ホーム][目次][3日目

2025・4・10
郷ノ浦~勝本(朝市・聖母宮)~はらほげ地蔵~小島神社~左京鼻~
原の辻一支国遺跡~月讀神社~鬼の窟古墳~掛木古墳~住吉神社~郷ノ浦

部屋から見た郷ノ浦港


写真の他、アジのみりん干しなど食べきれない朝食・・・


2日目の観光は9時半というゆっくり目出発でしたので、朝食の後、8時過ぎに散歩へ出掛け、
イカ釣り船や昭和の佇まいの路地など港町の風情を楽しみながら、のんびりと町歩きをしました。

「祝甲子園出場!壱岐高校野球部」 遊歩道デッキの眺望

町には今春の第97回選抜高校野球大会に21世紀枠で甲子園初出場した壱岐高校の余韻が残っていました。
壱岐高校は1回戦で東洋大姫路高校に敗れましたが、21名の部員全員が島出身であることを誇り、
約3千人の島民が駆けつけた熱気とマナーの良さが評価され、応援団賞・最優秀賞を受賞しています。


    

紙垂(しで)を貼った石を祀る注連縄、壱岐の伝説の一つである百合若大臣の鬼退治の像、
町並景観施設整備事業で設置したという漁師レリーフなど、町の文化の一端にも触れました。

塞神社

昭和橋を渡った先の繁華街の一角に、大胆な舞で天照大神を誘い出した天岩戸神話の天鈿女命(アメノウズメノミコト)が、
のちに猿田彦命と結ばれて、一体神となった猿女命(サルメノミコト)を祀った塞神社がありました。
創建ははっきりしませんが、良縁、安産、夫婦和合、子どもの守護などの信仰を受けている町の氏神様です。

    
魚市場

来た道を戻り、ホテル近くの魚市場へ寄ってみましたが、早朝に行われる競りはとっくに終わり、
閑散とした場内では後始末作業が行われているだけでした。

郷ノ浦港フェリーターミナル・観光案内所

9時前にホテルへ戻り、ひと休みしてから、雨マークがついた天気予報の好転を祈りつつ、観光に向かいました。


ikikotsu-map-2022 (←拡大地図)

福岡から北西に約76kmに位置する壱岐は長崎県に属する島で、面積は139.4平方km、南北17km、東西14km、
周辺の有人島4、 無人島19をあわせて壱岐市または壱岐諸島と呼ぶ人口約2万3千人の島です。

この日は左下(南西)の郷ノ浦を出発して、北端の勝本へ行った後、東海岸の内海(うちめ)湾周辺、左京鼻、
原の辻一支国、月讀神社、古墳群、住吉神社を周って、郷ノ浦へ戻るというコースでした。
郷ノ浦から勝本へ通じる国道382号線は対馬を起点として佐賀県唐津に至る2カ所の海上区間を持つ
総延長約202kmの海上国道です。


  

国道382号線を北上し、20分程で到着した勝本は、
江戸時代に始まったといわれる地元の漁民と農民が物々交換する「勝本朝市」が有名ですが、
人口も観光客も減った今はアーケード内も路面も閑散として、往年の賑わいを見ることは出来ませんでした。



旧松本薬局
LAMP壱岐    

それでもレンガ敷きの通りにかつての栄華を物語る古い建物が残る町の風情は魅力あるものでした。
LAMP壱岐は築100年ほどの木造3階建の旧旅館の内部をリノベーションして、
2018年(平成30)に開業した和モダン旅館です。
旧松本薬局は1912年(明治45)に建てられた店舗兼住宅で、格子窓の付いた和風デザインの1階、
石積み風モルタル塗り壁と銅板の両開き戸の洋風デザインの2階など、
建物全体に優れた材質を使用、細部にまで行き届いた意匠で整えられた良質な町家建築として、
2009年(平成21)に登録有形文化財に指定されています。

