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2013・4・17
出雲〜石見銀山〜須佐神社〜島根県立古代出雲歴史博物館〜出雲   

                           
朝8時少し前にホテルを出発して、出雲の西南40kmほどの石見銀山へ向かいました。
日本海や山陰本線に沿いながら走る国道9号線は車の量も少なく、小雨模様の空と相まって心細さを誘われるようでしたが、
新緑にヤマザクラの花が混じる春の美しい山景色が続き始めると、眠気と共に旅の気分も目覚めていくようでした。
観光バスと違って車高の低い車ではガードレールなどが邪魔をするために車窓写真が撮れず、時に残念な思いがよぎりました。

石見銀山の観光は中心から少し離れた「石見銀山世界遺産センター」に駐車して、平日は30分に1本という路線バスで移動という
「石見銀山方式パーク&ライド」という方式があるということは承知していましたが、
ガイドブックの地図にPマークがある「龍源寺間歩」をカーナビに入れると、「石見銀山公園」の駐車場へ案内されました。
停めた後で観光には最良の場所であったことがわかったこの駐車場は、平日の朝9時前には閑散としていましたが、
週末などには混み合い、おそらく、お勧めとは言えない駐車場状況になるのだろうと思われました。


「古代出雲歴史博物館 展示ガイド」

2007年7月に世界文化遺産に登録された「石見銀山遺跡とその文化的景観」は、
16C前半から20C前半に操業された銀鉱山跡と鉱山街、銀・銀鉱石の積み出しに利用された港と港町(鞆ケ浦、沖泊)、
これらをつなぐ2つの街道で構成された総面積529haに及ぶ鉱山開発の総体を指していて、
周りには3663haの緩衝地帯(バッファーゾーン・茶色部分)を有しています。

このような広域に及ぶ石見銀山遺跡のコアゾーンとされるのが地図の赤い部分で、さらに黄色の枠内が観光の中心地となっています。
ぼやけた地図ですが、右端中央の「羅漢寺五百羅漢」近くの銀山公園駐車場から南へ2.3kmの龍源寺間歩までの銀山地区と、
北へ0.8kmの代官所跡までの大森町並み地区が、今回、私達が歩いて観光をした区域です。


 大田市観光パンフレット

ポルトガル人宣教師ルイス・ティセラが作成、16C後半にヨーロッパで出版された日本地図に
「Argenti fodinae Hivami」(銀鉱山 石見)の記載が見られるように、銀貿易を通じて東西の経済・文化交流に寄与したことや、
伝統的な銀生産技術を鉱山遺跡に残していること、銀採掘から搬出に至る鉱山運営の全体像が見られることが
世界遺産としての石見銀山遺跡の普遍的な価値とされています。

小雨が上がり、時々日の差す空模様の中、9時過ぎに世界遺産探索ハイキングに出発しました。
有料・無料ガイドや音声ガイド(携帯端末)、また貸自転車など便利なサービスもあるようでしたが、
全行程6km少しなら歩こう!と私達はガイドなしの徒歩観光を決めました。


妙正寺本堂
銀山地区には銀山川に沿って、気持の良い遊歩道がありました。
遊歩道左手に最初に見えたのは昭和18年の大水害で倒壊した後、近年になって再建された日蓮宗妙覚寺派の妙正寺の本堂で、
石見銀山領内では江戸時代に商工業者を中心に日蓮宗が信仰され、銀山町内だけで5か所の日蓮宗寺院があったそうです。



関ヶ原の戦い(1600年)の直後に石見銀山を直轄領とした徳川家康によって初代奉行に任じられ、
それまでの竪堀りから坑道掘りに改め、直山制と呼ばれる間歩の開発など様々な改革を行って石見銀山の最盛期を造った
大久保石見守長安が生前に建てた墓「逆修造塔」もありました。


   
           イチリンソウとツルカノコソウ            サワハコベ                   シャク   
   
              ウマノアシガタ           ミヤマキケマンとムラサキケマン           キランソウ 

自然との共生の中で栄えた石見銀鉱山は、産業衰退後も豊かな自然と自然に溶け込んだ遺跡が残り、
自然と住民が調和した姿が見られると言われる通り、
ウグイスやカエルが鳴き、さまざまな野草が咲く自然の中を歴史の痕跡を辿りながら歩いて、心身ともにリフレッシュされるようでした。


