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3日目
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2019・11・15
大津~高島~烏丸半島〈滋賀県立琵琶湖博物館〉~大津
「商店街HOTEL 講 大津百町 茶屋」
朝になって旧東海道に面している「茶屋」の2階の部屋の障子を開けると、ちょっとしたタイムトリップ気分が味わえました。
琵琶湖水運の港町、三井寺の門前町として発展、かつて東海道最大の宿場町であった大津は、
町割が100以上あった江戸時代には大津百町と呼ばれていたそうです。
地元の工務店が基礎部分から補修し、耐震、断熱、防音などリノベーションを行った築100年を超える町家滞在は、
「講」「結」という一昔前の日本の相互扶助組織の面影を残す商店街の雰囲気を感じることがコンセプトのひとつとされています。
フロント棟「近江屋」 レストラン「淡」
ホテルでは5日前までに予約をする朝食だけが提供されています。
うなぎ茶漬けをメインに、地元の食材で丁寧に作られたお惣菜が並んだ食卓を囲み、豊かな気分で一日が始まりました。
「此附近露國皇太子遭難之碑」
8時半からの朝食を終え、9時半出発までに少し時間がありましたので、
夫が朝の散歩で見つけたという「此附近露國皇太子遭難之碑」を見に行きました。
1891年(明24)に訪日中のロシアのニコライ皇太子を津田三蔵巡査がサーベルで斬り付けた「大津事件」の後、
近代国家の道を歩み始めたばかりの日本の松方内閣は大国ロシアを恐れ、大逆罪適用の死刑を画策しましたが、
大津地裁で開かれた大審院法廷では謀殺未遂罪を適用して、無期徒刑の判決を下し、
司法権の独立を貫いたことが三権分立の意識を広め、近代日本法学史上の重要な事件になったと言われています。
JR湖西線の車窓風景
旅の前は、2日目は五箇荘や近江八幡方面へ出かけようと漠然と考えていましたが、
大津のロケーションを実見すると、湖西の方が先と思い至り、早朝、「高島へ変更しない?」と隣室の次女にラインを送り、
朝食時に打ち合わせて、大津9時42分のJR線で山科へ行き、湖西線に乗り換えて、高島へ向かうことにしました。
琵琶湖沿いの鄙びた景色や灰色の瓦屋根に統一された家並みを車窓に見た時に、選択の正しさを確信することになりました。
JR湖西線
近江高島駅
10時42分に近江高島駅に到着し、次女が電話予約をしておいた乗り合いタクシーを待って、
同乗者のいないタクシーで、運転手さんからちょっとした観光案内を受けながら、白髭(しらひげ)神社へ行きました。
乗り合いタクシーが白髭神社前を素通りして、湖沿いに南へ向かい、不審に思っていると、やがてUターンして神社前へ戻り、
タクシーは規定通りのコースを走って、乗客が少ない路線バスの代役を務めていることが分かりました。
白髭神社
白髭神社 大鳥居
1280年(弘安3)の絵図には陸上に描かれている白髭神社の大鳥居が湖上に浮かぶいきさつには、
琵琶湖の水位の上昇、天下変災の前兆として突然出現、湖上交通が盛んな時代の参拝目印など様々に伝えられますが、
それを復興させたのは、大阪の薬問屋の小西氏が1937年(昭和12)に寄進したことを始まりとし、
現在の鳥居は琵琶湖総合開発の補償事業として、1981年(昭和56)に建立されたものです。
本体の鳥居の柱を稚児柱(稚児鳥居)が支える両部鳥居(別名、四脚鳥居、権現鳥居など)と称する大鳥居は、
湖面からの高さ12m、柱幅7.8m、国道から58.2m沖に琵琶湖最大の島・沖の島を背景にして建てられています。
近江の厳島と称される朱塗りの大鳥居は逆光が残念で、夕日を受けたらさぞかし美しいことと思われました。
国道沿いの白髭神社本殿前
手前:若宮神社 上段:三社・内宮・外宮
垂仁天皇25年(BC5年)に倭姫命(やまとひめのみこと)創建と社記が伝える白髭神社は近江最古の神社で、
675年(白鳳3)に天武天皇の勅旨によって、比良明神の号を賜わったと伝えられています。
天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)降臨の時に道案内をしたとされる猿田彦命を祭神とし、
白髪、白い鬚をたくわえた老人の姿をした猿田彦命を祀る延命長寿の全国300社余の白髭神社の総本社です。
