展望台 |
吉野水分神社から5分程、坂を下った左手にある標高570mの花矢倉展望台は、
眼下に上千本、中千本、金峯山寺、遠くに金剛山、葛城山、二上山を望む吉野山を代表する絶景ポイントで、
義経の忠臣・佐藤忠信が奮戦した古戦場として、謡曲「忠信」の舞台ともなっています。
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「ひょうたろう」柿の葉すし
ガイドブックを見てガイドの密井さんに購入をお願いしておいた「ひょうたろう」の柿の葉すしの昼食は、
絶景と共に文字通り味わい深い吉野満喫のひと時となりました。
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上千本~中千本
1時過ぎに花矢倉展望台を出て、立ち枯れが増えて保護活動が行われているという上千本の桜を見ながら
坂道を下っていきました。
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竜王社 |
ヤドリギ |
途中に名前や由緒が書かれていない神社がありましたが、
後醍醐天皇が御幸の時に雨をしのいだ雨師観音に因む観音堂跡地に建てられた竜王社のようです。
ヤドリギの実
竜王社向かいの御幸の芝と呼ぶ台地にはヤドリギをつけた大木や「後醍醐天皇御慰霊詩碑」があり、
中千本へと続く坂道には「大塔宮仰徳碑」「猿引坂」「天王橋」など由緒のありそうな石碑が立っていました。
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竹林院 |
山道を下り、通りが門前の町並みになって間もなく、
聖徳太子開創の椿山寺を前身とし、弘仁年間(810~24)に中興した空海が常泉寺と称し、
南北朝時代に後小松天皇の勅命により名を改められたと伝わる竹林院がありました。
千利休が作庭、細川幽斎が改修した池泉回遊式庭園の群芳園は秀吉が花見を楽しんだことでも知られます。
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櫻本坊(さくらもとぼう)仁王門 |
櫻本坊本堂 |
竹林院近くの櫻本坊は天智天皇から逃れた大海人皇子が留まっていた吉野離宮日雄(ひのお)殿を前身とし、
大海人皇子がみた冬に桜が咲き誇る夢を皇位につく吉夢として、壬申の乱に勝利した天武天皇が建立、
天武天皇、持統天皇の勅願所になったと寺伝が伝えています。
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吉野辨財天 |
地蔵堂 |
神仏習合修験道場の櫻本坊境内にはいくつもの寺社建造物が並び立ち、
宝聚堂には山伏文化の殿堂といわれる程多くの仏像や文化財を蔵しているそうです。
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「さくらのおはなし」 |
急坂 |
竹林院、櫻本坊の外観を見て、桜の町らしい米店の看板にカメラを向けたり、門前町の歴史に触れながら、
緩急さまざまに変化する坂道を1時間程下りました。
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勝手神社 |
金峰山の入口に位置し、山口神社と呼ばれた勝手神社は大山祇神、木花咲耶姫などを祭神とし、
文治元年(1185)に義経と別れた静御前が舞を舞ったという伝説を持っています。
豊臣秀頼が慶長9年(1604)に改修した後、焼亡、再建を繰り返した後、
平成13年(2001)に不審火によって社殿が焼失、再建復興寄付のお願いの立て看板がありました。
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「本家 陀羅尼助丸」 |
胃病はらいた良薬「ダラスケ丸」を販売する三つ足の蛙を商標とする漢方薬店の佇まいや、
三方や膳台に載せられてあらかたな効験を誇示しているような薬や薬草に目が留まりました。
薬草の効能は以下の通りとなっていました。
センブリ(当薬)「食欲不振 消化不良に用いられる苦味健胃薬 開花期の全草」
ゲンノショウコ(玄草)「古くから健胃 整腸 止瀉薬 開花期地上部」
ゲンチアナ(健根)「苦味健胃薬 食欲不振・消化薬 根及び根茎」
エンメイソウ(延命草)「消化不良 食欲不振 腹痛 ヒキオコシの地上部」
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𠮷水神社(よしみずじんじゃ)
𠮷水神社は役行者が白鳳時代に創建した庵を前身とし、修験宗の僧房として発展した𠮷水院(きっすいいん)が
明治の神仏分離令と修験道廃止により廃寺となった後、後醍醐天皇の理想が評価され、
明治7年(1874)に後醍醐天皇を祭神、楠木正成、𠮷水院宗信を合祀した後醍醐天皇社の創建が許可され、
翌年に名を改めたことを由緒としています。
文治元年(1185)に義経、静御前、弁慶が隠れ住んだと伝わる𠮷水院は、
延元元年(1336)に京都花山院から脱出した後醍醐天皇が南朝の皇居と定め、
文禄3年(1594)に花見の宴を催した秀吉が本陣を構えたなど、数多くの歴史逸話を残しています。
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𠮷水神社山門 |
𠮷水神社本殿 |
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書院
表門の石段を上って山門をくぐると、元は𠮷水院の護摩堂であったという本殿、
後醍醐天皇玉座の間、義経潜居の間、太閤秀吉花見の間などがある日本最古の書院がありましたが、
時間的な事情と疲れで内部拝観は割愛することにしました。
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一目千本 |
𠮷水院庭園 (名勝) |
境内には上・中千本を見渡せる「一目千本」の展望場所、
5千人の家来と行った大花見の時に秀吉が基本設計したと伝わる桃山様式の庭園などがありました。