遊歩道から少し奥まった山の斜面に、江戸幕府の支配が終わった後、採掘権を得た藤田組によって
明治27年に建設された清水谷製錬所がありました。鉱石の品質が予想より悪く、設備の精錬能力も充分ではなく、
採算がとれなかったことによって、操業からわずか1年半、明治29年10月に閉鎖されたそうです。


清水寺山門

銀山川
 
毘沙門天                 不動明王

銀山の開発と深いかかわりを持つ言われる清水寺(せいすいじ)は創建当初は天池寺と号し、
仙ノ山山頂の石銀地区から清水谷へ移転した延歴17年(798)に寺名を改号し、現在の地へ明治11年に移転、
山門には江戸末期の作といわれる2体の石造立像が安置されていました。
山師安原備中が徳川家康より拝領した辻が花染丁字文道服を寺宝とすると言われています。

銀山川に沿って自然と史跡が融合した景観を楽しみながら歩いて1時間ほどで龍源寺間歩に到着しました。
間歩とは銀を採掘した坑道のことで、水抜き用・通気用・試掘や露頭掘りも含めて石見銀山には600か所を超える間歩があり、
龍源寺間歩(600m)は江戸時代前期には大久保間歩(870m)に次ぐ規模を誇っていたそうです。

1526年に博多の商人神屋寿禎によって発見された石見銀山は16Cの大航海時代にはヨーロッパで唯一知られた日本銀鉱山で、
16C半ばから17C初頭に世界の銀生産量の3分の1を占めた日本銀の相当量が石見産で、
品質の良さと信用度の高さによってアジアとヨーロッパの交易に重要な役割を果たし、
1923年に休山した後も世界有数の鉱山遺跡として高い評価を得ています。

 
龍源寺間歩 管理棟 間歩入口
土石落下を防ぐために直径90cmの栗の丸太柱4本を組んだ縦1・8m、横1・5mの四ツ留めと呼ぶ入口から坑内に入りました。
かってはこの入口の右側に役所詰所、左側に鍵置場(銀鉱石置場)があり、厳重な見張り番所となっていたそうです。


   

石見銀山では百数十万年前に石英安山岩の表面に生じた数ミリ〜数メートルの割れ目(クラック)にそって
金・銀・銅を含む地下水・熱水が通過して、蓄積された金属によって鉱脈鉱床が形成されたそうです。

600mの間歩の中157mと通り抜け用に平成元年に造られた116mの新坑道(栃畑谷新坑)が観光用に公開されていますが、
当時のノミの跡が残る坑内では温度計が10℃を指し、
20余りの「ひ押し坑」(岩石の隙間に板のように固まっている鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道)や
 間歩に溜まった水を100m下の永久坑道へ排水する垂直竪坑をみることが出来ました。
間歩の周辺には貴金属を含む性質を持つヘビノネゴザというオシダ科のシダが生殖し、金銀山発見の手がかりとされたそうですが、
ライトアップされたひ押し坑に生えていたシダは別種のようでした。
新旧坑道の交差点には石筍も見られました。


  

   

間歩の出口近くに「石見銀山絵巻」(島根県指定文化財古文書)の電照板が掲示されていて、
落盤防止用に使う支柱(留木)の作成、坑外の風を昼夜送り込む装置、溜まり水を木製ポンプで吸い上げて疎水坑へ流し出すシステム、
たがねを鋏で固定して槌をふるい、1日5交代で横2尺、高さ4尺掘り進み、「かます」に鉱石をいれて背負って運搬する彫子たち、
坑木を運ぶ留山師の様子などをビジュアルに見せていました。



龍源寺間歩出口

間歩見学を終えて外へ出るとすぐ近くに、「銀山香木師」がクロモジの枝を粉砕して作る香り袋を売る中村屋がありました。



香り袋の購入は見合わせましたが、「小学生のおみやげに」と表示された「香りの石」を買って帰ると、
軽石のような物にラベンダーの香りをつけて銀色塗装をしたものと判明しました。
孫達に銀山へ行ったということを印象付ける効果くらいはあったと思うのですが・・・?



