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2025・4・11
一支国博物館~芦辺港~厳原港~上見坂公園~西の漕手~和多都神社~比田勝



毎回の食べきれない程のボリュームのお膳によく登場した豆腐(4回の中、3回)について、
司馬遼太郎の「街道をゆく」に言及がありましたが、
漢の劉邦の孫の劉安が発明したと言われる中国の豆腐に包丁で叩き割るほど固いものがあり、
朝鮮経由で日本へ伝わったと思われるその固い豆腐の遺伝子が、
「荒縄でからげて持ち帰る」と言われた昔の高知の豆腐や壱岐、沖縄などの島豆腐に残っているようでした。

最初の夜にご飯の量を減らしてもらったら、翌日から少な目によそわれた所にホスピタリティが感じられたホテルを
9時に出発し、壱岐最後の見学、「一支国博物館」へ向かいました。


田園風景 壱岐焼酎蔵元

「途中、すべてが緑野である。丘は無数にあるにせよ、キャンバスに絵具を塗りあげた程度の隆起でしかない。
途中、散村が見られる。・・・・・この壱岐特有の田園風景は、平戸藩が壱岐一島の農地を各戸に平等に配分し、
定期的に農地の割替をしたということでできた。
・・・・・明治初年に幕藩体制が瓦解し、国家が近代法を導入したため、壱岐にもそれがやってきた。
明治初年に最後の地割をし、すべての農家に農地の永久所有権がみとめられるのである。」(「街道をゆく」)
という壱岐の農地の歴史を今なお留めているような景色を車窓にしながら、原の辻遺跡へ向かいました。

焼酎の飲用習慣がないため、「麦焼酎発祥の地」の見聞は素通り気味でしたが、
最後に蔵元写真を1枚だけ撮ることができました。
室町時代末期に平戸松浦藩の領地となった壱岐は土地が肥沃で米作りが盛んに行われましたが、
年貢を納めると米はほとんど残らず、農民は麦を主食とする傍ら、麦でどぶろくを自家醸造していた所へ
大陸から蒸留技術が伝来、大麦を主原料に米麹を使った麦焼酎造りが始まり、
どの蔵も伝統の製造法を守りながら、独自の個性や美味しさを追求、味わいある焼酎を生み出して、
現在に残る7軒で壱岐酒造組合を結成、世界貿易機関(WTO)から地理的表示(GI)の認定を受けているそうです。

一支国王都復元公園遠望 安国寺



一支国王都復元公園遠望の写真や前日撮った園内写真に写っている小高い山の上の塔が、
壱岐の旅の最後に立ち寄った一支国博物館です。

近くを通った時、たまたま車窓から入口をカメラに収めることが出来た安国寺は、
足利尊氏が夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇を弔い、戦乱で没した兵士を供養するために
1338年(暦応1)に全国66ヶ国と2島に建立を指示した安国寺の一つ、
島内に以前からあった海印寺を安国寺に改めた京都の大徳寺を本山とする臨済宗寺院で、
国の重要文化財・高麗版大般若経「初彫本」や足利義満「応永13年安国寺寺領書」を蔵しています。

一支国博物館 壱岐交通ラッピングバス

ホテルから15分余りで壱岐市立一支国博物館に到着しました。
2日間お世話になった壱岐交通のラッピングバスともお別れが近付いてきました。

2010年(平成22)に開館した一支国博物館は、
なだらかな曲線を描く屋根を緑で覆い、遺跡からの眺望を損なわずに弥生時代の原風景を創出し、
「自然と共生」を実現した黒川紀章のデザインが高い評価を受けています。

