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2013・4・18
出雲〜西谷墳墓〜荒神谷史跡〜加茂岩倉史跡〜八本杉〜須賀神社
〜熊野大社〜八重垣神社〜神魂神社〜松江

                           
西谷墳墓群史跡公園 2号墓
島根の旅3日目は出雲から松江へ向かいましたが、途中木次まで14kmほど南下、遺跡と神社巡りの一日となりました。
ホテルを8時前に出発して、20分程で西谷墳墓群史跡公園に到着しました。
 西谷墳墓群は1953年に大量の土器が出土して発見された弥生時代後期後半から古墳時代中期(2C後半〜5C)の墳墓群で、
発掘された32基の中、6基が四隅突出型と呼ばれる弥生時代後期の山陰地方独特の型をしています。
特殊な方法で石が貼られた舌状に張り出した四隅は、方形墓が大きくなるに従って必要となった墓の上部へ上る通路で、
吉備地方(岡山県と広島県の東部の一部)や日本海沿いに北陸地方まで同型の墳丘の伝播が見られるそうです。



西谷墳墓群史跡公園

 
四隅突出型墳丘墓                             3号墓

公園入口の案内板に掲載されていた3号墓の復元図に見られるように、
四隅突出型墳丘墓は斜面を貼石で覆い、裾に2重に敷石、立石が巡らされていて、
長さ40×30m、高さ4.5mの3号墓の内部からは吉備や北陸地方の土器、中国産の水銀朱、大陸産のガラス玉などが出土し、
各地と交易を行っていた首長の墳丘と考えられ、また4つの柱穴が残ることから、
葬祭台を支える4本の柱の真下に石棺を置いて葬送儀礼が行われたと見られています。


  

朝早く、訪れる人もいない霧雨の降る公園の中を古代に思いを馳せながら30分程散策した後、
隣接する9時に開く弥生の森博物館はパスして、8時45分に次の目的地の荒神谷遺跡へ向かいました。
初めて見たザイフリボク(シデザクラ)の楚々とした風情も印象的でした。



斐伊川を渡り、菜の花畑など田園風景の中を15分ほど車を走らせて、9時過ぎに荒神谷史跡公園に到着しました。
荒神谷史跡公園は「出雲の原郷」の歴史景観を守り、未来へ伝えるために整備、公園全体では25.5haを擁し、
遺跡部分の1.3haが国の指定史跡とされている平成7年(1995)5月にオープンした公園です。


荒神谷博物館 荒神谷遺跡

先ず北駐車場に車を止めて、荒神谷遺跡を見学しました。
この遺跡が発見されたのは昭和58年(1983)の広域農道建設に伴う遺跡分布調査の時に、
調査員が田んぼの畔で一片の土器(古墳時代の須恵器)を見つけたことがきっかけで、
遺跡の南側に「三宝荒神」がまつられていることから荒神谷遺跡と命名されました。
荒神谷は「出雲風土記」に記載される出雲郡神名火山に比定される仏経山の北東3kmの斐川町神庭西谷に位置し、
祟りがあるので近寄ってはいけないという昔からの言い伝えや神庭という地名に重要な意味が含まれていたことが分かります。

 翌、昭和59年(1984)に谷あいの標高22mの南向き急傾斜面から358本の銅剣が出土したことを受け、
60年(1985)に地下レーダー、EM38(浅部電磁法探査装置)、メタルロケーター(金属探知機)で綿密調査を行った結果、
7m離れた場所から銅鐸6個と銅矛16本が出土し、弥生時代の青銅器研究の見直しが迫られる大発見となりました。
それまでの国内出土の銅剣数300本余りを超える量、銅鐸と銅矛という例のない組み合わせ、国内最古型式銅鐸が含まれること、
北九州で出土したものと同じ綾杉状文様が銅矛にあることなど、様々な点が注目を浴び、今なお論議を呼ぶ遺跡となっています。

