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2022・11・11 (金)
安倍文珠院~岡寺~キトラ古墳

連日好天に恵まれた奈良滞在の最終日は、
旅行社企画の「日帰り観光コース」バスツアーで安倍文珠院、岡寺、キトラ古墳を周りました。


箸墓古墳 三輪山と大神神社大鳥居

昨日のひょうたろうの柿の葉寿司の残りを朝食にし、JR奈良駅前バスターミナルに10時に集合して、
ゆっくりとした観光の一日が始まりました。
初日の6日以来、ほとんど顔を合わせることがなかった参加者29名が観光バスに同乗し、
ならまちを抜け、山の辺の道沿いの国道169号線を南下、
渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓古墳、三輪山、大神神社大鳥居などを車窓に見ながら、
11時過ぎに桜井市阿部の安倍文珠院に到着しました。

   
安倍文珠院 表山門 吉祥閣

安倍文珠院の駐車場から少し歩き、高位の人でも馬を下りて参拝という「下馬」石標を置いた表山門から
文殊院の境内に入って、先ず客殿の「吉祥閣」へ
案内されました。

   
抹茶と「知恵のらくがん」           ご住職法話                     ぼけ酒     

 
健康薬膳精進料理

吉祥閣の大広間で抹茶と「知恵のらくがん」、食前酒「ぼけ酒」をいただきながら、
話巧者のご住職の法話を伺いました。
その結果、食後に大広間の外の廊下に用意されていた受付で、
多難な現代を方位の魔除けでしのぎ、運気の好転、1年の無事安泰と健康を願う魔除方位災難除けお札や
「知恵のらくがん」を購入して帰ることになりましたが、
お弁当も美味しくいただきましたし、文殊院のおもてなしへのささやかなお礼としました。

安倍文珠院 本堂

12時過ぎに本堂の奥内陣に入り、渡海文殊群像の前の椅子に座って、御祈祷を受けました。

安倍文珠院は大化の改新の時に左大臣となった安倍倉梯(くらはし)麻呂が孝徳天皇の勅願によって
現在地の約300m南西に大化元年(645)に創建した安倍一族の氏寺「安倍山崇敬寺」を起源とし、
平安時代には大和十五大寺として栄えていましたが、多武峰(とうのみね)の衆徒の焼討ちにあい、
鎌倉時代に現在地へ移転した後、元禄6年(1563)に松永弾正の兵火を受けて一山のほとんどを焼失、
寛文5年(1665)に現在の入母屋造、7間4面の本堂(文殊堂)が再建されたと寺伝にあります。
「三人寄れば文殊の知恵」で有名な快慶作の文殊菩薩騎獅像を本尊とし、
華厳宗東大寺の別格本山の格式を持つ安倍文珠院は、
天橋立の智恩寺、山形県高畠町の大聖寺と共に日本三大文殊霊場とされています。

                          (以下の仏像写真は全て寺社公式HPより借用)
 

  
左より: 方位除災お札     渡海文殊群像     善財童子 

極彩色の獅子に乗る高さ約7mの日本最大の木彫像文殊菩薩騎獅像を中心に、
向かって左に維摩居士(最勝老人)と須菩提(仏陀波利三蔵)、右に獅子の手綱を持つ優填王(うでんのう)と
先導役の善財童子という4人の脇士を伴った渡海文殊群像(国宝)は、
雲海を渡り、衆生の魔を払い、知恵を授けるための説法の旅に出掛けている姿を表しているそうです。
胎内墨書に建仁3年(1203)大仏師・快慶作の銘がある文殊菩薩の威容と、
脇士達の威厳、善財童子の愛らしさが本堂の中で不思議な調和を見せていました。

厄除け、方位災難除け、合格祈願、ぼけ封じ、家内安全、交通安全・・・あらゆる祈祷が受けられる安倍文珠院は
創建以来1300年の時を経た現在も祈祷寺として法灯を守り続けていますが、
魔除けの五芒星を入れた赤色の玄関魔除け札は安倍文珠院独特のものと思われました。

    
釈迦三尊像

本堂付属の釈迦堂には神仏分離の折に廃寺となった多武峰の妙楽寺(現在の談山神社)から
明治16年(1883)に引き取った本尊の阿弥陀三尊像(桜井市指定有形文化財)、
安倍文珠院に祀られてからは釈迦三尊像と呼ばれる像が安置され、自由に拝観することが出来ました。
釈迦像胎内には寛文9年(1669)の修理銘があるそうです。

金閣浮御堂 安倍仲麻呂 「望郷之詩」

本堂を出て、20分ほど境内を自由見学しました。
先ず目に入ったのが、開運弁財天、安倍仲麻呂、安倍晴明を祀る昭和60年(1985)建造の金閣浮御堂と
池のほとりに立つ平城遷都1300年祭を記念した安倍仲麻呂「望郷之詩」万葉歌碑、
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(榊莫山揮毫)でした。
遣唐留学生として唐に渡り、科挙に合格し、玄宗皇帝に仕えるまでになった阿倍仲麻呂の物語、
安部龍太郎の「ふりさけ見れば」が現在、日経新聞に連載されていますが、
安倍文珠院と阿倍仲麻呂が結びついていませんでしたので、安倍=阿倍となっていることに驚くと共に、
「奈良時代に当山出生・・・唐朝廷において日本人初となる重職を歴任 今尚両国において日中友好の礎と仰がれる」
という説明書きに深い興味が湧きました。

