ホーム][目次][5日目

2025・4・12
比田勝~異国の見える丘展望台~野生生物保護センター~
萬松院~朝鮮通信史歴史館~対馬博物館~厳原


    
5:48                        6:00                        6:03

比田勝へ向かうバスの中で、「東横インから素晴らしい日の出が見られます。」とガイドさんから聞いた時は、
翌日の天気予報は雨・・・で、おそらく無理と諦めていたのですが、6時前に目が覚めて外を見ると、
水平線上に少し雲があるものの空は明るく、もしかしたらという期待通りに太陽が顔を出し始め、
15分間の日の出ショーを楽しむことが出来ました。

朝食はバイキング形式ということで、混む前にと6時半のオープンと同時に行ったレストランは簡素なメニューで、
ゆっくりするまでもありませんでしたので、すぐに食事を終え、散歩に行くことにしました。


東横イン対馬比田勝 対馬観光バス

7時にホテルを出て、徒歩で行けると聞いた「日露友好の丘」へ行くことにしましたが、
ゆるい上り坂を丘へ向かっている途中、所用で町なかへ行くという対馬観光バスにピックアップしていただき、
省エネ、省タイムが出来ました。(ホテルから乗車され、もっと楽をされた同ツアーのご夫妻一組。)

日本海海戦記念碑 「日露友好の丘」レリーフ

1905年(明治38)5月27日の対馬沖海戦(日本海海戦)でロシア・バルチック艦隊の戦艦8隻に対し、
日本は主力戦艦4隻で迎え撃ち、歴史的な勝利を収めましたが、
殿崎沖に沈んだウラジミル・モノマフ号から生き延びた乗組員が4隻のボートに分乗して浜に漂着、
対馬の人々は143名の負傷兵らを収容し、看護したことで後日、ロシアから深く感謝されました。
それを記念して1911年(明治44)に「恩海義嶠」(おんかいぎきょう=めぐみのうみ、ぎはたかし)という
連合艦隊司令長官・東郷平八郎の題字を刻んだ日本海海戦記念碑を建立、
日露戦争100年後の2005年(平成17)には「友好」「平和」の文字を刻み、
東郷平八郎と秋山真之がロシア軍ロゼストベンスキー提督を見舞った場面のレリーフを設置、
初の日露合同慰霊祭を開催して、この地を「日露友好の丘」と命名しました。

    
八重桜                       ヤマザクラ                        ムベ

東横イン対馬比田勝と三宇田浜を遠望
三宇田浜

春の花木を見ながら友好の丘を下りて、対馬では白い砂浜が珍しいと言われる「日本の渚・百選」認定の
三宇田海水浴場へ寄って浜辺を少し歩いた後、ホテルへ戻りました。



8時50分にホテルを出発し、国道382号線を西へ、「街道をゆく 壱岐・対馬の道」(司馬遼太郎)の終着エリアの
上県町(かみあがたちょう)へ向かいました。

    

途中の山裾などに蜂洞(はちどう)と呼ぶ奈良時代から伝わるニホンミツバチの飼育箱を見かけました。
日本で唯一セイヨウミツバチが生息せず、ニホンミツバチしかいない島と言われている対馬に、
近年、中国原産のツマアカスズメバチが朝鮮半島経由で侵入し、生物相のかく乱が危惧されましたが、
すべて撲滅したというのがバスガイドさんのお話でした。
対馬では蜂蜜の他、椎茸を特産品としていて、椎茸ホダ木を並べたホダ場も景観の一つとなっていました。

異国の見える丘展望台

千俵蒔山(せんびょうまきやま)中腹に対馬海峡西水道へ突き出すように造られた「異国の見える丘展望台」は
釜山市まで展望することができる大パノラマを売りとしていますが、
4月という季節柄、ほぼ諦めていた通り、異国までの眺望を得ることは出来ませんでした。
千俵蒔山(標高287m)は上対馬の最高峰・御嶽(みたけ)とともに海峡を航海する船の目標とされた山で、
白村江の戦いの敗戦後には防人が置かれ、現在は2基の風力発電機の設置場所となっていました。

対馬野生生物保護センター
館内展示

10時前に到着した対馬野生生物保護センターはツシマヤマネコの生息核心地域にあり、
ツシマヤマネコを中心とした野生生物の保護・情報収集・公開を目的に1997年(平成9)につくられた施設です。