弥生時代に武器として大陸から伝わった銅剣は日本で作られるようになってから祭器へと変わり、
50cm前後の中細型の荒神谷遺跡出土品は「出雲型銅剣」と呼ばれ、
柄を刺して武器としたため根元が袋状になっている銅矛も大型化して祭器となり、出土品は68.5〜84cmの長さを持っています。
元々は馬につける鈴であった銅鐸も、神を招く「鳴らす銅鐸」から「見る銅鐸」へと次第に大型化していったそうです。
中に取り付けた舌を揺らして鳴らすのが鐸で、撞いて鳴らすのが鐘であると区別されますが、
政令を発布する時には文事には木鐸、武事には金属製の金鐸と使い分けた時代もあったそうです。



出土した銅鐸と銅矛

出土品レプリカを置いて公開している発掘跡を展望デッキから見学した後、
初夏には5万本の花が見られるという古代蓮池、黒米などを作って古代農業を体験する農耕地などを通って、
平成17年(2005)に開館した荒神谷博物館へ寄り、大型映像で出雲の原郷風景や遺跡の発掘ドキュメントのビデオを観たり、
古代出雲の歴史展示物やミュージアム・ショップを見て回りました。
カフェがあると期待したコーナーは交流学習室ということで、ティー・ブレイクを取ることが出来ず残念でしたが、
閑散とした館内を見ると、人を配せない事情も分かり、やむを得ないことと納得されました。



その後、南駐車場へ回って、史跡公園のシンボルとなっている復元した竪穴式住居を見学しました。
体験学習やバーベキューなどが出来る広々とした森でしたが、ここにも管理作業員の姿しか見られず、
緑を独占という、贅沢ながらも、少し物寂しさも感じたひと時でした。



新緑に彩りを添えていたムラサキヤマツツジ

加茂岩倉遺跡

荒神谷史跡公園から山間の道を20分程走って到着した加茂岩倉遺跡は、
平成8年(1996)10月に農道建設工事現場で重機がすくいあげた「青いポリバケツ」と思われたものが、
39個の銅鐸発見の始まりだったという遺跡で、「自然景観を楽しみながら遺跡への理解を深める」という趣旨のもと、
駐車場は少し離れた場所に造られていて、丘陵をゆっくり歩いて10分ほどでレプリカ展示のある出土跡に着きました。
復元された埋納坑を見ていると、発見当時の興奮が鮮明に目に浮かぶようでした。 



農道工事によってV字状に切断された丘陵に沿った遊歩道の先に加茂岩倉遺跡ガイダンスという展示場がありました。
私達が遺跡へ行くのを見ていた職員の方が待ち構えていたように、お茶を入れて、発掘時のビデオを見せて下さった後、
45cmの銅鐸20個と30cmの銅鐸19個が入れ子になっていたこと、展示しているレプリカにも高度な技術がみられること、
荒神谷遺跡と3キロほどしか離れていないので古代出雲に巨大勢力があったと思われるなどというお話しをして下さいました。

「弥生文明は稲作農業を生産の基礎とする文明である。農業に従事する人々を統合する宗教的・政治的権威が必要である。
それが神聖たるべき王の存在であろう。日本では昔から「政」(まつりごと)は「祭り事」といわれるように、政治はすなわち祭事でも
なければならなかった。そしてそこで、青銅器は出雲王朝の政治と深く結びついた祭器であったと考えられる。
・・・スサノオ、オオクニヌシが農業に携わる民を統合する祭器は、銅鐸を始めとする青銅器であったのではないだろうか。」
そして1C頃のものと考えられるこれら2か所の遺跡は、「オオクニヌシの国譲りの時期と合致する」と梅原猛氏は述べています。

