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8 Mar 2008
  Tartus〜Ugarit〜Lattakia〜Qal'at Salah Eddin〜Aleppo 

宿泊したシャーヒン・タワー・ホテル14階のレストランからタルトゥースの町や港が見渡せました。
 タルトゥースはフェニキア時代以来の港町で、十字軍時代には主要な補給港として軍事的にも栄えたそうです。
現在はラタキアに次いでシリア2番目の港となっています。


海藻取り フェニキア時代の塔を利用した風車

今日の出発は9時、とゆっくりした気分で、朝食後、海の方へ散歩に出掛けました。
海藻を取っている人やかもめを眺めていて、突然思い出したのが、バゲッジアウトが8時20分ということ。
夫が5分で部屋へ駆け戻り事なきを得ましたが、いつもは部屋の外にスーツケースを出してから散歩に出る所を、
出し忘れたまま外出してしまったのです。
昨夜、前の日の時間がインプットされていて、夕食時間を15分勘違いしたのに続いて、ミスの連発です。
時差ボケ、旅モードへの適応遅れ、旅慣れによる気の緩み・・・?
いずれにしろ、いままでなかった失敗をして、ちょっと気分落ち込みの朝でした。



9時にホテルを出発、間もなくバスから下車し、沖合2.5kmに見えるシリア唯一の島アルワド島を遠望しました。
長さ800m、幅300mの小島は元々はカナン人の植民地、フェニキア時代には貿易拠点として栄えた都市国家で、
現在は400人の島民が暮らしているそうです
右側写真ののっぽビルが宿泊したシャーヒン・タワー・ホテルです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 追記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



アルワド島沖合20km、水深32mの海底の沈船から発見されたアンフォラが
三鷹の中近東文化センターに展示されています。
NHKが1980年代にシルクロードの番組を制作した時に発掘されたものだそうです。



リゾート都市開発が進むタルトゥースを後にして、地中海沿いに北へ100km程、ウガリットへ向かいました。
(さらに100km足らず北上すると昨夏訪れた東トルコのアンタクヤに行き着きます。)
シリアの農産業を担う地中海沿岸地帯は小麦、綿花、オリーブ、オレンジ、アーモンド、レモンなどの他、
ビニールハウスでいろんな野菜や花が栽培されている様子でした。
4本の煙突が見えているのはバニヤスの発電所ですが、(追記:1990年前後に日本の円借款によって
作られたものだと旅仲間からメールが届きました。)工場地帯でもある沿岸地域には、
1970年代に東ドイツによって中近東で最大のセメント工場が建設され、
その環境汚染によって、多量のオリーブの木が枯れたと言われています。


 

10時半ごろ、ウガリット遺跡に到着しました。
1928年に農地を耕していた農夫が粘土板を発見、1929年からフランスの考古学隊が発掘を進めた遺跡で、
BC7000年紀前半の新石器時代から青銅器時代、ヒッタイト時代の集落の層位が見られ、
セム系遊牧民のカナン人やフェニキア人が地中海沿岸に作った隊商国家のひとつとなったBC2000年紀後半に
最も繁栄した都市国家です。
ウガリットを始め、周辺の文明都市が謎の海の民によって滅ぼされたのはBC1200年頃のことですが、
滅亡の原因は大規模地震、干ばつなどの気候の変化、鉄の導入による戦略の変化など
別の社会現象によるものではないかという意見があるようです。

小アジア、メソポタミア、エジプト、エーゲ海を結ぶ文化、経済の要衝の地として栄えたウガリット王国は、
27haの広さを持ち、王宮には60余室と5つの中庭があったそうです。
右側写真は城壁に作られた小さな通用門で、正門は未発掘となっています。



王宮のレセプションホール、バンケットルーム、大臣室の基礎が残る広い遺跡の中を見学しました。
2本の列柱跡が残る右側写真の王宮執務室の文書庫からは沢山の粘土板文書が発見されたそうです。
王宮の東側には豪商の邸宅や店舗、一般家屋のある商業地区がありました。


地下墓 飲料水用の大甕

岬を意味するウガリットは別名ラス・シャムラ、ウイキョウの咲く丘と呼ばれているそうです。
ウイキョウは見つけられませんでしたが、イネ科植物がはびこる中に原種のシクラメンや、
小さな花を多種見つけることが出来ました。(種名同定は怠けっぱなし・・・。)