大陸と対馬・日本本土は現在と比べて海水面が低かった約15万年前の更新世後期の氷期には陸続きでつながり、
約10万年前の間氷期に対馬と大陸の間に海峡ができて対馬が大陸と離れた後、日本本土の間にも海峡ができ、
約6~2万年前の最終氷期に対馬と日本本土は再び陸続きになった後、約2万年前に氷期が終わり、
対馬は大陸とも日本本土ともつながることのない島になったと考えられています。
そのような地球環境から誕生したのが対馬特有の生物相です。

鳥のはく製・ネズミなどの骨格標本 アカマダラ(大陸型)

日本本土には生息しないアカマダラや様々な生物のはく製や標本、ジオラマなど工夫された展示物を見学後、
この博物館の主役であるツシマヤマネコを見に行きました。




  

    

ストレスを与えないようマジックミラー越しにツシマヤマネコを観察する公開エリアに住むかなた君は、
対馬の古代山城の金田城(かなたのき)と福岡の「彼方(かなた)」の動物園から来たことに名前が由来、
この日の翌日、4月13日に10歳(人間換算では50代)の誕生日を迎える4代目の公開ツシマヤマネコで、
名前には海の彼方からもたくさんの来園者が来てほしいという願いも込められているそうです。

日本では対馬にだけ生息する野生のネコ科ツシマヤマネコは、
10数万年前に陸続きだった大陸から渡ってきたと考えられているベンガルヤマネコの亜種で、
1971年(昭和46)に国の天然記念物、1994年(平成6)に国内希少野生動植物種に指定されています。
成体の体重は3~5kg、体長50~60cmで、イエネコとほぼ同じですが、
体全体の斑点模様、額の縞、耳裏の白斑(虎耳状斑)、丸顔、太く長い尾、胴長、短足などを特徴としています。
はじめは小屋の中にいましたが、センター内の展示物を見ている所へ、
「小屋から出て来た」というツアー仲間からの情報が入り、運よく、外を歩き回る姿も見ることが出来ました。
動物園生まれで野生知らずのかなた君は夜行性と無縁かもしれないとも思われましたが、
開園直後や夕方には動き回る姿が見られるかもしれないという情報が掲示されていました。


11時前に対馬野生生物保護センターを出発、前日通った道を下対馬へ向けて南下していきましたが、
稲作も盛んという上対馬の国道沿いの風景は山がちというよりも穏やかな田園風景で、
新緑の木々の中で自生のゲンカイツツジが鮮やかな色を見せる春景色も見飽きないものでした。

  

12時頃、万関橋のたもとのレストラン「つしま亭 さと」に到着、クロマグロのサイコロステーキ定食をいただきました。
浅茅湾ではクロマグロ、ブリ、真珠などの養殖が盛んに行われているそうです。


万関瀬戸
万関橋

水雷艇を対馬海峡東水道に出撃させるために1901年(明治34)に日本海軍が浅茅湾と三浦湾の間に
開削したのが万関瀬戸で、その上に万関橋が架けられていました。
当時は幅約25m、深さ3mの運河でしたが、その後拡げられて幅40m、深さ4.5mの運河上に
1996年(平成8)に架け替えられたのが現在の3代目の万関橋です。
整備された端正な運河を下に見ながら徒歩で万関橋を渡り、対岸からバスに乗って厳原町へ向かいました。

旧藩校日新館門 金石城櫓門

トンネルをいくつか抜けて、厳原町桟原(さじきばら)に入ると、車窓に旧藩校日新館門が見えました。
桟原町は1659年(万治2)と1661年(寛文1)の大火からの復興をかけて、
対馬3代藩主・宗家21代の宗義真(よしざね)が港からあえて遠い場所に桟原城を築き、
新たな町割りで城下を南北に貫く馬場筋通りを整備し、数百人に及ぶ朝鮮通信史の行列が練り歩くことで、
通信使来聘(らいへい)を実現させた藩主や藩の威容を内外に示したと言われています。
旧藩校日新館門が往時の繁栄の名残を留めていました。


江戸時代に対馬を治めた藩主・宗氏は、戦国時代の金石屋形を近世の城に改築、対馬政庁としていましたが、
上記の2度の大火で厳原市街焼失後、城下の再建を行ない、
1669年(寛文9)に大手門を築き、櫓(やぐら)を建て、金石城と呼ぶようになりました。
江戸時代に消失後、すぐに復元された2代目の大手門は大正時代に解体、
現在の櫓門は1990年(平成2)のふるさと創生事業で建てられた3代目で、
金石城跡は国の史跡に指定されています。