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東南院 |
後醍醐天皇導之稲荷社 |
金峯山寺建立の時、一山の安泰と興隆を祈願して役行者が巽(東南)の方角に建てた東南院、
後醍醐天皇を吉野へ導いたことに因む導之稲荷社を見ながら、
正平3年(1348)に焼失した二天門跡の石段を上って、金峯山寺本堂の蔵王堂へ入っていきました。
蔵王堂北側の南北朝建立と伝わる国宝仁王門は、
平成30年(2018)から10年間、70年振りの大修理が行われていて、
その勧進のために蔵王堂の秘仏本尊の特別ご開帳が行われていました。
金峯山寺 蔵王堂
金峯山寺は国の中心軸に位置することを意味する国軸山を山号とし、修験道の中心的な道場として、
多くの修行者、宗教者が宗派を超えて入山修行する金峰山修験本宗の総本山です。
単層裳階付き入母屋造、檜皮葺、高さ34m、四方36mの蔵王堂は、
日本の木造古建築では東大寺大仏殿に次ぐ大きさで、天正20年(1592)頃に再建されたものです。
金剛蔵王権現像 -「日経おとなのOFF」より転載-
金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)の釈迦如来(6m)、千手観音菩薩(7m)、弥勒菩薩(6m)は
過去、現在、未来の3世に渡って私達を救済するために悪魔を降伏させる忿怒の姿で
権現という仮の姿で出現されたものと言われます。
特別ご開帳で「発露(ほつろ)の間」に正座し、慈悲と寛容を表すという鮮やかな青い色の巨大な権現様を見上げ、
ゆっくりと対座させていただく時間を持つことができました。
役行者坐像
堂内を回って、ツツジや梨の自然木を使った珍しい柱や役行者坐像も拝観しました。
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大塔宮御陣地 |
村上義光碑 |
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愛染堂 |
観音堂 |
金峯山寺境内には元弘3年(1333)に鎌倉幕府が攻め入った時に、
吉野落城を覚悟した大塔宮が最期の酒宴をしたと伝わり、陣幕の柱跡に4本の桜が植えられた「大塔宮御陣地」、
大塔宮の身代わりになって二天門で切腹したという村上義光の忠死石碑、
明和7年(1770)に経蔵として建立され、後に護摩堂として使われた愛染明王を本尊とする愛染堂、
南北朝~室町時代に創建されたと伝わる十一面観音立像を本尊とする観音堂などがありました。
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葛屋 中井春風堂
葛菓子職人実演
金3時20分過ぎに峯山寺へ行く前に予約をしておいた中井春風堂へ戻り、
葛の説明を受けながら、吉野本葛と水だけで作る葛もち、葛切り作りの実演を見せていただきました。
吉野葛は葛根50%さつまいも等50%、吉野本葛は葛根100%のものを指すそうです。
実演後、賞味期限10分という葛もち、葛切りをいただきましたが、
美しい透明感と上品な味はこの時、この場所でしか味わえない格別なものでした。
添えられていたのは一本利休箸ともよばれる中太両細の吉野杉の卵中(らんちゅう)箸です。
龍門山塊を望む
4時15分頃中井春風堂を出て、「吉野駅まで車で送りますからケーブルの時間は気にしなくていいです。」という
密井さんのご好意をありがたく受け、龍門山塊を眺望しながら、飛鳥と吉野を結ぶ芋峠を教わったり、
往きはバスで通リ過ぎたため目に入っていなかった門前の街並みを楽しみながら、坂を下っていきました。
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「いざいざ奈良」 |
柿の葉すし「ひょうたろう」 |
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銅(かね)の鳥居 |
黒門 |
吉野へ行こう!と次女が旅心を誘われた「いざいざ奈良」のポスターや「ひょうたろう」店をみながら坂を下ると、
大峯修行を志す行者が菩提心を発することを促される「発心(ほっしん)門」、
聖武天皇が大仏の余銅で造ったという伝説を持つ通称「銅の鳥居」や、
かつては公家や大名と言えど馬や駕籠から降りて歩いたと言われる吉野山への総門の黒門がありました。
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「やまぐり」露店 |
大橋 |
やまぐり露店や朱塗りの大橋近くの密井さんのご実家に寄って、車で吉野駅まで送っていただきました。
葛切りの美味しさに満足して素通りしてしまいましたが、「めちゃうま やまぐり」の写真を見ると、
買って帰らなかったやまぐりに未練が残ります。
朱塗りの大橋は石碑のみが残る水分神社近くの丈之橋、竹林院近くの天王橋とともに
大塔宮が吉野山を要塞化するために堀切(空堀)に架けた橋で、吉野三橋と呼ばれています。
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吉野駅
4時35分頃、吉野駅に到着、8時間ゆっくりと歴史ある吉野を堪能した充足感とともに、
ご案内の密井さんに感謝しつつ、奈良への帰路につきました。
沿線事故でダイヤに乱れがあり、でたとこ勝負の鈍行旅になりましたが、近鉄奈良駅に7時頃到着、
夕食の予約をしていたならまちの「旬彩 ひより」に5分程度の遅れで入店することができました。
伝統野菜や地元の食材を使ったという大和野菜会席を一皿ずつゆっくりと味わい、
疲れも癒されて、8時半頃お店を出て、徒歩でホテルへ戻りました。
この日は歩数こそ20645歩で、この3日間よりは少な目でしたが、山道の筋肉疲れ、
そして前夜の夜中に起きたこむら返りに用心して、消炎鎮痛剤「アンメルツ」をたっぷりと塗布して休みました。
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