 
勝本港 諏訪大社御柱

今回は立ち寄りませんでしたが、勝本町には豊臣秀吉が朝鮮侵攻の兵站基地とする為に築城を命じ、
わずか4か月で完成させたと言われる勝本城跡が残り、
肥前名護屋城、対馬の清水山城とともに安土桃山時代を象徴する貴重な城跡事例として、
2003年(平成15)に国史跡指定、2015年(平成27)に日本遺産の構成文化財に認定されています。
それらの城は家康の時代に朝鮮との関係改善の意思表示として崩され、城を取り囲む石垣も壊され、
追手門の石垣が僅かに残る丘の上の勝本城跡は勝本港や対馬を望む城山公園として整備され、
近くには芭蕉十哲の一人、壱岐で客死した河合曽良の墓も残っているようです。

芭蕉亡きあと、幕府の巡検使として九州地方へ赴いた曽良は1709年(宝永6)に勝本で病死、
曽良が諏訪出身という縁で勝本町と諏訪市は1994年(平成6)に友好都市盟約を提携し、
その証しとして諏訪大社から御柱が寄贈され、交流を深めているそうです。
1998年(平成10)の諏訪大社御柱大祭の後、上社本宮で務めを果たした「本宮三之御柱」が海を渡り、
城山公園の一角に建立され、その御柱の先端部分が町の入口の道路脇に祀られていました。

「文永の役元軍上陸地」石碑 石壁

10分程バスに乗って北へ向かい、聖母宮(しょうもぐう=神功皇后)に着くと、先ず目に入って来たのが、
「文永の役元軍上陸地」という石碑と長く高く積み上げられた石壁でした。

1274年(文永11)10月3日に高麗を出発した2万5千の元軍(蒙古軍・高麗軍)を乗せた900隻の船団は、
5日に対馬を襲い、14日には壱岐へ侵攻、壱岐北西部の浦海(うろみ)、馬場先、天ヶ原から上陸したと伝えられます。

石垣は1592年(文禄1)の文禄の役の折に秀吉から勝本城築城を命じられた加藤清正が
聖母宮本殿に風が直接あたらないように築いた風よけと言われていますが、
兵士たちのエネルギーのはけ口として積ませたという説もあるようです。


壱岐名勝図誌「聖母神社」

聖母宮西門 聖母宮南門

聖母宮は神功皇后が三韓征伐の折、壱岐で風待ちをした時に行宮を建てたことを起源とし、
717年(養老1)に元正天皇が国家鎮護を願って建立した社殿を創建とする勝本の総鎮守社で、
息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)と足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇)、
上筒男尊(うわつつのおのみこと)、仲筒男尊(なかつつのおのみこと)、底筒男尊(そこつつのおのみこと)の
住吉三神を祭神としています。

また、神功皇后が三韓へ向かう時に良い風が吹いたことから、この地を風本(かざもと)と名付け、
凱旋時に勝利を記念して風本を勝本に改めたことが町名の由来とされ、
加藤清正は社まわりの石垣と表門(西門)、肥前佐賀藩藩祖の鍋島直茂は裏門(南門)を寄進、
文禄の役の勝利祈願を込めたかもしれないと言われています。


聖母宮80代目の川久保宮司さんから、神社の歴史や現況、西門の修復のことなどのお話を伺いました。

     

巨大なシャコガイの手水鉢は日本が委任統治を認められていた1940年(昭和15)にミクロネシアのポンペイ島から
寄進されたもので、2枚貝のもう片方はポナペ大神宮で手水鉢として使われているそうです。
1848年(嘉永1)建造の石灯篭の「奉獻」の文字は「七歳童書」という刻印がありました。

   
1752年(宝暦2)に建造された三間社流造・柿葺の本殿 
拝殿

拝殿に上がり、壁に飾られた数々の龍の絵を拝見した後、宮司さんのご厚意で(?)
普通には見ることができない鏡、幣束、御神酒、衛士・狛犬などが置かれ、
絵や彫刻で美しい装飾が施された神殿内部を拝観させていただくことができました。

11時20分頃、聖母宮を辞し、勝本の町へ戻りました。


昭和20年代の勝本の町並み
   

11時半から御食事処「海神(わたつみ)」での昼食には出回り始めたばかりのムラサキウニが供され(夏はアカウニ)、
冷凍ではない新鮮な味わいを賞味させていただきました。
じっくりと見たサザエの造形も見事でした。