佐毘売山(さひめやま)神社

豊栄神社
石銀集落跡の近くに鉱山の守神、金山彦命を祀り、鉱夫や村人から「山神さん」と親しまれた佐毘売山神社がありました。
室町幕府の命により永享6年(1434)に周防国(山口県)守護の大内氏が益田市から分霊を移して祀ったと伝えられ、
戦国時代には銀山を領有した大内氏、尼子氏、毛利氏の崇敬を受け、
江戸時代には大久保石見守長安が手厚く保護、文政元年(1818)の大火で全焼した翌年には
代官所の援助によって再建されたと言われる国の指定史跡です。

毛利元就を祭神とする豊栄神社は、慶長2年(1866)に大森へ入った長州軍が藩祖の木像の存在を知り、
浄財を募って本殿や境内地を再建、整備した神社で、明治天皇宣下によって長安寺から豊栄神社と改名されています。


山中で鮮やかな白さが目立っていたヤマナシ

帰路は遊歩道を離れて一般道を歩きましたが、車進入が規制されているため、のんびりとした里山風景を楽しむことが出来ました。
大田市最古級といわれる17C初めの山門を持つ西本寺がのどかな里山の景観に溶け込んでいました。



時々貸自転車が行き交う道で、たまに出会った歩くようなスピードで走るベロタクシーはドライバーは汗だくで大変そうでしたが、
自転車、徒歩が困難な人には有り難い観光手段かもしれません。



銀山公園で小休止した後、銀山附役人、町年寄り旧宅、郷宿の町家、商家、社寺仏閣などが混在する
政治や経済の中心地である大森地区へ町歩きに出掛けました。
江戸時代に幕府の直轄地として谷筋に沿って発展した町並みは、寛政12年(1800)の大火で3分の2を消失、
現存する建物のほとんどがその後に再建されたものですが、伝統を伝える情緒ある町並みが保存されていました。


栄泉寺 町並み交流センター(旧大森区裁判所)
慶長元年(1596)に開山した栄泉寺は大火後の文化4年(1807)に本堂を再建、
嘉永6年(1853)に再建した山門「竜宮門」は、日光の家光の廟所「皇嘉門」に似ているために代官から取り壊し命令が下されましたが、
 住職の留守を理由に板などで覆い隠し、幕末のどさくさにまぎれて取り壊しを免れた言われています。

町並み交流センターとして使われている旧大森区裁判所は明治22年から昭和20年代初頭まで機能し、
大森町が地方行政や司法の中心的役割を担っていたことを語り継いでいます。



小高い岩山の上に立つ真言宗の観世音寺は大森代官所が銀山隆盛を祈って建立した祈願寺で、
 寛政の大火で消失した後、万延元年(1860)に再建されたものです。山門前から大森町の町並みを展望することが出来ました。

大森代官所 長屋門 石見銀山資料館(代官所跡)
江戸幕府の直接支配を受けたことによって設置された代官所(陣屋)は、
1815年建造の正面の長屋門に門番詰所や仮牢があり、敷地内の明治35年に造られた役所建物は、
鉱山資料、奉行代官資料などを展示、周辺の150余村を支配していた大森町の歴史を追体験できる資料館となっています。

町内では資料館の他、代官所地役人の旧河島家(武家屋敷)や熊谷家住宅(商家)なども公開されていましたが、
今回は坑内見学と街歩きだけで充分という思いがあり、内部見学はパスしてしまいました。

城上神社 楼門
江戸の亀戸天満宮を手本としたと言われる城上神社は、大森、銀山両地区の氏神である大国主命を祭神とし、
天正5年(1577)に毛利氏によって愛宕山から現在地へ遷座、寛政の大火後、文化9年(1812)に再建されています。


  

三瓶山近くの絵師、梶谷円隣斎守休が拝殿の鏡天井に描いた「鳴き龍」(大田市指定文化財)が有名で、
下に座って拍手をしてみましたが、共鳴を確かめることは出来ませんでした。
様々な絵が描かれた極彩色の格子天井も趣きがありました。

 

12時半ごろ、「うめの店」で刺身定食ランチ(1200円)をいただきましたが、
ミズダコ、バトウ、ブリの新鮮なお刺身はとても美味で、山の町である石見が直接海とつながっていることが実感されました。
同じお店にいた「カリフォルニア」「サンフランシスコ」から来て京都を起点に1ヵ月の旅をしているという二人の女性は、
この後、直島へ行くという日本通と見受けらる方々で、「日本はとても美しい」と言いながらキランソウにカメラを向けていました。


勝源寺 四脚山門
四脚山門の正面桁の龍の彫物が素晴らしい浄土宗の勝源寺は2代目奉行武村丹後守道清が大檀那として創建したと言われ、
境内に代々の代官墓所が見られました。
1668年ごろ再建された境内裏山の東照宮には隠れキリシタン地蔵(市・県文化財)が保存されているそうです。


漆喰外壁が美しい代官所地役人の岡家遺宅の外観などを見ながら、来た道を駐車場まで戻って行きました。

    