一支国博物館エントランスホール

「遺物を点で見せるのではなく線で結ぶことで、壱岐の歴史を通史的に学習できる総合的な博物館を目指しています。
 また、壱岐の歴史を壱岐だけで完結するのではなく、東アジア的視点から壱岐の歴史を俯瞰することで、
当時の東アジアの社会情勢や時代背景について知ることができます。
各時代の「海を介した交流と交易の歴史」に焦点をあて、新たな視点から壱岐の歴史をみていくことで、
これまでと違った“壱岐の歴史”を再発見し、感動がある展示を展開していきます。
 壱岐の歴史は博物館の展示をみるだけでなく、島内各地に残る史跡や名所を実際にみることで、
展示品が発見された立地的な環境や歴史的な環境を知ることができます。
 一支国博物館は、まさに島全体に歴史が残る「しまごと博物館」の拠点であり、
しま全体の情報発信の拠点施設として、効果的に活用していきます。」という博物館のコンセプト通り、
島内の史跡・名所のいくつかを実見し、長い歴史に触れた後での博物館展覧は旅の何よりな総まとめとなりました。

エントランスホールの階段を上ると、「魏志倭人伝」の世界というデジタル展示エリアがあり、その先のビューシアターで、
「蘇る 一支国の王都 原の辻」という渡来人が一支国を訪れるドラマ仕立てのビデオ映像が放映された後、
ビュー・スクリーンがまき上げられると、眼下に本物の復元公園が広がっているという驚きの仕掛けがありました。

前日、一支国王都復元公園を案内してくださったガイドさん(手を振ってお見送りの女性)のシフトが重なり、
この日も館内を案内していただくことが出来、近現代から、近世、中世、古代へと遡る展示室を展覧した後、
同館内の長崎県埋蔵文化センターの出土品整理作業室やオープン収蔵庫も見せていただきました。
展示館内の写真撮影は出来ませんでしたので、購入して来たガイドブックから、
古墳出土の数点と原の辻の生活を再現したジオラマをご紹介します。
                      
      
人面石              朝鮮系無文土器             五銖銭            捕鯨線刻土器
    
金銅製 単鳳環頭大刀柄頭               金銅製 杏葉                 金銅製 亀形飾金具
  
内海湾                                         船着き場
  
生活のシーン
  
交易(市場)                                  祭祀(まつり)

     

原の辻遺跡から出土した人面石は、国内に類をみない弥生時代の石製品として国の重要文化財指定を受け、
人面石くんが壱岐市のイメージキャラクターとして活躍、クッキーの人気モデルともなっていました。

 

エレベーターで地上27mの4階の展望室へ上り、春霞で遠望は出来ませんでしたが、
復元公園や内海湾の眺望を楽しんだ後、10時45分にバスに乗り、芦辺港へ向かいました。

少弐資時銅像 芦辺港フェリーターミナル

11時頃到着した芦辺港フェリーターミナル前に、元寇720年記念事業によって、
2001年(平成13)に建立された「騎乗の若武者・少弐資時公」銅像(高さ約6m)が設置されていました。
1281年(弘安4)弘安の役の時、瀬戸浦と勝本から上陸した元軍を迎え撃った19歳の壱岐守護代・少弐資時は、
芦部漁港北側の丘にあった居城、船匿城(ふなかくしじょう)で討死したと伝えられています。

ジェットフォイル「ヴィーナス」 芦辺港ターミナルを出航
芦辺港瀬戸防波堤灯台 壱岐神社・くぐり岩

博多港から着いたジェットフォイル「ヴィーナス」に乗船し、11時40分に対馬・厳原(いづはら)港へ向かいました。

海上保安庁・巡視艇 対馬島
厳原町 厳原港

12時45分に厳原港に到着し、出迎えのバスに乗って厳原の町中へ行き、「割烹 八丁」で昼食をいただきました。

     

日本一の水揚げ量と肉厚で脂がのった美味しさを誇る玄界灘の天然穴子の煮穴子丼に、
さつま芋が原料の発酵保存食品「せんだんご」から作る黒く短い麺のお吸い物「ろくべえ」が添えられていました。
出来上がるまでに千回もの手間がかかることから名付けられたと言われるせんだんごは、
厳しい自然と昔の人々の知恵と努力が詰まっている対馬の江戸時代から伝わる伝統料理です。



「はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国に到着する。その国の大官を卑狗、次官を卑奴母離という。
居るところは絶島で、広さ四百余里平方ばかり、その土地は、山は険しく、深林が多く、
道路は獣のふみわけ道のようである。千余戸があり、良田はなく、
住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。」と魏志倭人伝が描く対馬は、
博多港から132km、釜山まで49.5kmキロに位置し、南北82km、東西18km、面積約708km
沖縄本島と北方四島を除くと、佐渡島・奄美大島に次いで国内3番目に大きい島です。
人口は約2万5500人(昭和35年には7万人)、島の89%は山岳地帯で平地が少なく、
海岸線は荒々しく切り立ったリアス海岸で、大小108島(有人島6、無人島106)を合わせて、
対馬諸島(又は列島)と呼ぶ長崎県に属する九州最北端の国境の島で、
稲作も行われる朝鮮系文化圏の上対馬と行政・文化の中心で北九州系文化圏と言われる下対馬を、
浅茅湾北岸を擁する中対馬がつなぐエリア構成となっています。


浅茅湾


烏帽子岳展望所の眺望

昼食後は和多都美神社の南に位置する烏帽子岳展望所から浅茅湾の絶景を見る予定でしたが、
烏帽子岳展望所は緊急の災害対策工事のために昨年4月から今年8月1日まで終日全面通行止になっていて、
予定変更やむなく、地図最下段の上見坂公園(上見坂堡塁)へ行くことになりました。

双耳峰の白嶽(しらたけ)   対馬やまねこ空港方面
金田城方面

烏帽子岳展望所不通は残念でしたが、標高385mの上見坂公園展望台の眺望も素晴らしいものでした。
古くから霊峰として崇められてきた対馬の象徴である標高518mの白嶽は石英斑岩の白く輝く双耳峰が特徴で、
対馬市南部の龍良山(たてらやま)と共に大陸系植物と日本系植物が混生する独自の生態系を有する原始林として、
国の天然記念物に指定されています。

金田城(古称:かねだのき、史跡名:かねだじょう)は663年(天智2)の白村江の敗戦後に
標高276mの城山(じょうやま)に亡命百済人の技術によって築かれた朝鮮式の山城で、
高さ2~6m、総延長2.8kmの石塁がめぐり、谷間に高さ5mの水門が残る国指定史跡です。
この頃、壱岐と対馬に大和朝廷によって、築城とともに防人(さきもり)と烽(とぶひ)が置かれています。

砲兵詰所跡 兵舎跡

公園内にロシア上陸に備えて造られた明治時代の堡塁跡がありました。
明治時代中頃、日本艦隊の前進根拠地として浅茅湾周辺の山々に砲台が築かれ、砲兵と歩兵が配置された時に
上見坂公園一帯には元寇の古戦場小茂田浜からのロシア侵入を想定した砲兵の野外詰所が築かれ、
兵の仮眠所として使われたコンクリート壕が砲兵詰所跡です。
明治後期造営の兵舎は平時は火砲四門を格納、砲設置時には砲発射要員や雑役炊事兵など百人程度の仮眠所となり、
第二次大戦中は演習用兵舎、戦後は国際無線用動力の発電機の置き場所とされた建物です。

砲座跡

砲弾や砲の手入れ道具を保管する置き場で砲手の仮眠所にも使われた壕が残る明治時代後期の砲座は、
砲口径15cm級の火砲を四門据え付けた訓練が行われただけで、
第2次大戦中も敵艦は近寄らず、実際に使用することなく終わった戦争遺構です。