アクロポリスにはカナン人の最高神バール神殿とアモル人の豊穣の神ダゴン神殿の跡が見られました。
旧約聖書に「それに従ってはならない」と書かれているだけで内容の判らなかったカナン人の神話が、
このウガリットから発見された粘土板文書によって、明らかにされたそうです。
商取引や政治に関するもの、神話や叙事詩、教科書などの粘土板文書も数多く出土しています。



気温が上がり、暑さを感じながらも、古代ロマンに浸った1時間半の遺跡見学でした。



アルファベットの原型と言われる楔形文字のウガリット語粘土板のレプリカをお土産に買いました。


 

12時半ごろ、ウガリットの南10kmほどのラタキアのレストランに到着しました。
シリア最大の港町の素敵なレストランで、久し振りにシーフード?と期待しながら、席に着いたのですが、
何か様子が変です。
ガイドのファイサルさんがウガリットからも確認の電話を入れておいたにもかかわらず、
何の手違いか、予約が伝わっていなかったらしいのです・・・。



相手を変えての円陣談判が20分以上も続き、とにかく手のかかっていない野菜スティックが出て来るまでに
入店してから30分かかりましたが、お詫びのワンドリンクに私が選んだ白ワインは、
レバノン産の高級品(多分)でワインクーラーに入れて、ボトルでサービスされました。


そしてメインは、ファイサルさんの怒りと引き換えにランクアップされて、新鮮な海老とイカが出されました。
2時間のランチタイムは美味しいお料理とワインをいただきながら、後ろの席の水煙草を試させてもらったり、
(新しい吸い口を付けてくれたのですが、実は吸い込み方が分らず、真似ごとだけでした。)
ゆったりと楽しく過ごしたのですが、ファイサルさんはと言えば、怒りが収まらず、
ランチに手もつけられない様子でした。



お店の上層部と思われる方から「本当に申し訳ありませんでした。」と謝られながら外へ出て、
東地中海のお別れ写真を撮りました。
真中の写真は水煙草でゆっくり過ごしているパパの子供をレストラン店員さんが面倒をみている所です。
1歳の女の子の耳にはピアスが光っていました。



 

近くの村からサラディーン城を遠望

ラタキアから北東に35km、アンサリエ山脈の山中にあるサラディン城に寄りました。
近くの村でバスを降り、2台のワゴン車に乗り換えて、峡谷を見ながら山道を走り、
城塞に入って最初に目を驚かされたのはオベリスクのような石柱です。
これは十字軍が作った切り通しで、左側の要塞区域と右側の市民生活区域をつなぐ橋を支えた橋梁だそうです。


修復中の職人さん達 職人さん達の交通機関のロバ達?
石兵器 要塞路

BC1300年頃、フェニキア人によって作られたこの要塞がギリシア、ビザンティンと支配者を変えた後、
 十字軍に奪取されたのは1100〜20年頃と言われてます。
その後、サラディン軍が東側から、アレッポから駆けつけたサラディンの息子の軍が北側から攻め、
城壁の弱点部を探し出し、巨大な投石器で破壊して、2日間で十字軍を攻め落としたのは1188年のことだそうです。
それに因んでサラディン城と呼ばれるようになったのは20世紀に入ってからのことで、
クラック・デ・シュバリエと共に2006年に世界遺産に指定されています。



左側写真には側を通ってきた司令塔、角柱のモスク、ハマム、ビザンチン時代の教会跡などが見え、
反対の東側にはきれいに残っている城壁を一望することが出来ました。

深い山の中の城砦内の建物、貯水施設などを1時間余りかけて見学した後、
再びマイクロバスで村まで戻り、小さなホテルのカフェでお茶を飲みながら30分ほど休憩してから、
5時過ぎに今日の宿泊地アレッポへ向かいました。



 

6時半ごろにはホテルに到着と聞いていたのですが、道路事情のせいか、何と倍の時間を要して、
8時をかなり過ぎて、やっとアレッポのシェラトン・ホテルに到着しました。
遅い到着になった為、部屋に行かず、そのままレストランに入りましたが、
私は軽い車酔いがあり、カスタード・プリンだけの夕食となりました。
ずらりと並んだバイキング料理から夫が選んだお料理もやや少なめの量だったようです。


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