不動堂 東古墳

金閣浮御堂の東側に先代住職の発願によって昭和62年(1987)に建立された不動堂がありました。
東古墳は羨道の途中に古来より枯れることがない泉があったことによって、
閼伽井(あかい=閼伽水の井戸)古墳の別名を持つ飛鳥時代の古墳です。

白山堂 晴明堂

杮葺き流造りの白山堂は陰陽道と結びつきが深い白山信仰によって、
平安時代の陰陽師・安倍晴明ゆかりの安倍文珠院に白山神社末社として勧請、
白山比咩(ひめ)神を祭神として、室町時代に建立された鎮守社です。
白山比咩神は伊弉諾(いざなぎ)命、伊弉冉(いざなみ)命の縁を取り持った菊理媛(くくりひめ)神と同一神とされ、
縁結びの神様としても信仰を受けています。



合格門から石段を上っていくと、安倍晴明が天文観察をしたという展望台の一画に晴明堂がありました。
晴明堂は平成16年(2004)の晴明千年忌に200年振りに再建された御堂で、
正面に置かれた黒色の「如意宝珠」は満願成就、魔除け方位災難除けの功徳を持つ宝として、
手で撫でて祈願することが推奨されています。



展望台の下には縦20m横25m、8千株のパンジーで作られた11月から4月下旬まで楽しめる干支花絵があり、
葛城山、二上山、畝傍山、耳成山を遠望することができました。
干支ウサギは振り返る善財童子のようでもあり、お互いに見つめ合う平和のシンボルのようでもありました。
晴明のシンボルの五芒星は赤紫系のパンジー、合格の文字は葉牡丹で描かれています。

稲荷神社

最後に本堂近くの山上にある安倍晴明の母と伝承される白狐・信太森葛葉を祀る稲荷神社へ立ち寄った所で、
集合時間の1時が近付き、バスへ戻ることになり、
卓越した切り石技術が見られ、安倍倉梯麻呂の墓とも伝えられる西古墳に寄ることは出来ませんでした。
バスはほぼ定刻の1時に出発、20分ほどで岡寺に到着しました。


岡寺仁王門 鐘楼堂

岡寺は天智天皇によって草壁皇子と共に育てられたという伝説を持つ義淵(生年?~728年)が、
草壁皇子(662-689)の住まいであった岡宮をもらい受けて寺を建立したことを始まりとし、
義淵が田畑を荒らす悪龍を池に封じ込めて大きな石で蓋をした伝説による龍蓋寺を正式名としています。
25年に及ぶ僧正時代に奈良仏教を牽引した義淵が、
後に続く玄昉、行基、良弁、道鏡などの高僧を指導したことも大きな業績とされています。

養老2年(718)に長谷寺の開祖、徳道上人が草創したと言われる西国三十三所観音霊場の第七番札所として、
また日本最初の厄除け霊場として信仰を集めている岡寺は、
義淵が祖であった法相宗の興福寺末寺でしたが、江戸時代に長谷寺第32代住職法住が中興して以来、
長谷寺の末寺として真言宗豊山派に属しています。

明日香村の東の岡山の中腹に建つ岡寺の仁王門は慶長17年(1612)に建立された国の重要文化財です。
岡寺境内に入って、右手にある鐘楼堂の梵鐘には中央に7つの穴があり、
戦時中に鐘の材質を調べるために開けられたものと言われていますが、供出を免れた理由は分からず、
難を逃れたことから平和を祈る鐘として人気を集めているそうです。
梵鐘に文化5年(1808)と刻まれていること、建築様式から本堂と同時期の再建と考えられています。

開山堂(納骨・回向堂) 本堂

本堂の西側に隣接する開山堂は多武峰の妙楽寺(現在の談山神社)から明治4年(1868)に移築された、
元は護摩堂であったと伝わる御堂で阿弥陀三尊を安置しています。

本堂は文化2年(1805)に上棟、天保14年(1843)に完成し、
重厚な瓦葺きの屋根、唐破風などに江戸時代後期の建造らしい豪壮な印象を受けました。


如意輪観音坐像

本堂内陣ではお扉(とびら)特別開扉が行われていて、本尊の如意輪観音坐像を拝観することが出来ました。
国内最大4.85mの巨大な如意輪観音坐像塑像は弘法大師が日本・中国・インドの土で造ったと伝わり、
それまで本尊とされていた金銅如意輪観世音菩薩・半跏思惟像(現在は京都国立博物館に寄託)を
胎内に納めていたという伝えも残っています。
右手を施無畏印、左手を与願印に結んだ二臂(にひ=2本の手)結跏趺坐(けっかふざ)の本尊は、
台座部の調査結果から当初は左足を踏み下げて坐る半跏像であったと推測されています。