若宮神社は白髭神社末社で、猿田彦命の別名とも幼名ともいわれる太田命を祭神とし、
創建は不明ですが、本殿と同じ1603年(慶長8)に豊臣秀頼再建という棟札が残っています。
上段は八幡三社、天照皇大神宮、豊受大神宮などを祀り、上の宮と総称され、
1980年(昭和55)に高島町指定文化財第一号の指定を受け、2000年(平成12)に修復をされています。
白髭神社拝殿
左:本殿 右:拝殿
慶長年間(1596-1615)に秀吉の遺命を受けた秀頼によって境内整備が行われ、片桐且元を奉行として、
境内社4殿と共に播州の大工の手で建てられた入母屋造りの本殿は国の重要文化財の指定を受け、
1879年(明治12)造営の拝殿は本殿と屋根がつなげられ、この時に杮葺きの本殿の屋根が檜皮葺に替えられています。
天満宮・稲荷社・弁財天など
岩戸神社の磐座
境内の階段を上っていくと、八幡三社、内宮(天照皇大神宮)、外宮(豊受大神宮)の上に
天満宮、稲荷社、弁財天など、さらに上には岩戸神社と磐座があり、総計10柱の神様が祀られている白髭神社でした。
それだけご利益が多いか、分散されるかは、信心次第、としておきましょう。
四方より花吹入れて鳰(にお)の湖 芭蕉
境内には蕉門の門人によって1857年(安政4)に建立された芭蕉句碑、紫式部歌碑、与謝野鉄幹・晶子歌碑なども置かれ、
大型観光バスが乗り入れ、賑わいある観光スポットとなっていました。
高島
大鳥居遠望
「いにしえの街道 西近江路」
白髭神社前から国道161号沿いの道を北へ10分ほど歩いて、「いにしえの街道 西近江路」へ入りました。
途中で振り返ると、両部鳥居の構造がよくわかる大鳥居アングルとなっていました。
国道脇の歩道や西近江路では、鮮やかに色づいた草木の実が目を楽しませてくれました。
シロダモ アオツヅラフジ サネカズラ ヒヨドリジョウゴ
鵜川四十八体仏
旧西近江路
いにしえの西近江路のゆるやかな丘陵を上っていくと、鵜川四十八体仏と呼ばれる石仏群がありました。
花崗岩の阿弥陀如来坐像石仏群は、安土の観音寺城城主・六角義賢(よしかた)が、
亡き母の供養のために1553年(天文22)に造立したと伝えられ、
義賢は湖東からこの鵜川の地を阿弥陀如来が住む西方浄土に見立てたと考えられていますが、
周辺の境界争いの1436年(永享8)の記録や、冷泉為広の1491年(延徳3)の日記に四十八体石仏群の記載もあるようです。
弥陀四十八願という供養信仰に基づいて造られた丸彫りの阿弥陀如来坐像(像高1.6mほど)が48体も造られ、
1か所に祀られている例は他にはないと言われますが、
48体の中、13体は坂本へ運ばれて、天台座主の墓や家康の供養塔がある慈眼堂の境内に安置され、2体は盗難に遭い、
残る33体がいにしえの山路にひっそりと風化するに任されていました。
打下日吉神社
琵琶湖湖岸
再び国道161号へ出て、打下(うちおろし)日吉神社を遥拝したり、琵琶湖岸へ下りたりしながら、
古来、奈良や京都と日本海を結ぶ交通の重要拠点として発達、戦国時代末期には大溝城の城下町として栄え、
その後、歴代城主・藩主によって整備された街並みを残し、
2015年(平成27)に国の重要文化的景観と日本遺産に選定された歴史ある大溝エリアへ向かいました。
乙女ヶ池
乙女ヶ池の太鼓橋
万葉時代には香取の海、戦国時代には洞海と呼ばれた乙女ヶ池は、古代には壬申の乱、恵美押勝の乱の戦場となり、
大溝城の時代には外濠として利用された歴史を持つ入り江です。
淡水真珠養殖や釣堀に利用された昭和初期から乙女ヶ池と呼ばれ、昭和40年頃までは田仕事の船が行き交ったそうです。
1991年(平成3)から3年計画で整備が進められた県有施設の水辺景観の目玉のひとつが太鼓橋のようで、
東西150m、南北600mの細長い内湖の真ん中で、類をみない造形がアクセントになって、景色を締めていました。
三尾山
万葉歌碑
三尾城の遺構は発見されていませんが、672年(天武天皇元年)に壬申の乱の戦場となったのが三尾山で、
764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱の折、藤原仲麻呂や妻子、郎党が斬罪された勝野の鬼江が、
この香取の海と呼ばれた乙女ヶ池の湖辺と推定されています。