対馬朝鮮通信使歴史館


厳原の町でバスを降り、先ず対馬朝鮮通信使歴史館へ行きました。
2017年(平成29)3月に「朝鮮通信使に関する記録」をユネスコ「世界の記録」に登録申請をしたことを契機に、
対馬市のまちづくり団体が「朝鮮通信史によるまちづくり」を提言したことで構想され、
基本計画策定や実施設計を経て整備を行い、2022年(令和3)に開館したのが対馬朝鮮通信使歴史館で、
朝鮮通信使の歴史的な意義とその記録の重要性が高く評価された「朝鮮通信使に関する記録」は
登録申請をした2017年10月にユネスコ「世界の記録」に登録されています。


エントランスホールの展示物の前でユネスコ「世界の記憶」登録までの道程、通信使研究や普及活動など、
学芸員の文さんから熱いレクチャーを受けた後、館内展示で朝鮮通信使の歴史や対馬の役割などを学びました。

日朝交流を支えた対馬藩外交の最前線で活躍し、後世まで語り継がれているのが
江戸時代中期に真文役(外交官)として対馬藩に仕えた儒学者の雨森芳洲(1668-1775)で、
「互いに欺かず争わず真実をもって交わる」という芳洲の「誠信の交流」の思想が歴史館のテーマとなっていました。
1990年(平成2)に来日した盧泰愚(ノテウ)韓国大統領が宮中晩さん会のスピーチで芳洲と親交のあった玄徳潤の
「誠意と信義の交際」を高く評価し、未来志向の日韓関係に言及したことも今に伝えられています。


偽造印(複製)

朝鮮が通信使と呼ばれる外交使節団を日本へ送った室町時代から江戸時代に両国間で
外交の実務と貿易を独占してきたのが対馬の守護、後に藩主となった宗氏で、
16世紀末の秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役の後、両国の関係は一時途絶えていましたが、
1607年(慶長12)に朝鮮が派遣した使節を契機に通交が再開され、以後、江戸幕府への使節は
将軍の代替わりなどの慶事の際に派遣され、この時を含めて合計12回に及びました。
使節派遣が再開された背景には、朝鮮との貿易が生命線であった対馬藩の工作があり、
対馬藩が徳川家康の国書を偽造して朝鮮に使節の派遣の再開を要請すると、
それに応える形で幕府に使節を送って国書を渡しましたが、
その国書も辻褄を合わせるために対馬藩が内容を改ざんしてすり替えたものでした。
その後も国書の改ざんは繰り返され、藩主宗氏とその家老である柳川氏との権力抗争により、
1635年(寛永12)に改ざんが幕府の知る所となりましたが、3代将軍徳川家光自らの裁定の結果、
宗氏の地位は保たれ、対朝鮮外交は引き続き対馬藩が担当することになりました。
その後、1871年(明治4)7月の廃藩置県で対馬藩は厳原県、わずか2か月後に佐賀県と合併して伊万里県となり、
翌年5月に長崎県に編入されると、釜山の倭館は外務省に引き継がれ、
朝鮮との外交を担っていた対馬の役割は終ることになりましたが、
200年以上の長きに渡って、隣国同士が平和的関係を築いたことは世界史上も稀有なことであると
1970年後半頃から朝鮮通信使がクローズアップされ、高い評価を得るに至ったそうです。
                 (参照:対馬博物館図録・展示パネルなど)

朝鮮通信使船の模型 朝鮮通信使行列人形

往復4千kmの苦難の道中を5~8カ月かけて続けた朝鮮通信使ですが、
江戸まで警護、随行した対馬藩が負った負担も100万両(約518億円)に及んだと言われ、
日朝貿易から得られた藩の利潤は莫大で、島内の少ない生産力に関わらず十万石を名のる高い格式を得た宗家は
特殊な位置付けをもった大名だったと考えられています。
鎖国の江戸時代に朝鮮外交を通じて、物資のみでなく、芸術・学問などの文化交流も行われ、
今日の日本文化の礎のひとつとなった歴史の一面も見逃すことができません。

      
万松院山門・仁王堂

14時半過ぎに対馬朝鮮通信使歴史館を出て、徒歩で国指定史跡・万松院(ばんしょういん)へ向かいました。
万松院は宗家20代の義成(よしなり)が父義智(よしとし)の菩提のために1615年(元和1)に創建した寺で、
寺名は父の法号に因んでいます。
数度の火災により焼失し、現在の本堂は1879年(明治12)に再建されたものですが、
山門は江戸時代前期、仁王堂は1737年(元文2)に造営の焼失から免れた対馬最古の建物です