15時頃、上見坂公園を出発して、バスは国道382号線を北上していきました。
南北82kmある対馬では東西の海域へ移動するのが不便だったことから、
江戸時代には対馬藩によって大船越、明治時代には海軍によって万関瀬戸が開削されたことで東西の海域がつながり、
船舶の航行が容易になりましたが、
古代には東岸の小船越瀬戸と浅茅湾東奥部の西漕手(にしのこいで)を結ぶ地狭部で、
小舟は人足に引かれて丘を越え、大船は東岸で積荷を降ろし西岸に置いてある別の船に運び換えたと言われています。

西漕手浦 (上に掲載の浅茅湾地図の赤いピン箇所)


国道脇の駐車場から細い小道を少し歩くと、遣唐使や遣新羅使が船を乗り換えたと伝わる西漕手浦がありました。
630年(舒明天皇2)から838年(承和5)にかけて、4隻の船に分乗して派遣された数百人の使節団は、
当初は対馬経由、朝鮮半島を経て中国大陸に渡っていましたが、663年(舒明天皇5)の白村江の大敗後、
新羅との外交関係が悪化、その後は五島から東シナ海を横断し、中国大陸に入る航路をとるようになり、
また後の時代には大船越が開削されて、西漕手は寂びれていったそうです。


無人の船着き場となった西漕手は、干潮と相まって、余計に侘しさが漂うようでしたが、
紡いできた歴史と共に島の成り立ちの一端を見せる露出した地盤など、一見の価値ある場所でした。

 浅茅湾
和多都美(わたつみ)神社 -バス車窓写真-

溺れ谷の複雑な地形が見事な景観を見せる浅茅湾を車窓に、湾奥深くの和多都美神社に16時に到着しました。

「一部の韓国人観光客による迷惑行為が問題視され、神社は2025年3月23日に氏子や崇敬者以外は境内立ち入りを禁止、
具体的には、境内での喫煙、ポイ捨て、投石、排泄などの行為が繰り返され、神社職員が暴行される事件も発生、
日本文化の.崩壊にほかならない」という事態となり、国内外のバスツアーなど観光目的の参入のすべてを禁じた一方、
「神さまに対する尊崇、崇敬の念をもってきちんとお参りしてくれる人。そういう心をもった方々はご自由にご参拝ください」
という現況下、私達のツアーにも一抹の不安がありましたが、無事に参拝をさせていただくことが出来ました。


 平安時代の延喜式に登載された和多都美神社は、
「山城國長岡の阿曇龍裔が神武天皇の命を受けて対馬國に下り、当国の住人となってその子孫が代々宮司を世襲、
現在も阿曇氏の末裔が宮司を継承し、今に伝えている。
これにより神々しい神奈美「夫姫(おとひめ)山」のさざ波よせるこの霊地に
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命の夫婦神を奉斎したと伝えている。
夫姫山は別名「海龍山」ともいい、山全体が大綿津見神の御神体とも伝えられている。」と
社家文書が由緒を伝え、 海幸彦・山幸彦の伝説を持つ古社です。

磯良恵比須 身代わり鳥居

三柱鳥居(みはしらとりい)が囲む磯良恵比須(いそらえびす)はうろこ状の亀裂が入り、
満潮時には海中に沈む霊石で、先代宮司と伝わる阿曇磯良(あずみのいそら)のご神体と伝えられています。
阿曇宿禰磯良は社家文書に「神功御共シテ朝鮮二渡ス」「諡号(しごう)は戎比古命」という記録があり、
戎=恵比須という可能性が濃厚とされています。

1989年(平成元)8月に真珠湾に建立された第一鳥居が、
2020年(令和2)9月の台風10号の猛烈な風によって発生したとみられる高波によって倒壊、
2021年(令和3)年8月にクラウドファンディング等も活用して再建されましたが、
倒壊した大鳥居が身代わりになって、台風被害を最小限に抑えてくれたという氏子崇敬者の声を受けて、
再建立されたのが身代わり鳥居です。

間違い・・・ 厄割玉(厄除け玉)