田園風景 「文永の役 新城古戦場」

 「壱岐は、どこを歩いても風が野と段丘と林を吹きわたっている」(「壱岐・対馬の道」司馬遼太郎)という景色を車窓に、
東部へ向かう途中、「文永の役 新城古戦場」を通過しました。
文永の役では壱岐・守護代の平景隆が居城である樋詰城(ひのつめじょう)から約100騎の家臣を従えて出陣し、
三郎ヶ城前の唐人原で約400人の元軍と激突、多勢に無勢で退却を余儀なくされた景隆らは樋詰城まで引き揚げましたが、
翌日の早朝から元軍に取り囲まれて総攻撃を受け全滅、
元軍が去った後に山のように積み重なった死体を生き残った人々が埋葬した「千人塚」が保存され、
樋詰城跡に造営された景隆を祭神とする新城神社の鳥居も車窓に確認することが出来ました。

壱岐神社 清石浜

バスが芦辺港へ近付いた頃、白い鳥居の壱岐神社を遠望しました。
文永の役の折、博多に上陸した元軍に対し一番名のりをあげた12歳の若武者が太宰府守護・少弐景資の甥の少弐資時で、
19歳の時に壱岐守護代に命じられた少弐資時は2度目の元寇、1281年(弘安4)の弘安の役で奮戦したものの、
軍船900隻に4万の兵という大軍の前に壮絶な最期を遂げたと伝えられています。
その少弐景資を祀っているのが壱岐神社です。
壱岐で世代をこえて語り継がれる元寇の脅威は「ムクリ(蒙古兵)コクリ(高麗兵)が来るぞ」と言う子供を諭す言葉に残り、
これが無慈悲で残酷なことを表す「ムゴイ」の語源になったとも言われています。
芦辺港(翌日、対馬行きのジェットフォイルに乗る港)を過ぎた先に清石浜という美しい海岸がありました。
壱岐対馬国定公園の名所のひとつとされる海水浴場のようです。

はらほげ地蔵

更に南下して、真珠やハマチの養殖が行われている内海湾の八幡浦ではらほげ地蔵を下車観光しました。
お腹の部分にまるい穴があいているので「はらほげ」地蔵と呼ばれ、満潮時には陸上からしか拝めない六地蔵は、
何時、誰によって安置されたかは不明ですが、干潮時にお腹の部分にお供え物を入れ、
再び干潮になる時に、お供え物が海中に運ばれる際に祈りを捧げたのが始まりと言われ、
遭難した海女の冥福を祈る、捕獲したクジラを供養する、体内の病気を洗い流すなど信仰の対象は様々ですが、
今も地元に人々によって供養が行われ、大切に守られているそうです。
はらほげ地蔵の背後には壱岐島最長の315mの青島大橋や発電所の鉄塔が見えていました。

左京鼻の観音柱

壱岐東海岸のほぼ真ん中、八幡半島の先端に壱岐を代表する景勝地のひとつ、左京鼻と呼ばれる断崖があり、
壱岐島誕生神話の八本の柱の一つと伝承される玄武岩の柱状節理「観音柱」が、
ウミウに白化粧を施されて(糞害・・・)海中に屹立していました。
「左京」は江戸時代前期に旱魃が続いた時、陰陽師の後藤左京らが雨乞いを行うと大雨が降ったという伝記に因り、
「鼻」は岬の突端の断崖を表す壱岐の言葉、又は切り立った石があるので石橋(せっきょう)が語源とされています。

左京鼻龍神神社

玄界灘に面して約1km続く壮大な景観の中を海食崖の先端まで歩くと龍神神社がありました。
神社庁に登録されたものだけで150以上の神社が存在し、
祠を含めると千を超える神々が祀られているという壱岐らしい景観の一つと言えそうです。