祭器であり、集団結束のシンボルであった青銅器が何故土中に埋められていたかについては、
保管説、隠匿説、地鎮説、境界説など諸説あり、いずれも決め手はありませんが、
荒神谷史跡の銅剣358本中の344本、加茂岩倉遺跡の銅鐸の鈕(吊り手)に14個刻印された×印は死者へ贈られた印で、
この世で不完全なものがあの世では完全な物であるという信仰を表すと見られています。
また青銅器が急速に使用されなくなったのは、新たな祀りやシンボルが生まれたせいではないかと考えられています。
昨夕、古代出雲歴史博物館で観た銅鐸や銅剣の発掘場所を実際に訪ねられた満足感に浸りながら、
11時半に加茂岩倉遺跡を出発して、雲南市木次(きすき)を目指しました。

高天原を追放された須佐之男命が肥の川(斐伊川)の鳥髪の地に降り立つと、箸が流れて来て人が住んでいることを知り、
泣いている国神脚摩乳命(あしなづち)と手摩乳命(てなづち)、稲田姫命に出会ったという八俣大蛇伝説を持つ雲南市木次ですが、
「八俣大蛇公園」「八本杉」「斐伊神社」など須佐之男命伝説ゆかりの場所は、どれも検索不能とカーナビに表示され、仕方なく、
道の駅「さくらの里きすき」、木次駅など表示される場所を繋ぎながら、雲南市役所まで行って教えてもらうことにしました。
そこで八俣大蛇伝承地という割にはそれ程の名所という訳でもなく、地元の関心も薄いらしいこと、
近辺には昼食に適したお店がないことが判明し、伝承地は一か所だけ、八本杉に寄ってから須賀神社へ行くことにしました。




「目はほおずきのように赤く、頭が八つ、尾も八つ 銅は苔むし、背にはヒノキやスギが生え、
その長さは八つの山、八つの谷に渡る程」の八俣大蛇を、八つの酒桶を用意させて、
それを飲んで眠りこけた所をしとめた須佐之男命が、八つの頭を埋めて、八本の杉を植えたことに由来する「八本杉」は、
県道から少し入った宅地の一角にあり、鳥居と石碑が祀られていました。
 八本杉は斐伊川の氾濫によって流失する度に補植されて、現在のものは明治6年(1873)に植栽されたものだそうです。

須佐之男命が八俣大蛇の尾から取り出した天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が天照大神に献上され、
倭建命(やまとたけるのみこと)が東国征伐に用いたという草薙剣伝説や、
日本古来の製鉄法たたらによって江戸時代の最盛期には全国の鉄生産量の7〜8割を産出したといわれる奥出雲地方では、
砂鉄を含む岩石を水路に流して砂鉄を取り出したため(鉄穴流し)、廃砂が流された斐伊川は真っ赤に染まったと言われ、
このたたらの風景が八俣大蛇から流れる血と結ばれているのではないかという話も思い出される伝承地でした。



1時近くに須賀神社に到着しましたが、ここでも周りに食堂らしきものが見えず、昼食は熊野大社まで我慢することになりました。
八俣大蛇を退治した須佐之男命が稲田姫命と共に辿り着いて、「我此地に来て、我が御心すがすがし」と言ったのが須賀の由来とされ、
出雲風土記が成立した733年には存在が確認される「日本初之宮」の須賀神社です。
須佐之男命がこの宮を包むように美しい雲が立ち上がる様子を
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」と詠まれたことから和歌発祥の地ともされ、
随神門を抜けると、拝殿の下に大きな歌碑が立っているのが見られました。



須賀神社御本殿

須佐之男命と稲田姫命の御夫婦神と御子神である清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしさろひこやしまのみこと)を
主祭神とする須賀神社は、縁結び、子授け、安産に格別なご利益があると言われています。
須賀神社より2kmの八雲山の中腹に奥宮もあるとのことでしたが、とても歩けないだろうと思っていた所、
社務所の方から車で下まで行けると教えていただき、それならばと立ち寄ってみることにしました。



登り口に着いた所で同年輩と思われるご夫婦が下山され、妻「登る価値はありますよ。」夫「どうかな、いや、まぁ、いい所ですよ。」という
情報を得ることが出来ましたが、車で来ることが出来ると分かった徒歩組のお二人には脱力の表情も見えました。
少し上った所にある不老長寿の効用があるという湧水「神泉坂根水」の前を通って、
標識では400m、山男を自認する夫によるとそれ程はない、という少し険しい山道を登って行きました。