宗氏は系譜上では桓武平氏、平知盛の子友宗の子孫と称していますが、
対馬の在庁官人惟宗氏の出で、「惟宗」を略して「宗」とし、鎌倉時代に宗重尚が小弐氏の命で
対馬の在庁官人阿比留(あびる)氏を討って対馬守護代となり、室町時代に守護に昇格して対馬の支配権を確立、
7代貞茂は一時対馬守護代をつとめ、筑前にも勢力を広げましたが、後に大内氏に追われて対馬へ戻り、
8代貞盛は1443年(嘉吉3)に朝鮮と嘉吉条約を結んで日朝貿易を始め、以後日朝貿易を独占し、
室町中期に小弐氏から独立して、この頃から平姓を称するようになったといわれています。
19代義智は秀吉の九州攻めの折に秀吉に降り、本領を安堵されて朝鮮との和平交渉役をつとめた後、
江戸時代には徳川家康に従い、対馬藩初代藩主となって朝鮮通信使来聘に尽力したというのが
宗家始まりの歴史のあらましです。
                        
万松院本堂

皇室下賜の扁額「萬松積舎」

徳川歴代将軍御位牌安置所
三具足

万松院は外観、内部共に落ち着いた佇まいの天台宗寺院でしたが、
皇室下賜の扁額、朝鮮国王から贈られた三具足(みつぐそく=花瓶・香炉・燭台)、徳川歴代将軍御位牌安置所、
格式の高い五七桐紋など、外交上威光を示す必要があった宗家の一面を表わしているとも見受けられました。

対馬藩主宗家墓所 諫鼓

本堂と隣接して金沢市の加賀藩主前田家墓所、萩市の毛利藩主墓所とともに
日本三大墓地のひとつに数えられる対馬藩主宗家墓所がありました。
墓所入口の近くに置かれた諫鼓(かんこ)は人民が領主に対して諫言をする際に鳴らす鼓のことで、
鳴らされないことは善政が続いていることになり、「諫鼓苔蒸す」「諫鼓鶏」(閑古鳥は同音異義)など、
苔蒸す(こけむす)や太鼓の上で鳴かない鶏が平穏な世の中を象徴する言葉の語源となっています。

百雁木 御霊屋

雁木(=石段)が132段あることから百雁木(ひゃくがんぎ)と呼ばれる石垣や石塀に囲まれた石段を上がると、
宗家一族の墓所の御霊屋(おたまや)があり、最も高い位置に設けられている上御霊屋には
宗家19代から32代までの藩主とその夫人や子の墓、
中御霊屋と下御霊屋には10代貞国と側室や子、幕末以降の当主の墓が建てられていました。

19代義智(よしとし)の墓 20代義成(よしなり)の墓

鎌倉時代から対馬を統治し、朝鮮出兵、国交回復の和平交渉など苦難の生涯を送った初代藩主19代義智の墓は
江戸初期の様式である砂岩製の宝篋(ほうきょう)印塔で、
大阪夏の陣・島原の乱に出陣、国書偽造に端を発する柳川事件の時の藩主で、
佐須銀山の再開発など藩政の基盤をつくった20代義成の墓は花崗岩製の五輪塔となっていました。

21代義真(よしざね)と夫人の墓 22代以降の墓

桟原館の築造や金石城の拡張、お船江建設など宗家の黄金時代を築いた中興の祖、
21代義真と夫人の墓が威容を誇り、それ以降は宗家の衰退と共に小規模化していった様子が見受けられました。


長崎県天然記念物の大杉


万松院の建立前から生えていた言われる樹齢1200年の3本の大杉が宗家墓所に一層の風格を添えていました。
立ち枯れに見えた1本の大杉には芽出しが見られましたので、復活が期待されます。

旧金石城庭園
李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑

万松院を出て対馬博物館へ向かう途中、旧金石城庭園がありました。
1947年(昭和22)にこの場所に設立された厳原中学校が1979年(昭和54)に桟原へ移転した後、
実施された発掘調査に基づき、覆土で現状を保存しながら、
1999年(平成11)より2004年(平成16)にかけて行われた修復及び整備工事によって復元された庭園で、
玉砂利敷きの州浜状汀線から巨大な景石へ連続する対馬東海岸を模したと言われる心字池の意匠、
漏水防止のために種類の違う粘土を交互に重ねた版築工法、中島に架かる石橋周辺など見所となる部分に
対馬固有の石英斑岩の白色風化土を用いて化粧を施すなど、近世庭園としては稀な構造が見られ、
2007年(平成19)2月6日に国の名勝指定を受けています。

旧対馬藩当主・宗武志(たけゆき)伯爵が朝鮮王朝最後の皇女・徳恵姫と1931年(昭和6)に結婚したことを記念し、
当時対馬に住んでいた韓国の人々によって建立された記念碑が庭園入口近くにありました。
李家からの離縁要求により1955年(昭和30)に離婚、妃が1962年(昭和37)に韓国へ帰国した後、
記念碑は撤去されましたが、2001年(平成13)に復元されて、韓国人観光客の人気スポットとなっていました。