小島神社

今日の観光のハイライトの一つ、原の辻(はるのつじ)遺跡を訪れる前に立ち寄ったのが、
弥生時代に古代船が往来した内海(うちめ)湾に浮かぶ小島神社です。
干潮時だけ海中から参道が現れ、歩いて参拝できることから「壱岐のモン・サン・ミッシェル」と呼ばれ、
人気のパワースポットとなっていますが、そのために起きたオーバーツーリズムで
山中の神社参道が崩れ、昨年6月にクラウドファンディングを募り、1千万円を超える支援金によって、
9月に階段の改修工事が終了、氏子や関係者によって安全祈願祭が行われたそうです。
須佐之男命や母神の伊邪那美命などを祭神とする神社までは上りませんでしたが、
幸いにも干潮にあたりましたので、鳥居まで200mほどの参道を歩き、潮風にあたりながら海景色を楽しみました。

 
参道に仕掛けられたパワースポット・マーク

カキ・巻貝・アオサノリなどを見つけた参道 ヘラサギ

    
オドリコソウ                  オオジシバリ                    ウマノアシガタ

原の辻ガイダンス 船着き場跡模型

中国の3世紀末の歴史書「三国志」中の「魏書」の「烏丸鮮卑東夷伝」倭人の条、略称「魏志倭人伝」に、
「それから(対馬)また南に一海を渡ること千余里で一支国に到着する。この海は瀚海(かんかい)と名づけられている。
この国の大官もまた卑狗(ひく)、次官は卑奴母離(ひなもり)という。
広さ三百里平方ばかり、竹木・叢林が多く、三千ばかりの家がある。
ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。」と
一支国(いきこく)として壱岐が登場しています。
中国の使節は朝鮮半島から対馬、壱岐を経由して邪馬台国を目指しましたが、
古代船は壱岐島東部の内海湾に停泊し、人や物を小舟に移して、幡鉾川を1.5kmほどさかのぼり、
深江田原(ふかえたばる)とよばれる長崎県第2の広さの沖積平野にある船着き場へ到着したと考えられています。

ツアー・バスがトイレ休憩に立ち寄った原の辻ガイダンスの前庭に船着き場跡模型が置かれていました。
二つの突堤の間に船を停泊させるための船渠部を設け、全体は島の形状をしたBC2世紀後半の船着き場は、
底面に樹皮を敷き詰め一定の水分を保つ工夫が施された中国の土木技術の敷粗朶工法(しきそだこうほう)を採用、
何重にもわたる版築を重ねた突堤の側面に人頭大の礎石を積み重ね、底部に土留め板を設置して版築が補強され、
大陸から当時最先端の技術や文化が入って来た壱岐が国際交流都市の先駆けであった証しとされています。

鳥居の原型 深江田原の田園風景

船着き場から東に広がる深江田原の田園風景に造られた環濠集落が一支国の王都「原の辻(はるのつじ)」で、
原の辻遺跡は登呂遺跡、吉野ヶ里遺跡と並ぶ3大弥生遺跡として国特別史跡の指定を受けています。
約2200年前から1650年前まで一支国の拠点として栄えた原の辻遺跡に復元された
春の辻一支国王都復元公園をガイドさんの案内で周りました。

王の居館  集会所と長老の家
主祭殿 交易の倉庫
穀倉 物見櫓・番小屋

一支国に実在した建物17棟を発掘調査に基づき、発見された位置と大きさで再現した復元公園で
弥生へタイムスリップし、古代ロマンを1時間あまり堪能した後、
15時半過ぎに島の中央、古代より神聖な場所だったとされる籏鉾川源流域の神社や古墳見学へ向かいました。


月讀神社

月讀神社の創建は不明ですが、顕宗天皇3年(487)には存在したと伝えられ、祭神の月讀命は、
生命の誕生、漁業・農業の繁栄など暦・塩の満ち干など時にまつわる全ての行いに神徳があるとされています。
京都の松尾大社の月読神社は当地から分霊され、この分霊によって神道が中央に根付いたとして、
壱岐の月讀神社は神道発祥の地とされ、全国の月讀神社の総本社となっています。