古代須賀神社の社地といわれる山の中腹の杉林の中に大きな夫婦岩、親子岩が祀られていました。
元々は須賀の総氏神様として信仰されていたといわれる磐座(いわくら)ですが、
このような磐座信仰は鉱山、とりわけ鉄生産業と深い関わりがあったと言われますので、
正に製鉄が国作りの中核であった出雲の歴史を物語っている巨石だと思われました。

須賀神社奥宮からはカーナビの指示通りに県道へは戻らず、車がすれ違うことが出来ないような狭い山道を20分ほど走って、
2時前に熊野大社に到着しました。


  

大社に隣接する温泉施設「ゆうあい熊野館」で島根牛のロース丼とオムライスの昼食にありつけて、ようやく人心地がつきました。
(空腹になると機嫌が悪くなる運転手をなだめすかしの旅路でもあり・・・?)


意宇川にかかる八雲橋 熊野大社随神門

熊野大社拝殿

熊野のくまは神代(くましろ)の意で神と同義と言われ、平安初期までは出雲大社より格上とされた出雲の国一之宮である熊野大社は
後方の深い森の静寂に守られて、風格ある佇まいを見せていました。
須佐之男命と稲田姫命を御祭神とする昭和23年(1948)造営の御本殿の右に稲田姫命を祀る稲田神社、
左に母神・伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀る伊邪那美神社とご一族神の社が並んで立っていました。

鑽火殿 舞殿

大正4年(1915)造営の鑽火殿(さんかでん)、拝殿だった建物を昭和53年(1973)に移築した舞殿も趣きがありました。
須佐之男命が檜の臼と卯木の杵で火を鑽り出す方法を教えたという伝説を持つ熊野大社は、
火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれ、
毎年10月10日に出雲大社から宮司が参じ、11月23日の古伝新嘗祭に使用する燧臼(ひきりうす)燧杵(ひきりぎね)を
受け取るための鑽火祭と呼ばれる神事が鑽火殿で行われます。
これは出雲大社が新米で作った神餅を持参し、その出来栄えに熊野神社の社人・亀太夫が決まり文句の苦情を申し立て、
出雲大社の宮司はそれを黙って拝聴、亀太夫も言うべき苦情が終わると納得し、
その後、神職が熊野大社の宮司に神餅を手渡して神前にお供えするという亀田太夫神事とも呼ばれる珍しい神事で、
燧臼、燧杵を手渡された出雲國造は神歌と琴板の楽に合わせて神舞「百番の榊舞」を奉納するそうです。 
また出雲國造の代替わりの時には、鑽火殿で鑽り出した火で調理した斎食を新國造が食べることにより、
祖霊の霊魂を継承するという火継の儀式も行われ、二つの大社の長い歴史が窺えます。

八重垣神社 八重垣神社拝殿

須佐之男命が八俣大蛇を退治する時に妻の稲田姫命を隠した「佐久佐女(さくさめ)の森」にある八重垣神社は、
熊野大社から車で20分程、北上した所にありました。
江戸中期の御造営と言われる御本殿の御祭神は、当然ながら、縁結びの大祖神である須佐之男命と稲田姫命となっています。


   

寛平5年(893)の国庁御造営の折に本殿胴板に描かれ、神社の障壁画としては日本最古と言われる板絵著色神像が
 昭和41年に造られた宝物収蔵庫の中で公開されていました。
右に天照大神と市寸嶋比売(いちきしまひめ)、中央に須佐之男命と稲田姫命、左に脚摩乳命(あしなづち)と手摩乳命(てなづち)の
6神像が描かれた伝・巨勢金岡(このせかなおか)の板絵は、
鉋のない時代に槍鉋(やりがんな)を用いて板を削り、古代の火山灰白土を塗った上に古色豊かに描かれていて、
国の重要文化財の指定を受けています。