「大船の香取の海に碇おろし如何なる人か物思わざる」という万葉歌碑が歴史に誘い込んでくれるようでした。
水辺の散歩道
大溝城跡
枯れたヨシが水辺を縁取る散歩道を進んだ先に大溝城跡がありました。
1578年(天正6)に織田信長の甥、信澄によって築城されたのが、明智光秀の縄張り(設計)とされる大溝城です。
乙女ヶ池に隣接して天守台跡の石垣が残ることから、内湖を巧みに利用した水城であることが分かっていますが、
この築城によって、西近江路が通る陸交通の要所であり、信長が重要視していた琵琶湖の水運の拠点として、
高島郡支配の地が新庄から大溝へ移り、信長の安土城、秀吉の長浜城、光秀の坂本城と共に、
琵琶湖の制海権を掌握する湖上ネットワークの一端を担なうことになったと言われています。
1582年(天正10)の本能寺の変の後、光秀の娘婿であった信澄は大阪城で自害し、
丹波長秀、加藤光泰、生駒親正、秀吉の直轄地、京極高次、織田三四郎、秀吉の直轄地、岩崎掃部佐とめまぐるしく
城主を代えた大溝城は、1585年(天正13)から取り壊され(1603年慶長8年の説もあり)、
部材は甲賀群水口の岡山城へ移されたと伝えられています。
その後、「城を中心に形成されていた大溝の城下町は、1619年(元和5)に伊勢国上野から入部した
分部(わけべ)氏に引き継がれ、整備されて湖西地域の中核的存在として豊かな歴史と文化を育んで来た。」と
案内板に書かれていました。
現在、天守台跡の石垣は、大溝城本丸跡として、市の史跡に指定されています。
高島びれっじ
1995年(平成7)に高島最古の江戸時代の商家解体が持ち上がった時に、地域の若者たちが立ち上がって、
手づくりの「ムラ」として、魅力ある店舗群へとリノベーションして生まれたのが高島びれっじです。
びれっじ6号館
大溝城跡を出て、県道300号線を歩いて10数分で、びれっじ1号館に到着し、
その奥のびれっじ6号館の高島ワニカフェで、昼食をとりました。
地元有機野菜や湖魚などを使用したカフェ・ランチをゆっくりと味わい、充たされた時間を過ごしましたが、
実は高島へ行くと決めた朝食の相談の時、「高島びれっじへ行く?ワニカフェはどう?」と次女から言われた時は、
「テーマパークのワニ料理?あまり興味がない」と言っていたものでしたが・・・。
ワニは動物でも、地名の和邇でもなく、つくる(生産者)と食べる(消費者)2つの「ワ」をつなぐカフェを意味するそうです。
誤解がよい方に解けて、いっそう楽しいランチタイムとなりました。
びれっじ2号館
萩乃露
総本家 喜多品老舗
町割り水路
1時半頃、ワニカフェを出て、パン屋が入るびれっじ2号館、寛延年間創業の酒蔵・萩乃露の福井弥平商店、
400年前創業の鮒ずしの名店・喜多品老舗などを見ながら、街歩きを楽しみました。
町割り水路は、町割りの整備によって造られた飲用・防火用の生活用水路で、
昔はこの用水路まで琵琶湖の魚がたくさん上って来たそうです。
妙琳寺
勝安寺
真宗大谷派妙琳寺のような大屋根は坂本でも見かけましたが、これは真宗寺院特有の建築様式だそうです。
浄土真宗本願寺派勝安寺は、織田信澄が大溝入りした時に安曇川の田中郷から移されたもので、
信澄から拝領した書院を本堂としたと伝えられ、浅井三姉妹の従姉妹で2世住持の妻の感は、
後に家康の息子、水戸藩祖・頼房の乳母になったと言われています。
大溝陣屋総門
大溝まち並み案内処の看板
大溝陣屋関連で唯一の遺構とされる総門は、分部氏によって整備された武家屋敷敷地の出入り口となった重要な正門で、
かつては総門より南側に武家屋敷、北西に職人町が広がっていました。
江戸期の大修理を経て今に残る建物は、まち並み案内処としてまちづくりの拠点となっている市指定文化財です。
古式水道「タチアガリ」
「大溝の水辺景観」エリアマップを片手に散策した高島歩きの最後に、古式水道「タチアガリ」を見に行きました。
宅地の一画のレンガ造りの構造物をみて、これだろうと目星をつけた江戸時代の水道設備は、
錆びた鉄梯子を上ってみないと構造が分からないものでした。
「殿様の水」の別名を持つ地形利用の水道は、今も生活用水として使われているそうです。
格安JRチケット自販機
今回の近江旅で珍しい自販機に出会いました。回数券をばらしたような1割引きチケットが、街角だけでなく、
JR駅チケット売り場近くにも置かれていたのは、近江商人を生んだ土地柄というものでしょうか?