茅の輪 参拝所

拝殿の右手に赤い鳥居の参拝所があり、周りには茅の輪くぐり、招福の鼓、輪投げなど、
様々な願掛けの仕掛けが設けられていました。

月讀神社の次に、ほど近くの古墳群地域へ向かいました。
最先端の文化導入と交流が行われる一方で、ヤマト政権の朝鮮半島進出の兵站基地の役割を担った壱岐には、
長崎県内で確認されている約460基の古墳の中、6割にあたる280基の古墳があり、
埋葬者にはヤマト政権から派遣された有力者もいたと考えられています。


鬼の窟(おにのいわや)古墳

鬼の窟古墳の横穴式石室は前室・中室・玄室の三室構造両袖式で全長は県内最長の16.5m、
島内で2番目に大きい直径45m、高さ13.5mの円墳で、
大きなもので畳3枚分という「鬼でないと運べない」巨石が使われていることが名前の由来となっています。
入口の大石は、中に入れないようにするために後の時代に置かれたものだそうです。

掛木古墳 くり抜き式家形石棺

掛木古墳は県内唯一の「くり抜き式家形石棺」をもつ古墳で、築造当時は直径30mほどあったと言われています。
倭国と新羅・高句麗など朝鮮半島の国々との関係が悪化する中、6世紀後半から7世紀初めにかけて、
壱岐では古墳が盛んに造られ、壱岐の有力者のものとされる巨石で築かれた古墳石室内からは、
中国大陸や朝鮮半島との交渉を物語る多くの遺物が発見されて、
国防の拠点の島に古墳を造ることによって、壱岐まで及ぶヤマト政権の勢力を国内外に誇示したと考えられています。
壱岐古墳群の中、掛木、双六、笹塚、鬼の窟、兵瀬、対馬塚の6基の首長墓が国指定史跡です。

住吉神社鳥居 住吉神社儀式殿

住吉神社本殿
夫婦楠

壱岐観光の一日は壱岐の総鎮守社・住吉神社で締めくくりとなりました。
社伝に神功皇后が住吉大神の守護によってなしとげた三韓出兵の帰途、壱岐郷ノ浦に上陸して
住吉三神(底筒男神、中筒男神、上筒男神)を祀ったことが神社の始まりとあり、
1841年(明治4)に国弊中社に列格、壱岐で唯一の官社とされています。
道路から階段をおりて境内へ入る「さがり宮」の住吉神社は、
境内の池から発見された神鏡17面始め、平安から室町時代の貴重な文化財を多数保存、
市指定天然記念物のクスノキや夫婦クスノキ、オガタマノキなど樹齢を重ねた大木にも歴史を感じる神社でした。

太鼓始 楽人
二弓 八咫烏(やたからす)
  折敷(おしき)     ご挨拶

17時頃から儀式殿で約700年の古い伝統と歴史をもつ神事芸能「壱岐神楽」を鑑賞しました。
壱岐神楽は神楽舞も音楽も現職の神職だけで奏されること、全ての曲目を畳2畳の上で舞うことを特徴とし、
1987年(昭和62)に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
神事としながら観光化された壱岐神楽ですが、継承そのものが大切な文化なのだと思われました。
見事な折敷の技を見せ、終わりのご挨拶をされた神職さんは聖母宮の川久保宮司さんで、
「結婚記念日だから早く帰って」と電話があった勝本の自宅へ急ぎ戻られたご様子でした。


お土産の「文化遺産の(米)舞」(壱岐米2合)

    
ビューホテル壱岐                食事処「海神」                    王都復元公園

壱岐の旅で出会った文化の一つにお見送り文化?がありました。
反対席に座っていたため写真は撮れませんでしたが、トイレをお借りしただけの原の辻ガイダンスでも数名並んで、
お見送りを受けました。
予報が外れ、雨にならず、幸いだった壱岐観光の一日の終わりに、暖かい島の方々へ感謝のスナップ掲載です。


  

  
 
18時頃にホテルへ帰着、19時から夕食をいただきました。
この日は鮮魚の他に和牛シチューや壱岐牛鉄板焼きなど洋風メニューとなっていました。
昨夜の2人席に代わり、6人席に配置換えされたテーブルに3夫婦で座り、会話と食事を楽しんだ夜でした。

                       *2日目歩数(スマホ計測):12939歩


目次][3日目