本堂内の阿弥陀三尊立像、不動明王立像なども拝観した後、集合時間の2時まで境内を見学しました。


大師堂
三重宝塔

石段を登った高所に建つ三重宝塔は昭和59年(1984)の弘法大師1150年遠忌を契機に復興に着手、
昭和61年(1986)に514年振りに再建されたもので、
軒先に吊るされた全国に類例のない琴の復元の他、扉絵、壁画の荘厳(仏像や仏堂のお飾り)が
平成13年(2001)に完成しています。


三重宝塔軒先の宝鐸(ほうちゃく)と琴

大師堂は宗祖弘法大師を本尊として昭和の始めに建立されたもので、
幼少期の「稚児大師像」と四国を巡り修行していた頃の「修行大師像」を安置、
足腰の健康にご利益があるとされる修行大師の足元にはお賽銭が積まれていました。


義淵僧正廟所 奥之院から見た境内中心

奥之院方面へさらに山を登っていくと、義淵僧正廟所があり、
南北朝時代の宝篋印塔の好例と言われる均整の取れた姿の印塔が静かな佇まいを見せ、
本堂、開山堂、古書院、楼門など岡寺の中心建物を俯瞰することができました。

    

廟所の一画に植えられたボダイジュの実が本堂前のモチノキや奉納所にたくさん下げられたお守り、
珠の中の紙にお願いを書いて蓋をする「龍玉願い珠」に似ていて、「龍蓋寺」らしい意匠になっていました。

橘寺 キトラ古墳壁画体験館 四神の館

岡寺を出発して、数日前に訪れた橘寺などを車窓にしながら、
15分程で国営飛鳥歴史公園内の「キトラ古墳壁画体験館 四神(しじん)の館」に到着しました。

展示室 キトラ古墳石室模型

四神館の地下1階展示室には墓道に残る4本のコロレールの跡、漆喰に描かれた四神、十二支、天文図壁画などを
忠実に再現した古墳石室原寸大模型が展示されていました。

        
南壁四神「朱雀」 北壁四神「玄武」 東壁四神「青龍」 西壁四神「白虎」

白虎が北向き(高松塚古墳など南向きが一般的)であることや、
星空を精密に描いた天文図(デザインされた簡略図が一般的)がキトラ古墳の大きな特徴で、
石室石材は二上山系の凝灰岩が使われています。

古代飛鳥の暮らし説明やジオラマ

展示室には古墳出土品や古代飛鳥の暮らしを説明するパネルやジオラマ模型、
昭和56年(1981)から始められた調査、研究、修理などのドキュメンタリー展示もありました。

展示室を一回りした所で、事前情報を得ていた「キトラ古墳壁画公開」の受付を見つけ、
事前申し込み制で無理と思いつつ尋ねてみると、3時の回に2人分の空きがあり、見学時間は10分ということで、
3時半の集合時間にも間に合うことが分かり、運よく、1階の壁画保存管理施設を見学することが出来ました。

  
壁画保存管理施設と第25回公開 国宝「天井 天文図」  -写真はパンフレット転載-

平成22年(2010)に石室から取り外され、平成28年(2016)まで修理が行われた壁画は
令和元年(2019)に国宝指定を受け、
令和2年(2010)にはキトラ天文図が日本天文学会による第2回日本天文遺産認定を受けています。
中国大陸での観測結果をもとに作られたと推測されているキトラ天文図は、
恒星や赤道などの位置解析によって観測年代や観測地の緯度を求める研究も行われ、
古代天文学の水準のみならず、アジア大陸から日本への科学知識や文化流入を知ることができる
科学的分析に耐えうる星図として大きな評価を得ています。
朱線で描かれた4つの大円と直径6~9mmの金箔で360個以上の星が描かれた
世界最古の遺例とされる本格的な中国式星図を解読することは出来ませんでしたが、
稀有な出会いに幸運を感じ、感動をいただけた時間となりました。

      
キトラ古墳

墓室の壁の盗掘跡から覗くと「亀と虎」の壁画が見えたので亀虎(きとら)古墳、
キトラ古墳南側の地名が小字北浦なのでキタウラ→キトラとなまった、
古墳が明日香村阿部山集落の北西にあるので亀が描かれた北の玄武、虎が描かれた西の白虎に因んで
亀虎と呼ばれたなど、名前の由来にいくつかの説を持つキトラ古墳は7C末から8C初頭造営で、
巨大な前方後円墳から始まった古墳時代の終焉を告げる古墳のひとつとされ、
四神の館に隣接した南斜面に下段直径13.8m、上段直径9.4mの2段円墳が復元されていました。

3時半にキトラ古墳を出て、渋滞にあうこともなく、予定より早く、JR奈良駅前に5時前に帰着しました。
ホテルで一休みした後、奈良駅内の土産店で地域クーポン使い果たしのお土産ショッピングをして、
お馴染みになった3条通りのモダン居酒屋?に入り、奈良旅最後の夕食を取りました。



    

バスツアーの一日の歩数は9041歩、吉野山の筋肉痛が残る足には程よい数字となりました。


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