ユニークな家紋入り軒瓦は武家屋敷より商家に多く見られたものですが、それぞれの個性で目を楽しませてくれました。
4時間余りの石見銀山観光を堪能して、銀山公園駐車場を1時15分に出発、出雲への帰路につきました。

                                         参考:「石見銀山遺跡案内マップ」及び区域内の案内板



2時頃、日本海に面した「道の駅キララ多岐」に立ち寄りましたが、
日本では内湾部に多いとされる赤潮が一面に発生し、不気味で衝撃的な海の色となっていました。




ソフトクリームで一休みした後、お土産菓子を選びましたが、この道の駅で珍しかったのは、
フランスのいちじく収穫祭で最優秀賞を受賞したという多岐産の「蓬莱柿」(ほうらいし)種の干しいちじくで、
ワイン、レモン、砂糖などでゼリーのように加工されていましたが、種がいちじくらしい食感を残していました。



石見銀山の観光が予想より早目に終わりましたので、内陸に10kmほど入った須佐神社まで足を延ばすことにしました。
諸国を開拓した須佐之男命が最後に辿り着き、御魂を鎮めた場所がこの須佐郷(佐田町)と言われ、
「この国は小さい国であるがよい処である。自分の名は石木にはつけないで、この土地につけよう」と出雲国風土記に記されているそうです。
「我が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と日御碕へも行かれましたし、神様の御魂は自在なものと見受けられます。


 

鳥居を抜けた先に随神門があり、豊磐間戸神、櫛磐間戸神の2神が門守神(かどもりのかみ)として
片足は胡座、片足をおろした姿で狛犬と共に置かれていました。


53代淳和天皇の天長年間(824〜833)に宮内部落の東南、宮尾山山麓から現在地に遷座したと伝えられる須佐神社は
森の中に凛とした佇まいを見せる大社造りの拝殿と本殿が昭和41年に島根県重要文化財として指定されています。


   

境内には神楽殿があり、その右手に須佐之男命が自ら潮を汲んでこの地を清めたと伝えられる「塩井」がありました。
この井戸は日本海につながっていて満潮の時は附近の地面に潮の花がふくと言われています。
本殿の裏手には樹齢1300年、樹高24m、周囲6mという大杉が注連縄をつけて、ご神木とされていました。

 

本社と道路をはさんで向き合う天照社へ渡御、神饌を供する行幸の神事である例大祭が翌4月18日に行われるせいか、
境内の石亀も稲わらの菰を新しいものと取り替えられていて、
例大祭の翌19日に行われる悪魔退散、五穀豊饒を祈る例大祭古伝祭の準備のようにも見えました。


天照社は大社造りが不釣り合いな程小さな社殿でしたが、そのひっそりとした控えめな所が魅力とも言える神社でした。

道路標識がほとんどなく、カーナビなくしてはとても辿り着けなかったと思われる佐田町を3時過ぎに出て、
2422mの木谷トンネルを来た時よりも短く感じながら、山間の道を出雲へと戻りました。



佐田町から40分ほど、3時45分に島根県立古代出雲歴史博物館に到着しました。
博物館では「平成の大遷宮 出雲大社展」が開催されていて、国宝「秋野鹿蒔絵手箱」(鎌倉時代)や重要文化財の鎧兜(室町時代)など
大社の至宝や考古資料・古文書のほか、全国の諸社から集められた神道美術品や本堂修造事業紹介のパネルが展示されていました。


2000年に御本殿前で発掘された宇豆柱 出雲大社御本殿の復元模型
荒神谷遺跡から1984年に発掘された358本の銅剣、16本の銅矛

   
加茂岩倉遺跡で1996年に発見された39個の銅鐸

常設展示で是非とも見たいと思っていたのが弥生時代の青銅器文明の遺物の数々で、
膨大な数には圧倒されましたが、杉綾、市松、格子などの文様や動物の絵が施された銅鐸に出会い、感動を覚えたひと時でした。



伝卑弥呼の鏡

旧石器時代から現代まで出雲の歴史を辿った展示室で、ポイントを絞って1時間半ほどのスピード展覧をした後、
5時20分に博物館を出て、20分程でホテルへ帰着しました。


    

少し強行だった一日の疲れを休めてから、「ラーメンを食べたい」という夫に合わせ、
出雲の藻塩を使った塩ラーメンを看板メニューとするホテル推奨のラーメン店へ出掛けましたが、
メニューが少ない分はビールで補足というささやかな夕食となりました。


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