2時20分頃、近江高島駅を出て、湖西線で堅田(かたた)まで戻り、タクシーで琵琶湖大橋を渡って、
烏丸半島の琵琶湖博物館へ行きました。
このあたりの交通事情はスマホ駆使の次女に助けられて、効率のよい行程となりました。
烏丸半島の埋め立て地
東西を行き来する利便性、観光促進を目的に、琵琶湖の幅が最も狭い大津市と守山市の間を結んだ琵琶湖大橋は、
東京オリンピックに間に合わせるために急ピッチに工事が進められて、1964年(昭和39)9月に開通、
北側は北湖または太湖、南側は南湖と呼ばれています。
大橋を渡って、烏丸半島に入ると、荒涼とした埋め立て地が広がっていて、琵琶湖の負の歴史が感じられました。
タクシー運転手さんによると、最近この辺に広がっているヨシ原の枯渇の理由は分からないとのことでした。
滋賀県立
琵琶湖博物館
正面の山:蓬莱山
琵琶湖大橋を遠望
3時に滋賀県立琵琶湖博物館に到着し、最初に本館の外のデッキから、琵琶湖の眺望を楽しみました。
左側写真の蓬莱山の麓に広がる町が堅田で、その手前、琵琶湖水中にエリと呼ぶ漁猟仕掛けが見えています。
右写真の中央左手に見えているのは博物館の取水塔で、水族展示室と直結している設備だと思われます。
琵琶湖博物館展示室
博物館内は「琵琶湖のおいたち」「人と琵琶湖の歴史」「湖のいまと私たち」と3つの展示室に分かれ、
400万年前に誕生した琵琶湖が、様々な角度から丁寧に説明されていました。
世界には約3億4千万の湖があるそうですが、ほとんどは1万年を経ず消滅する中で、
10万年の歴史を持ち、固有種が生息することが条件とされる古代湖は世界中で約20を数えるだけと言われています。
滋賀県と言えば思い浮かべる琵琶湖は県の半分を占めているという認識でしたが、
実は面積は約670km
2
、県面積の6分の1だったという浅学から始めた琵琶湖の勉強は興味のつきないものでした。
製品に加工される前のヨシの「丸立て」
魞(エリ)の模型
長さ10mのトンネル水槽
琵琶湖の主ビワコオオナマズ
琵琶湖の中で最大級の大きさを誇るビワコオオナマズは、大きなものは体長1.2m、体重20kg以上あり、
魚食性で、琵琶湖の生態系の頂点に立ち、琵琶湖の主と呼ばれています。
イワトコナマズ
ニホンウナギ
竹生島の弁天様のお使いといわれるイワトコナマズ(別名ベンテンママズ)、背中にハートマークがあるニホンウナギは、
トンネル水槽の隠れキャラで、2個体に出会えると幸せがやって来る、というこぼれ話もありました。
古代湖の仲間、バイカル湖のアザラシやアフリカ大地溝帯の湖なども紹介されていたり、
琵琶湖の食文化までリアルに展示された博物館は、2時間の滞在では時間不足でしたが、
閉館案内のアナウンスと共に、やむなく、退出することになりました。
琵琶湖博物館正面入り口
守山市方面
博物館前の緑地から守山市の夕景色を見たりしながら、時間調整をして、5時30分発のバスに25分程乗って、
JR琵琶湖線草津駅へ出て、6時半頃大津へ戻りました。
朝・昼食が充実していましたので、まだお腹がすかない・・・とホテルへ直行し、
宿泊者専用ラウンジに用意されたコーヒー、ソフトドリンク、ビールなどフリードリンクとおつまみやクッキーで一服、
結局、夫たちがコンビニで調達してきた夜食で終わりとした夜になり、食は尻つぼみになりましたが、
たまたま選択した湖西の旅が成功裏に終わって、満足な近江2日目となりました。
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