対馬博物館 金石城櫓門と清水山方面


3日目にバス車窓から写した対馬博物館

対馬博物館は基本計画から6年半の歳月をかけて、2022年(令和4)4月に金石城跡に開館した博物館で、
金石城の石垣に合わせた屋根の配置、長い庇など、対馬の歴史や自然との調和を重視したデザインによって、
「対馬を伝え、交わりを生み、つないでいく」という博物館のコンセプトを表現していました。



金石城跡後方の清水山の一画に、秀吉の朝鮮出兵の名護屋城と釜山を結ぶ輸送・連絡の中継地点として
1591年(天正19)に築かれた清水山城がありましたが、壱岐の勝本城同様、朝鮮半島から撤退後は廃城となり、
城跡は国指定史跡となっています。

「対馬の営みや自然環境を連想させる資料を展示することによって、
古代から近現代の各展示室への導入となる空間を演出します。」という総合展示室から
各時代の展示室へと導かれ、対馬再発見、再認識の時間を過ごしました。
写真撮影フリーの館内で撮って来た写真を少々ご紹介しましょう。


[ 総合展示室 ]
    

万葉集には遣唐使・遣新羅使だけでなく、白村江の戦いの後、九州沿岸の地に東国から派遣されて防備の任につき、
自給自足で3年の任期を終えても故郷に帰りつけない防人が大勢いて、
望郷、家族への思いにあふれた哀しい防人の歌が100首近く掲載されています。

[ 弥生時代~古墳時代の出土品 ]
   
かがり松鼻遺跡                  増田山遺跡                     増田山遺跡
    
矢立山古墳                      保床山古墳                     保床山古墳
    
[ 平安時代~安土桃山時代:海がもたらした対馬の繁栄 ]


 倭寇絵巻の前で朝鮮通信使が生れる前の宗家の歴史の一端に触れました。
「13世紀以降の朝鮮半島や中国大陸では、倭寇と呼ばれる武装集団が略奪や私貿易、密貿易を行いました。
朝鮮は彼らを武力で征伐した一方で、平和な通交者となる者には官職や経済的利益を与えました。
通交者たちは朝鮮半島南岸の様々な港に無秩序に来航したため、15世紀前半に朝鮮は通交を制限し始め、
特定の港にのみ日本からの渡航を許可しました。
こうした通交規制と前後し、朝鮮は倭寇討伐を名目に対馬を攻撃しました。
1419年(応永26)に起こったこの事件を「応永の外寇」と呼びます。
戦後、朝鮮と関係を修復した対馬当主の宗貞盛(8代)は、文引(ぶんいん)と呼ばれる渡航証明書の発行を担いました。
文引制度が確立すると、朝鮮が宗氏を通して通交者の統制を強めるとともに、宗氏は島内での権力を固めました。」
                 (博物館・展示説明文転写)

    
    亀卜(きぼく)                    懸仏(鎌倉時代)                  懸仏(室町時代)
  
和韓混淆梵鐘(室町時代)                       如来坐像(高麗時代)

[ 安土桃山時代~江戸時代 ]
    
高麗茶碗(金石城出土)      紺糸縅(おどし)五枚道具足(江戸時代)       染付唐草紋碗(肥前)

[ 自然史展示 ]
    
    対馬産ツマキチョウ              ツシマテン・ツシマヤマネコ             花崗岩・石英斑岩・玄武岩

対馬博物館で興味深い様々な展示物を観覧後、16時40分頃、対馬博物館駐車場からバスに乗って、
17時前に東横イン対馬厳原にチェックインしました。
部屋でひと休みした後、18時半に徒歩でホテル近くの「志まもと」へ夕食に行きましたが、
小雨が降っていて、この旅で初めて傘をさしました。
天気予報に気がもめたこともありながら、結果的にはお天気にも恵まれた幸運な旅になりました。

   
ランドマーク?「東横イン対馬厳原」                     「志まもと」    

   

旅の最後の夕食は旅行社からサービスされるワンドリンク(私は数人でワインボトルをシェア)で乾杯した後、
対馬の石英斑岩を熱し、その上で魚介類などを焼いて食べる郷土料理「石焼き」をメインに、
写真からも鮮度が伝わる対馬の幸を存分に味わいました。

  

比田勝とほぼ同仕様のコンパクトな東横イン対馬厳原の室内ですが、宿泊には充分な設備がありました。

                     *4日目歩数(スマホ計測):13442歩


目次][5日目