身代わり鳥居は「二礼二拍手一礼の後、心で願いを唱えながら中央からお潜り下さい」と立札があり、
ズルをした?端っこ潜りではご利益は望めないことと思われます。
自分の災いや鬱憤を祓う厄割玉を試された方はいなかったと見受けました。


     
古色を帯びた鳥居と狛犬

拝殿 亀甲石

「当神社を代々守護する阿曇氏(長岡家・平山家・山上家)の内、棟梁であった長岡家は、
亀卜の大家とされる加志に鎮座する太祝詞神社の橘氏より亀卜(きぼく)を伝授され、
近世には対馬卜部の一つとして名を連ねていた。
亀甲石は、その亀卜の神事が上代より行われた場所と伝えられている。
先代、長岡穂都美、平山靜磨までは亀卜が密かに行われていたとの口伝があるが、
資料や亀甲の痕跡がなく定かではない。
亀卜所としての神社は仁位の長田地区に鎮座する阿恵神社が古く、阿連の雷命神社を勧請したと伝えられている。」と
社伝が伝える和多都美神社の亀卜神事の跡も三柱鳥居の下に祀られていました。
亀の甲を焼き、そのひび割れから年の吉凶を占う神事は中国大陸から朝鮮半島を経て伝わったと言われますが、
厳原町豆酘(つつ)では赤米行事(国指定民族文化財)とともに今も習俗が継承されているようです。

本殿 龍松

拝殿横に本殿の下まで根を延ばす松の大木があり、神木として龍松(たてまつ)と名付けられていました。
       
豊玉姫命之御陵墓と原生林


社殿裏側の裏参道を進むと、元は禁足地で神社の最も厳格な場所とされる御垣内(みかきうち)となっていて、
鳥居から先は写真撮影禁止となっていました。
スダジイ、ウラジロガシ、ヤブツバキなど照葉樹やアズキナシ、ケヤキ、ハリギリ、イロハモミジなど落葉樹、
様々な木々が生い茂る長崎県天然記念物の原生林の奥地に、
奥の段が豊玉彦命、手前の段が豊玉姫命の御神威を宿していると伝えられる夫婦岩、
現在は豊玉姫命之御陵墓と称されている古代の磐座がありました。

    
ヤブツバキ                   ゲンカイツツジ                    ヤマザクラ

和多都美神社を16時45分頃出発して、この日の宿泊地の上対馬町比田勝へ向かいました。
この旅行記を書いている最中に、「2012年に盗まれ、韓国に持ち去られた仏像が5月10日、
韓国中部・瑞山の浮石寺で日本側に引き渡され、盗難から約12年半ぶりの帰還となった。
仏像は空路で日本に運ばれ、12日に観音寺で法要が行われた。」というニュースが流れましたが、
観音寺は和多都美神社と同じ中対馬エリアの豊玉町、対馬の西岸にある寺院です。


観世音菩薩坐像

「浮石寺が14世紀に日本人の海賊「倭寇」に持ち去られたものだとして仏像の所有権を主張し、
日韓間の問題になったが、韓国最高裁が23年に観音寺の所有権を認定、
同寺で日本帰還前の「100日法要」が行われた後、観音寺へ戻った」とニュースは続きましたが、 
防犯上の課題があるとして、法要後には対馬市立対馬博物館へ保管されたようです。


国道382号線を一路北上、想像したより豊かさを感じる上対馬の家並みなどを車窓に、
18時10分頃、「東横イン対馬比田勝」にチェックインしました。


コンパクトな部屋でしたが、オーシャンビューがうれしい夕暮れの海景色をカメラに収めた後、
18時半にロビーに集合して、バスで比田勝港近くの「みなと寿し」へ行き、
鮮魚のにぎり寿し、クエのお刺身、アンコウのから揚げなど、海の幸を堪能しました。

  

                      *3日目歩数(スマホ計測):8817歩


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