山神神社 貴布禰神社と手摩乳神社

小さな神社が並ぶ境内を抜けて、「古代結婚発祥の地」という石碑を見ながら御本殿裏の奥の院へ行くと、
森の中に身を隠した稲田姫命が避難中の飲み水としたり、姿見とした鏡の池がありました。
 池の中からは古墳時代後期の須恵器の甕や高杯が発見され、古くから祭祀が行われていたことが裏付けられていますが、
 現在では社務所で売っている薄い和紙に硬貨を載せ、沈む早さで縁の遅速、沈んだ場所で縁の遠近を占う神秘の池として
人気を呼んでいます。池の縁には「胸ポケット等からの落とし物に注意」という立て札が見られました。
毎年5月3日には八重垣を作って身を隠された故事に因む身隠し神事という古伝祭も行われているそうです。


 

稲田姫命が地面に立てた二本の椿の枝が芽吹いて一本の木になったと伝わる連理玉椿(夫婦椿)も八重垣神社の象徴とされ、
  枯れても発生するという二股椿が3本ありました。
「資生堂の花椿会はこの玉椿を神聖視して発展し、美容調整の御神徳がある」と神社御由緒に書かれています。


この日最後に寄ったのは、出雲國造の祖神である天穂日命が降臨した場所と伝わる神魂(かもす)神社で、
 現在の主祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)で、夫神の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)も合祀されていますが、
寛文年間(17C)の新嘗会祝詞には熊野大神や大己貴命などの神名も見られるそうです。



長い石段を登って行くと、作物の豊作を祈る「祈年祭」が行われていて、
「撮影はご遠慮ください」と書いてありましたが、「儀式の邪魔をしなければ・・・」と勝手に解釈して、
向殿を上り下りして本殿に入る珍しい光景を、シャッター音を消して、遠くからカメラに収めました。
天正11年(1583)に再建され、現存する最古の大社造りとして昭和27年(1952)に国宝の指定を受けている御本殿は
古式ゆかしきという言葉が自然と思い浮かぶ佇まいで、神事参列者の少なさすらも好ましく思われるようでした。
御本殿の左側に見える天正11年に建立された貴布祢稲荷神社も重要文化財の指定を受けています。


お祭りが終わった後、氏子さん達に混じって、勧められたお神酒を遠慮なくいただきました。
(何はともあれ?)ご利益にあずかれますように・・・。


社の扉を閉める神官たち

神事の間は社の扉を開いたままにするなど神社の珍しい習わしや祭り事に遭遇して、ちょっとした気分の高揚と共に、
4時15分頃、神魂神社を後にして、松江駅近くのホテル「ドーミーイン松江」に5時前にチェックインしました。

    

少し手狭な感じのするベッドルームでしたが、昨年オープンのホテルはバス・トイレが独立して使い勝手の良い水回りになっていて、
TV付きのジェットバスにも驚かされました。
この最新設備でリラックスタイムを過ごし、旅の疲れを癒してくださいとありましたが、
実はこの日、須賀神社奥宮からの下り道で左足首をひねってしまい、ゆっくりバスタイムとはいかない事情があって残念でした・・・。

 
    

    

朝方の雨は止んだものの、曇り空の一日でしたので、宍道湖で夕日を眺めるという計画は諦めて、
部屋でゆっくりと休んだ後、お土産ショッピングに松江駅ビルへ行き、
そこの店員さんに教わった近くの「根っこ」というこじんまりとした居酒屋で夕食を取ることにしました。
地元産魚(タイ、ヨコワ、白バイ貝、アジ、ヒラマサ)のお造り、飛魚(アゴ)野焼き、ノドグロのしゃぶしゃぶなど、
奥出雲葡萄園のワインの美味しさに感心しながら、日本海の幸をたっぷりと堪能しました。
サラダに載っている黒い物はたまねぎで、焦げた皮を1枚剥ぐと白くて甘いたまねぎが現れました。
しゃぶしゃぶの後の雑炊で締めて、美味しく、楽しく暮れた島根最後の夜でした。

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